(5)インターンシップの行き先

 食事までまだ少し間があるので、先に自室で明日の準備をしておくことにした。

 一階北側の八畳洋間。作り付けのクローゼットから、衣類一式を取り出して点検する。明日の澄舞県庁インターンシップに着ていくスーツだ。

 澄舞大学では、官公庁や民間企業のインターンシップ(職場体験)に参加した場合は一単位、卒業単位数に算定することができる。もちろん、事前の学内レクへの参加や事後のレポート提出を含めてのことだ。三年生にとって、卒業後の将来をリアルに受け止める機会でもある。

 過疎県・澄舞では「就職するなら役所か銀行」と言われる。もちろん単純化した物言いであって条件が良く安定した就職先は他にもあるのだが、新卒採用数と若者人口とのバランスは十分と言い難く、進学を第一の、就職を第二の機会として若者が県外流出しているのが、澄舞の現実だ。逆に秀一のように、県外から澄舞に進学してそのまま就職するケースもあるが、少数にとどまる。

 みなもにはまだ、就きたい職業が定まっていない。公務員も選択肢のひとつではあったけれど、澄舞県庁の例で言えば行政職採用試験の倍率は年により三~十倍。秀一と違い行政法などの社会科学を専攻しているわけでもなく、昨年すま大から国・県・市町村の公務員試験を受験した者の少なからぬ数が不合格となった状況を知っているだけに、腰が引ける。

 それでも、秀くんがどんな職場で働いているのか、という好奇心はあった。それが澄舞県庁のインターンシップに応募した最大の理由だった。

 澄舞県庁は本庁だけでも十部局六十七課の大きな組織だ。国の場合は、教育なら文部科学省、道路なら国土交通省など、それぞれが個別の法人である省庁ごとに担当する行政分野が異なる。対して自治体は、ひとつの法人組織で全ての行政分野を担う総合行政を特色とする。そのため部局のバラエティは豊かだ。

 しかしインターンシップは基本的に特定の課、または同じ部局の二~三課で数日間を過ごすことになるため、学生の志望と組織の受入体制とのマッチングが必要になる。

 エントリーシートの「希望部課または分野」を書く際、みなもは少しだけ頭を悩ませた。福祉保健、教育、農林水産、県土整備……部局を見比べても、これだ、というものが思いつかない。本音では、企画部広報課なら秀一がいるので心強いし、仕事も面白そうだ。その一方で、さすがに彼氏のいる部署を希望するのは公私混同に過ぎるかも、という冷静な判断もあった。それでも、何かをPRする広報的な仕事に関心があるのは、嘘ではない。なので素直にそう書いて、具体的な部課は書かなかった。県庁側で広報課をあてがわれたらそれはそれでラッキー、と微かに期待もしながら。

 後日、県庁から届いた決定通知に記されていたのは、広報課ではなかった。

「生活環境部生活環境総務課(消費生活安全室)」

 軽い落胆の一瞬が過ぎると、戸惑いがさざ波のように広がった。まず、長い。漢字ばっかりで間違い探しのように目がチカチカする。生活環境。消費生活。うーん? 環境という言葉は、ゴミ処理や地球温暖化対策などを想像させる。でも、生活と消費は、言葉の意味は簡単でも役所が担う仕事がすぐにはイメージできなかった。

「消費者からいろんなトラブルの相談を受けたり、違法な業者の取り締まりをするところだね」

 秀一に尋ねると、そんな答えが返ってきた。

 県庁一年生の秀一が巨大組織の一部署についてサラッと答えることができるのは、彼が広報課職員だからだ。政策部広報課は、県庁が対外的に発信する情報の集約点、いわゆる情報ハブだ。職員は自然と県庁全体の組織構成や最新動向を知ることになる。とはいえ、詳しく業務内容を説明できるだけの知識があるわけでもない。

 澄舞県庁のホームページには、全ての部署のページが用意されている。みなもは消費生活安全室のページを確認した。文字だらけでずらずら縦に長い構成にうんざりし、法律とか条例とか補助金とかの固い説明も眠たくなるばかりだったけれど、なんとなく対象とする領域が分かった気がした。

「気がした」だけかもしれない。いやむしろそうに違いない。明日からのインターンシップを考えると、みなもは不安と期待が入り混じった気持ちになる。

「にゃもちゃん、ご飯できたよー」

 部屋の外から歩の声。はーい、と答える。

「大丈夫。私は、やる時はやる女だ」

 みなもは自分に言い聞かせるように呟いて、クローゼットの扉を閉めた。


 食事を終えた休息の時間。和水はラタンの椅子に腰を下ろしている。碧がかったガラスのカップでジャスミンティーをすすり、ほう、と溜め息をつく。

 テーブルの向こう端にテレビのリモコンがあった。少し身体を伸ばせば届く位置だ。

 でも。

 和水はトイレから戻ってきた朗を見上げ、にやりと笑った。 

「オッケー父しゃん、テレビ点けて」

「えー、父しゃんはグーグル先生じゃないよ?」

 朗は笑って愛妻を見下ろす。

「オッケー父しゃん。あれ、反応しないな。じゃあ、ヘイ尻!」

 iOSに呼びかけるみたいにいいながら和水は夫のお尻を右手で撫でた。朗はお尻を左右に振りながら難しい顔をして腕組みをし「これは母しゃんの手が父しゃんのお尻を撫でているのか、それとも父しゃんのお尻が母しゃんの手を撫でているのか」と呟いた。

