(4)香守家呼称規則

 みなもの実家は、平成半ばに造成されたいま町の新興住宅地にある。市町村合併によって県庁所在地・まつばえ市に組み込まれたものの、市中心部から少し北へ外れた澄舞大学への通学には、徒歩と電車とバスで一時間あまりかかる。車で直行すれば15分ほどだが、免許を持たないみなもは公共交通機関に頼るほかない。秀一のアパートで親公認の半同棲を始めたことで、通学の不便は大きく解消したことになる。

 その日の夕方、みなもは比嘉今に戻った。碁盤の目を意識しながらもメリハリをつけた街区には、同じような築年数の戸建てやアパートが立ち並ぶ。しかしそのひとつひとつには、それぞれの住人の個性を反映して、異なる趣があった。

 香守家の敷地は道路面から一メートルほど嵩上げされ、道路際からスロープが玄関に続いている。みなもはスロープをゆっくりと上りながら、五日ぶりの我が家を見上げた。赤みがかった明るい土色のサイディング、黒の瓦屋根の二階建て、四十五坪。

 父がこの家を建てたのは、みなもが五歳の時だ。その前は澄舞東端に位置するすぎのおばあちゃんちに皆で暮らしていた。更地に基礎が立ち上がり、棟上げされ、外装そして内装が少しずつ整う過程を、みなもは父に連れられて何度も見に来ていた。それから十六年が経ち、新築時の輝きは失われていたが、この家で家族と共に成長してきた記憶は、みなもにとって他の何にも代え難い宝物だ。

 玄関の引き戸を開けて靴を脱ぎ、右手のリビングに入ると、みなもの両親がくっついていた。正確にいえば、炊事中の母・かずの胴を背後から父・あきらが抱きしめ、幸せそうに目を細めて首筋の匂いを嗅いでいた。少しふくよかで背の低い和水と、細身で背の高い朗の、見慣れたじゃれ合いだ。

「にゃもちゃん、おかえり」と和水がそのまま笑顔を向け、みなもは「ただいま」と応える。

 朗も和水をもぎゅったまま、子供のように顔を輝かせて言った。

「にゃも、大変だ、母しゃんが磁石になっちゃった!」

 んなわけないでしょ。

「そんでな、父しゃん鉄だから、くっついちゃった!」

 二度目の、んなわけないでしょ。

 そんな言葉は胸にとどめて口にはしない。香守家のいつもの風景、突っ込んだら負けだ。

「鉄じゃなくて、ケツアタック!」

 いいながら和水がお尻で朗をポンと押しやると、朗は「うわああああ」といいながらくるくる回転して離れ、再び和水に吸い寄せられるようにくっついた。移動に合わせて声にドップラー効果らしきものを効かせているあたり、無駄に芸が細かい。

「ええい、料理の邪魔」

「邪魔じゃないよ。お手伝いだよ。父しゃんがくっつくと、母しゃん元気になるよ。ほら、旦那にこんなに愛されて、母しゃん幸せでしょ? 幸せでしょ? すーっ、はふう」最後のは愛妻の首の匂いを吸い込んでオキシトシンだだ漏れの呼吸音。

 みなもは思う。父しゃんは犬タイプだ。飼い主が大好きでちぎれんばかりに尻尾を振って顔をなめ回す犬のように、いつも母しゃんにまとわりついている。母しゃんは猫タイプだ。父しゃんのじゃれつきを時には軽くあしらい、時には撃退して、気の向いた時には自分からじゃれていく。

 結婚して二十四年、どんだけ仲いいんだか。

 その時、二階から下の弟のあゆむが下りてきた。

「にゃもちゃん、おかえり」

「あー、あゆたん、久しぶりー」

 みなもは相好を崩した。

 中学三年生、締まった細身の体つきは、この夏の大会で引退するまで陸上部で汗を流してきた賜物だ。背丈はもうみなもを越したが、顔立ちにはまだ多分に幼さが残っている。

「大きくなったねえ、先週より背が伸びた?」

「んなわけないでしょ」

 しまった、私が突っ込まれてしまった。

 六歳下の弟は可愛くて仕方ない。家族で立ち会い出産だったので、生まれた直後に抱っこさせてもらえた。大きくなるまで何度もおむつを替えた。だから気持ちはほとんど保護者だ。

