(3)馴れ初め
全国四十七都道府県の全てに少なくともひとつ、国立大学が存在している。それは、終戦後に新たな教育制度を構築する際、教育の機会均等を実現する目的でそのような方針が立てられたからだ。国立大学は、それぞれの地域で低廉な学費により優秀な人材を育成し、戦後日本の経済復興に大きな役割を果たした。
過疎県・澄舞にも国立の総合大学が設置されているのは、そういうわけだ。おかげでみなもは、家計負担の小さい地元進学をすることができた。
人口規模に相応して、澄舞大学は全国の国立総合大学の中では小規模校ということになる。それでも二つのキャンパスに六学部五千人あまり、大学院生を入れれば六千人を超える学生と八百名近くの教職員を擁する高等教育機関の存在は、この地域の貴重な知的資源として機能している。
そうした事実の一方で、医学部を除いて入試偏差値は五十二前後と決して高くない。その現実が、県内高校生の進学時の県外流出と、逆に県外からの流入に繋がっている。今や学生の実に七割以上が県外出身者だ。
秋宮秀一もまた県外組で、偏差値と学費と実家からの距離を総合的に考えた結果、地元・
親元から離れて独り暮らしを始めるこの年頃は、間違いなく恋の季節だ。恋愛は出会いとコミュニケーションの過程から生まれる化学反応、二人のホルモンスイッチが連動するかどうかで成否が分かれる。
スマートに異性を誘える性格の者は、早くからパートナーを見つけ、青春を謳歌する。そうでない者にも、青年期社会集団で生活をしていれば、出会いは幾度だって訪れる。後はコミュニケーションを重ねた先に、二人のスイッチが入るかどうかだ。
秋宮秀一は、誠実で人当たりの良い青年だ。しかし恋愛に関しては、決してスマートな性格とは言えなかった。異性に対して、友人としてならともかく性的パートナーとして付き合うのにどんなふうに誘えば良いのか、見当もつかなかった。入学して最初の二年間、出会いらしきものは幾度か彼の前に出来したが、戸惑ううちに次々と通り過ぎて行った。「幸運の女神には前髪しかない」という古代ギリシアの箴言を実感する二年間だった。その分、勉強とサークル活動に打ち込んだ。
大学生のうちに彼女を作る事は無理かもしれない、と諦めの境地にあった三年生の春、年下の女神が現れた。
入学式当日からしばらくは、学生サークルによる新入生争奪戦が繰り広げられる。秀一たち総合文芸研究会の企画する新歓イベントを訪れた十数人の新入生の中に、香守みなもがいた。素直に(可愛らしい娘だな)と思った。「可愛らしい」とは、見た目だけの話ではない。会話の内容、佇まい、ふるまい。どれもが明るく人懐こく、周囲をリラックスさせるものだった。秀一の目には、新入生たちの中でみなもはひときわ輝いて見えた。人間としても、異性としても。
もちろん、そこまでだ。二個上の先輩として、秀一は分け隔てなく新入生たちと接した。特定の相手にセクハラになりかねないアクションなぞ起こせる筈もない。
一ヶ月後、会に残った新入生は四名。その中にみなもが含まれていた。
みなもが総文研入会に至る前史は、少し長い話になる。鍵となる人物の名はダー子、奥田多賀子。みなもに物語の愉しみを教え、文化人類学という学問の存在を意識させた、中学時代からの親友だ。
みなもとダー子の出会いは中学二年の四月、あたらしいクラス編成で席が隣になったことによる。二人は同じ小学校だったけれど、互いに顔が分かるくらいで話をしたことはなかった。それでも「オクダタカコという変人がいる」という噂は、みなもの耳にも届いていた。
中一までは別のクラスだった。中二の四月、新学期初日。みなもは父と大げんかをして「学校行かない!」と部屋にバリケードを作って閉じ籠り、欠席をした。翌日バツが悪い気持ちで登校すると、みなもの席は最前列で、隣に奥田多賀子がいた。
「やあ、よろしく頼むよ」
ダー子は、ひょい、と右掌を顔の前に挙げてみなもに挨拶をした。度の強い眼鏡の奥から、シベリアンハスキーのような目がみなもを見つめていた。
随分後に、ダー子はふと思い出したようにみなもに語っている。
「あれはね、新学期初日から学校を休むなんて変わった人間がいるものだと、興味を持ったんだよ。だから、誰もが嫌がる最前列正面に二人で座りますと、手を挙げた」
変わっているのはどっちだよ、とみなもは笑った。
活字中毒を自認するダー子は、いつもカバンに本を忍ばせていた。小説、漫画、エッセイ、評論、サブカル。ジャンルも硬軟も多様だ。
「ほんとダー子は読む本に脈絡ないねえ」
「香守みなもには、そう見えるか」ダー子は人をフルネームで呼ぶ。「私はね、人間に興味があるのだよ。その点で読書は一貫しているつもりなのだが」
元々読書家ではなかったみなもも、ダー子の影響で本を──主に漫画や小説などの物語作品を読むようになった。
諸星大二郎『マッドメン』。ダー子に借りた文庫コミックは衝撃だった。パプア・ニューギニアと日本を結ぶ奇想の物語。舞台も、筋立ても、描線も、他のどの作家とも似ていない個性。主人公たちの父親が「人類学者」だった。