「禅問答?」

 思わずみなもがツッコミを入れると、朗は満足そうに笑った。それから振り返り

「母しゃん、自分で手が届くでしょ」

「とどかなーい。母しゃんちっちゃいから。だから音声認識リモコン使うよ。オッケー父しゃん、テレビ点けてー」

 朗は何かうまいこと言い返そうと二秒考え、何も思いつかず諦めてリモコンに手を伸ばし、テレビを点けた。チャンネルはすまテレ、ローカルニュースの合間のCMが流れていた。

「父しゃんリモコン便利ー」

「便利? やったあ、じゃあご褒美ご褒美」

 朗は背後から和水に抱きつき、首に鼻を押し当てて匂いを嗅ぎ始めた。そんな夫を、和水は後頭部をぐりぐりと押しつけて排除する。

「リモコンはご褒美なんか欲しがりません」

「えー、じゃあおっP」

 朗が言い終えるより速く

「おう、一丁揉んでやろう」

と和水は胸元に伸びてきた腕を払いのけ、逆に両手で朗の胸を揉みしだいた。ぎゃはははは、と朗は笑って身を捩った。

 みなもと歩は、そんな両親のじゃれ合いを眺めながら、口元を緩ませていた。

「バブみ入ってるねえ」と、みなも。

「まあ、いつもこんなだし」と、歩。


 みなもが物心ついた頃には、もう両親はこんなだった気がする。幼いみなもが思いっきり父しゃん母しゃんに抱きついて温もりと匂いと幸せを感じたように、父しゃん母しゃんも互いにそうしていた。充が生まれ、あゆたんが生まれても、それは変わらなかった。ただ、同居していたおばあちゃんの前では、二人は居住まいを正していたように記憶している。この家に越してきた後も、おばあちゃんが遊びに来る時だけは、二人とも大人しい。

 どこの家でもお父さんお母さんはそういうものなのだ、と思っていた。でも、テレビドラマで出てくる夫婦の様子は、どうも我が家とは違う。小学校五年生の頃、何かの拍子に友人たちにその話をすると、「えー、みなちゃんち、おかしいよ。うちのお父さんとお母さんは、子供の前でくっついたりしないよ?」と驚かれた。翌日には「みなちゃんちのお父さんとお母さんは人前でイヤラシイことをしている」とニュアンスの異なる話がクラスに広まり、みなもはとても嫌な気持ちにさせられた。

 思春期の入口の時期。父しゃん母しゃんのせいで恥ずかしい思いをした、という意識が、しばらくの間、みなもを頑なにした。ただ、文句をいっても二人のいちゃこらがなくなるわけではなかったし、それに──二人は間違いなく幸せそうに見えた。

 他の家のお父さんお母さんと比べて、うちの父しゃん母しゃんは、変わっているのかも知れない。でも、家の中でいちゃついている分には、誰に迷惑をかけるわけでもないじゃないか。高校に入る頃にはそう思えるようになって、夫婦のコミュニケーションは放っておくことにした。家庭内呼称レポートの石川先生のコメントに涙がこみ上げたのには、青年期に至るまでのそんな心の変遷を経験していたからなのだと、みなもは思う。

 ただ、当時中学生の充は、その後この春に家を離れる間際まで、ずっと嫌がっていた。末っ子の歩は、自分が溺愛されているせいか、何も気にならない風だった。


「おっぱい揉むの!」

 四十九歳児の朗が駄々をこねると、四歳下の和水は「はい、どうぞ!」といって、朗の両手を掴み朗自身の胸に押し当てた。

「ちがーう、母しゃんのおっぱい!」

「あなたのお母さんは八杉にいるじゃない」

 うっ、と朗は一瞬たじろいだ。

「……あっちは、お母さん。こっちは、母しゃん」

「そうだね」

「母親のおっぱいは大きくなれば卒業するけど、奥さんのおっP」

「うりゃあ!」

「ぎゃはははははっ」

 さすがにこういう睦言までは、レポートには書けないなあ。


 ニュース再開の冒頭、アナウンサーが口にした「澄舞県消費生活センター」の単語が、みなもの意識を捉えた。振り向くと、県が通販業者に行政処分を行った旨のテロップが表示されていた。背景には灰色をしたガラス張りのビルが映っている。センターは県庁本庁舎ではなく、近隣のビルを間借りしていると秀一から聞いていた。

「ここだよ、にゃもが明日から行くところ」

 みなもも家の中では一人称が「にゃも」になる。先ほど食卓でインターンシップを話題にしたばかりだった。

 みなもはテレビ正面のソファに移動した。ダイニングチェアと同じ地元家具工房のラタン製。この家を建てた時に購入したもので、年月を重ねた深緑のクッションはすっかりへたっていたけれど、テレビを見るには特等席だ。朗と和水はみなもを挟んで腰を下ろし、あぶれた歩はソファ前の畳に座った。