 昔のように抱きしめて頬ずりしたいところだけど、今やあゆたんも思春期男子、がまんがまん。

 父しゃんは少しも我慢せずに母しゃんにくっついて、邪険に扱われて悦んでいる。あんな風に「大好き」を素直に──素直すぎるくらいに言葉と態度で表わせたら、幸せなんだろうな。


 香守家には独特の家族間呼称ルールがある。

 父・朗は「父しゃん」、母・和水は「母しゃん」。長女のみなもは「にゃも」または「にゃもちゃん」と呼ばれる。末っ子の歩は「あゆたん」。みなもの二歳下の弟で、この春に東京に進学して家を離れた充だけは、そのまま「みちる」だ。

 これらの呼称は、どれも幼い頃のみなもの言い方だった。「おかあさん」とうまく発音できなくて「かーしゃん」というのが可愛らしくて、両親がそれを一人称にしたから、家庭内で二人称・三人称としても固定し、二十年近く経った今もその習慣が続いている。もちろん、他人の前ではそうは呼ばない。家族五人の間だけの慣習的呼称ということになる。

 みなも自身の呼称「にゃも」もそうだ。

「小さい時は、みーちゃん、て呼んでたんだよ」

 そう朗から聞かされたのは、中学二年生の時だ。みなもの部屋。みなもは椅子に腰を下ろして、口をへの字に結んでいる。涙はもう乾きかけていた。朗は床に胡座をかいて、娘を見上げていた。

「でも三歳になる前くらいだったかなあ、自分のホントの名前がみなもだって、意識したんだろうね。父しゃんが「みーちゃん」て呼んだら怒って「みーちゃんじゃにゃいの、み・にゃ・も!」って言うんだ。もうねえ、舌が回ってないのが可愛くてねえ、たまらんかったよ」

 遠い記憶を語る朗の眼差しは、深い愛情を湛えて、真っ直ぐに思春期のみなもに向けられていた。

「「えー、みにゃもなの?」「そ!」「父しゃんは、みーちゃんって呼びたいなあ」「だめ!」「じゃあ、にゃもちゃんて呼んでいい?」「それにゃらいいよ!」と何故か許可してくれてね。以来、にゃもになったわけだ」

 そこまでいうと、朗は感極まり「はうあっ、かわええーっ」と奇声を発して床に転がり、想像上の幼い者を抱きしめた。ムスッと聴いていたみなもも、思わず苦笑を漏らしてしまう。本当は今の自分を抱きしめたいのだろう、でもそれは御免だし、父しゃんもそこは弁えている。だからこそ編み出された「エアにゃも」だ。

 父しゃんのだらしないところが嫌いで、意識的に会話を避けていた思春期だった。でも、父しゃん母しゃんの愛情が自分を含む三人の子供たちにたっぷり注がれていることは、一度も疑ったことがない。

 父しゃんのだらしないところが嫌いで、意識的に会話を避けていた思春期だった。でも、父しゃん母しゃんの愛情が自分を含む三人の子供たちにたっぷり注がれていることは、一度も疑ったことがない。


 後年のこと。大学一年生の文化人類学入門で「あなた自身のローカルルールについて」というレポート課題があり、みなもは少し迷った後、この家族間呼称を取り上げた。家族の外では口にしない、家庭内だけの呼称。一人称ですら、家庭内と外で変化する。いささか気恥ずかしく思いながらの提出だったが、石川先生の採点はA、「呼称は人間関係の現れです。家族だけの呼び方は、家族同士の親密な人間関係を示しています。素敵な御家族ですね」とのコメントがついていた。

 少しだけ、涙がこみ上げた。我が家のありのままを認めてもらえることが、こんなにも嬉しいなんて。それが文化人類学という人間理解の学問を好きになった瞬間だった。

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