「ほう、これが香守みなもの琴線に触れたか。読書の醍醐味はね、面白いと思った本から更に周辺へ興味関心の触手を伸ばしていくところにあるんだよ。次はこの辺りを読んでみないかね?」
ダー子がみなもを案内したのは、県立図書館の書架、日本十進分類法380番台。文化人類学関係の書籍が並ぶ中に、澄舞大学教授・入華陽染の著書があった。
高校三年、進路を決める時期だ。
ダー子は常に学年上位をキープしていた。「特別な勉強はしてないけどね」と彼女はいう。それは事実なのだろうとみなもは思った。試験前でも次々と趣味の本を読んでいることを知っていたからだ。いわゆる「地頭がいい」、ダー子はそういうタイプだった。
ダー子の志望校は東京の紫峰大だ。受験偏差値六十六、旧帝大ではないが戦前の高等師範学校の流れを汲む一流校だ。しかしダー子の成績ならもっと上も狙える。
「いいんだよ。師事したい教授が紫峰大にいる」
一方みなもは、家計の問題から進学するなら地元国立一本だった。澄舞大学法文学部の受験偏差値は五十三。成績的に平均あたりをうろうろするみなもには、必ずしも楽観できない状況だった。
みなもは友人たちに「やる時はやる女」と呼ばれていた。小学生時代からそれを裏付けるエピソードには事欠かない。受験も同じで、秋から始めた数ヶ月の猛勉強で現役合格を果たした。
進学により、みなもは親友ダー子と離れることになる。しかしこの五年間でダー子から受けた影響は、彼女が自覚する以上に深く、大きい。それが自然と彼女を文化人類学専攻へ、そして総合文芸研究会へと導いた。
総文研で二個上の秋宮秀一は、面倒見の良い先輩だった。
好きな小説って何、という定番の部室雑談の中で、みなもがいくつかの作品と共に『精霊の守り人』の名を挙げた時、秀一が反応した。
「守り人シリーズ、いいよねえ。全部読んだ?」
「いえ、精霊だけです」
「もったいない、シリーズ全部持ってるから貸すよ? お勧め。あとね、ラジオドラマ、テレビドラマ、アニメにもなってるから。それぞれの監督が原作のどこに注目しどこを捨てて自分自身の表現に組み直したか、比較すると面白いよ」
サークルとは「好き者」の集まりだ。総文研もまた、会員それぞれに偏愛作品を持ち、それを他人に薦める情熱に溢れた、良い意味でオタクの集まりだった。秀一も間違いなくその一員だ。
みなもは気圧されつつも、秀一がこの作品群を心底好きなんだということを、好感を持って受け止めた。
二人の仲が恋人に発展したのは、出会いから三ヶ月余り経過した七月のことだ。
秀一のアパートでは「映画鑑賞会」が頻繁に開かれ、サークル仲間たちがよく出入りしていた。みなもはほぼ皆勤賞で参加し、二人きりになることも増えてきた。
いつしか自然と、互いに異性として意識するようになっていた。それでいて、互いになかなかアプローチできない。それもまた、若さのひとつの形だ。
最初に勇気を振り絞ったのは秀一の方、なのだろう。
その日、みなもは秀一の部屋でクッションにもたれて、秀一と映画を見ていた。意識の三分の二は映画に集中していたが、残りは秀一を意識していた。
少し離れて床に腰を下ろしていた秀一が、立ち上がって冷蔵庫から缶ジュースを取り出し、「どうぞ」とみなもの体越しにテーブルの上に置いた。そのまま、さっきよりずっと近くに留まっている。
「ありがとうございます」
言いながら、みなもの手は缶に伸びない。意識の四分の三が、すぐ背後の秀一の気配に向けられていた。
「クッション、半分ちょうだい」
そう言って、秀一がみなもの背後から同じクッションに体を預けてきた。軽く身体が接触することになる。こんな風にしても嫌じゃない、嫌がられない、という信頼が既に出来ていた。
「面白い?」
耳元で秀一が言った。
「うーん」
とだけ、みなもは応えた。秀一に十分の十。映画はもう、上の空。
秀一の腕がみなもの腕の上に被さった。手が手を握る。みなもは少し体を硬くして、ゆっくり振り向いた。秀一の顔がすぐ側にあった。
「先輩?」
「俺、香守さんのこと、好きだよ」
間近で秀一の頬が二度痙攣した。緊張している先輩は可愛いな、とみなもは思った。
「知ってました」
みなもは秀一の頬に軽くキスをした。互いの体臭を感じる距離。秀一はみなもに覆い被さり、首筋にキスを返した。
そこで、動きが止まった。
「……言いにくいけど、俺、初めてなんだよ」
「ふふ、私もですよ……私、友達からなんて呼ばれてると思います?」
みなもは、女の子の顔をしていた。ドキドキしながら、秀一は答えようがなく、こう応えた。
「なんて呼ばれてるの?」
「やる時は、やる女」
みなもは下から秀一を抱き寄せ、唇を重ねて舌を絡めた。二秒。三秒。四秒。五秒。もっと。互いの鼻息が頬に当たる。脳の血流がくるくると舞う。全身で相手の存在を感じる。体臭はもう媚薬だ。性器が甘く溶け始める。
二人のスイッチが、完全に連動した。
みなもは体を入れ替えて上になり、秀一の耳元でささやいた。
「私に任せて」
後になってこの時のことを思い返すと、
(あれ、手を出したのって、もしかして私の方?)