 カメラが「澄舞県消費生活センター」の看板が掲げられた入口からオフィスへ入っていく。

「父しゃん、たまにここ行くよ」

「え、なんで?」

「営業。県庁はお得意様だからね、印刷発注のある部署は定期的に回るんだ」

 朗は松映市街に本社を置く黒帖こくじよう印刷の営業課長だ。家庭で仕事の話はしないので、みなもは父のサラリーマンとしての姿をほとんど知らない。

 画面に行政処分を担当した女性職員が登場し、会議テーブル越しにインタビューに応えていた。三十代半ばくらいだろうか、細く整った眉、綺麗な目、長い髪は耳元から軽くウェーブし、薄紺の明るいスーツの肩にかかっている。女優みたいに美形のお姉さんだな、とみなもは思った。テロップには「二階堂麻美主任」とある。

 彼女は、落ち着いた語り口で、今回の行政処分の対象となった違法行為を説明していた。

「八千円の健康食品を今なら八割引のお試し価格一六〇〇円で販売する、というネット広告でした。これを見た県民の方がお試しならと申し込んだところ、実は最低六回の定期購入契約になっていて、八割引は最初の一回だけ。つまり、総額四万一六〇〇円の支払を求められたんです」

 解説画面に変わり、アナウンサーがイラストを用いて手口の解説を始めた。安い価格を派手な文字で表示し、定期購入契約であることは画面をずっとスクロールした下の方に小さな文字で書かれている。気付かずに「承諾します」のチェックボックスを入れて申し込んだ消費者は、最初の荷物に同梱された書類で、初めて契約内容と総額を知る事になる。

 驚いた消費者が解約したいと電話をしても、「ただいま回線が混み合っています、後ほどお掛け直しください」との自動音声が流れ、なかなか繋がらない。やっと繋がったと思ったら、女性オペレーターから男性社員に代わり「身勝手な人だなあ、六回まで解約できないことは、承諾して注文した筈でしょう!? 期限内に支払がなければ裁判を起こすからね、東京の裁判所まで来てもらうよ」と威圧される。

 四万円あまりの価格設定は、絶妙だ。少なからぬ人が、これくらいなら払ってしまって面倒を避けたいと思い、泣き寝入りする。

 実際のところ、通信販売にはクーリング・オフ(消費者側からの無条件解約)の制度がなく、今回のように広告表示の違法性に対する行政処分はできても、契約した消費者が払わずに済むような民事救済はかなり難しい。弁護士費用を払ってまで戦う甲斐のある額でもない。

「でも、そこで諦めちゃダメ!」

 突然二階堂麻美の顔がアップで映し出された。先ほどまでの落ち着いた佇まいはどこへやら、会議テーブルから身を乗り出し、強い視線がカメラから画面のこちら側まで射通していた。

「法律の隙間を縫ってずるい商売をする連中はたくさんいる。間違いは、間違いだ。事業者の不公正は、苦情を言って改めさせなきゃいけない。今の法律で被害者を救えないなら、法律を変えればいい。皆さんの小さな声が集まれば、社会を改善する力、法律を変える大きな力になるんです。黙って泣き寝入りはやめよう。消費生活センターは正義の味方、困った時は電話番号188、『だまされるのは「いやや」』まで!」

 一気に吠えると、彼女は大きく肩で息をついた。

 画面がスタジオに変わった。

「いやあ、熱いメッセージでしたね。みなさんに届きましたでしょうか」

と冷静な男性アナ。続いて女性アナが

「一番のトラブル予防として、契約はくれぐれも慎重に、とのことです」

とこれまた冷静に締めくくり、次の話題へと移っていった。

 香守家の四人が同時に溜め息を漏らした。

「なんか最後、凄かったね」と歩。

「今の職員さん、印刷物の打ち合わせをしたことあるけど、あんな情熱タイプとは知らなかったなあ」と朗。

「でもひどい話だよねえ。総額を隠して部分的な値段を目立たせるなんて、誤解させる気満々じゃない。私も気をつけなきゃ」と和水。

「……」みなも、無言。

 あれ、という顔でみんながみなもを見つめた。

「……かっこいい」

 ?

「かあっこいいいいっ! なに今のお姉さん、正義の味方! 女優、まじ主演女優!! うわあ、明日会えるかなあ。なんか俄然楽しみになってきた!」

「あー、にゃもー、おちつけー」

 朗が引き気味にそういうと、みなもは反射的に「ぺったん、ぺったん」と餅搗きの動作をする。

「よし、餅搗いたな」

「もちついた」

 誰かがハイになった時にクールダウンするための、香守家の儀式だ。 

 ついさっきまで、明日からのインターンシップは期待と不安が半々だった。それは、行き先の仕事のイメージが掴めず、どんな人がいるのかも想像できなかったからだ。でも、今のニュースで一端が窺えたような気がした。普通に生活する中では知る事のできない「社会の裏」に迫る、とても魅力的な職場だと予感できた。

 よし。どんな経験ができるのか、存分に味わおうじゃないの。

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