(6)老いの予感
「八杉、おばあちゃんち。八杉、おばあちゃんち」と電話が鳴った。小学生時代の充が吹き込んだ、おばあちゃんちからの電話に固有の呼び出し音だ。
部屋に戻りかけていた歩が、近くの受話器を取った。
「もしもし、おばあちゃん? ちがうよ、歩だよ。うん、うん。中学三年。そうだね、うん。ちょっと待って、スピーカーホンにするね。スピーカーホン。スピーカー! スピー……みんなで話ができるようにするから」
歩は受話器のボタンを押してモードを変え、ソファ前のテーブル中央に置いた。
「もしもし?」
おばあちゃん──朗の母・香守茂乃(しげの)の老いた声がリビングに響いた。
「はい、こんばんは」と朗が応えた。
しばらく他愛ない近況交換が続く間、歩は小さな声でみなもに「おばあちゃん、学年すぐ忘れるんだ。毎回小学六年生だと思ってたっていわれる」とぼやいた。「もう八十だからねえ、仕方ないよ。あゆたんはいつまでも子供のイメージなんだよ、きっと」とみなもは応えた。
「そーで、老人ホームの手配したのは朗かや」
「老人ホームて、何のこと」
「なんだい今日の郵便で来ちょったで。ちょっと待ちないよ、えーと……松映、シニア、レジデンス。松映に新しく老人ホームが出来ーけん、入居者を募集すうてパンフレット」
「あだん、知らんでえ?」
父しゃんはおばあちゃんと話す時は素の澄舞弁になる。香守家の日常では聴けないものだ。母しゃんが他所の出身なので、家では誰もが基本的に標準語だ。大学も他県出身者が多いから、みなもが澄舞弁を聴く機会はほとんどない。これも人間関係の投影なのだろう。
「そげかや。朗が私に送ってごいたかと思ったあもん、違あだな。じゃあ捨ててもえだね?」
「知らんけん、いいだないの」
「じゃあ、そげすーわ。私はもう長いこと独りで暮らいちょって、独りが気楽でいいだ。それを覚えちょいてよ。余計なことはせんでいいけんね」
「うん、前から聴いちょーけん。分かっちょーけん」
朗の口調はどこか突っ慳貪だ。それから二言三言を交わして、朗は電話を切った。
「そういえば、しばらくお母さんに会いに行ってないんじゃない?」と和水がいう。「用事がなくても、たまにみんなで八杉に顔を出した方がいいと思うな」
「まあねえ、また考えるよ」
朗は気が進まない風だ。
茂乃は八杉で独り暮らしをしている。自宅で今も細々と書道教室を主宰し、週に二回は生徒に教えているから、誰も知らないうちに独りで衰弱するような心配はあまりしていない。それでも年齢を考えれば、いつまでもこのままというわけには行かないだろう。
その時、みなもの掌でスマホが震えた。発信者表示は──。
「あれ、おばあちゃんからだ」
みなもは受信ボタンを押してスマホを耳に当てた。
「もしもし、おばあちゃん?」
「ああ、和水さんかい?」
「ちがうよ、みなもだよ」
「ああ、みなもちゃん」
「うん」
「久しぶりに声聞いたねえ、お母さんにそっくり」
「うん」
「今、何年生だかいね。待ってよ、いわんでよ。えーと、中学三年?」
「ちがうよ、それはあゆたん。みなもは大学三年生」
「あだん、もうそげに大っけになったかね。歳はなんぼになった? えーと、二十一歳?」
「そうだね」
「あだん、もう大人(おせ)だがね。まだ子供のような気がしちょったわ」
「うん」
さっきのあゆたんとおばあちゃんの会話は、こんなだったんだろうな。
「あ、そーで、お父さんに聴いてごしないね。今日ね、お父さんから老人ホームのパンフレットが届いてね」
あれ?
「おばあちゃん、それさっき、お父さんと話してたパンフレットのこと?」
「はあ? お父さんと話しちょった?」
「そう、さっき」
「電話で?」
「そうだよ。松映シニアレジデンス」
「ああ、そおのこと。あだん、思い出いた、さっきお父さんと話いたわ。歳取るとすぐ忘れえだ。パンフレットはお父さんのじゃないってことだったが」
「そうだね、捨てていいよって」
「あー、安心したわ。お父さんにいっちょいて。私はもう長いこと独りで暮らいちょって、独りが気楽でいいだ。余計なことはせんでいいけんねって」
「うん、分かったよ。伝える」
それさっきもいってた、とは口にしなかった。
電話を切って顔を上げると、みんながみなもを見つめていた。スピーカーホンではなかったけれど、みなもの発話から大体のことは分かったようだ。
「……老人ホームのパンフレットがどうこうって。お父さんにしてたのと同じ話じゃないかな」
「そっかあ」
朗は目を伏せた。和水はその様子を少し見守っていたが、意を決したように口を開いた。
「こないだの話もあるし、やっぱり様子を見に行った方がいいよ」
「うん」
朗は言葉少なく、やはり煮え切らない様子だ。会話の筋が読めないみなもと歩に、和水が説明する。
「こないだね、書道教室の生徒さんから電話があったの。最近おばあちゃん、同じ話を繰り返したり、少し様子がおかしいんだって」
「あ、それは心配」とみなも。「でしょう」と和水。歩は黙って耳を傾けている。
朗が、ふう、と息をついて言った。
「わかった、週末に様子を見に行ってくるよ」
だれもが認知症を予感し、しかし誰もが、しっかり者のおばあちゃんのイメージと結びつかなかった。きっと大したことはない。そう思いたかった。
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