と思わないでもない。でもまあ、最初にくっついてきたのは秀くんの方、ということで。
付き合い始めると、いつも一緒にいたくなるものだ。
秀一は自宅から遠く離れてのアパート住まいだから、特段の支障はない。しかし市内の実家から通っているみなもは「口実」を必要とした。
最初は「課題を一緒にするから、友人の家に泊まるね」と言っていたが、それが週に二度となり三度となって、やがて滞在時間が逆転すると、隠し通すのは難しくなる。
母親に「彼氏ができた」と打ち明けると、母は
「わお」
と顔を輝かせた。「根掘り葉掘りは聴かないけど、どういう人?」と根掘り葉掘り聴かれた。話しだすと、それまで隠していたのがバカらしくなるくらい、自然にいろんなことを話せた。そうだよ、別に隠す話じゃあ、ないんだ。
翌朝には父親にも伝わっていた。母と父の間ではなんでも筒抜け、それは分かっていた。
父親は娘に男が付き纏うのを嫌がる、というのが古典的な物語パターンだし、現実の世の中でも一般的かもしれない。でも香守家ではそうではない。
「にゃも、おはよう。ウェルカム・トゥ・ザ・大人の世界!」
開口一番そういった父の満面の笑みに何の屈託もなく、みなもの肩の力が一気に抜けた。とりあえず「なんで『大人の世界』だけ日本語なん」と突っ込んだ。
翌年、二人は決断を迫られることになる。秀一が四年生となり、卒業後の進路を決めなければならない。秀一は元々、出身地の丘尼に帰るつもりだった。しかしそれは、遠距離恋愛になることを意味する。または別れるか、だ。
二人とも、別れるなんて、考えられなかった。遠距離恋愛も、できれば避けたかった。将来は結婚するのだろうとなんとなく思っていたが、まだまだ先の話だ。
結論を先延ばしにして大学院に進学することも一度は考えた。そうすればみなもの卒業まで大学に残ることができる。しかし、同じ行政法ゼミに、早くから院進を公言していた友人・早瀬泰彦がいた。彼の能力・資質に自分は及ぶべくもない。秀一はそう痛感していた。
秀一は、澄舞県庁と丘尼県庁、それから国家二種を受験し、全てに合格した。ギリギリまで悩んだ末に、澄舞県庁に就職を決めた。
さすがに澄舞に残るには両親の了解を得なければならず、秀一はみなもを連れて丘尼の実家に戻った。両親からはかなり厳しい意見も向けられたが、みなも自身は温かく歓迎され、最後には澄舞県庁への就職を認めてもらうことができた。
次に問題となるのがアパートだ。就職をすると衣類などどうしても物が増え、今の六畳1Kでは手狭だ。もう少し広いアパートなら、みなもと一緒に暮らすこともできる。自宅から通学に一時間かかるみなもにとっても、大学近くに拠点を持つことはメリットが大きかった。
今のアパートからさほど離れていない場所に、すぐに入れる六畳二間の物件が見つかった。大学まで徒歩数分、澄舞県庁まで直通のバスがあり自転車でも二十分見ておけば余裕だ。築年数が古く初任給の手取りでどうにか賄えそうな家賃ではあったけれど、少なくとも学生である残り半年は、実家に支援してもらわなければならない。もしかすると、その後もしばらく。
「うちは構わないけど、まだ学生なのに同棲なんて、みなもさんのご両親が許さないんじゃないの? 特にお父様は」
秀一の母親の心配は、一般的な「娘の親」について妥当だ。しかし香守家に関しては杞憂だった。週の半分以上を秀一の新しいアパートで暮らすようにしたい、そうみなもが切り出した時、父は手を叩いてこう言ったのだ。
「よーし、我々に孫ができるのが早いか、にゃもに新しい弟か妹ができるのが早いか、競争だあ!」
それを聴いた母は背中を丸めて茶をすすり、「はあ?」と耳に手をやった。
そう、香守家の父と母は、少し変わっていた。
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