(2)澄舞大学文化人類学講座

 澄舞大学法文学部棟三階。石川耕一郎准教授の研究室の前に立ち、みなもはしばしドアを眺めた。国立民族学博物館の黒を基調とした企画展ポスター。灰色の学生レポート提出ボックス。鮮やかな朱色の鳥居が多数並んだ写真は、澄舞県西端の稲荷神社のそれだ。石川研究室入り口のポスターや写真は、月一くらいのペースで貼り変わる。

 ノックをすると、「はあい、どうぞ」と返事があった。ゆっくりドアを押し開け、「香守かがみです」と声を掛けて中に入る。目隠しになるよう置かれた書架を回り込むと、明るい窓に面した机に向かう男の背中が見えた。

 男がゆっくりと振り返った。その顔には、彫りの深い怪物の仮面が装着されていた。緑・黄・赤の彩りが、逆光に縁取られて怪しい空気を漂わせていた。

 互いに見つめ合い、二秒、沈黙。

「おはようございます」とみなも。

 三秒、沈黙。

「あまり驚かないねえ、つまんない」

 そういって怪鳥ガルーダの仮面を外すと、石川の眠そうな顔が現れた。睡眠不足ではない、元々がそういう顔なのだ。

「ごめんなさい、やり直しましょうか......わっ、びっくりした!」

「香守さんのそういう性格、大好き」

 石川の懐こい笑顔には、人を和ませる魅力があった。さらっと今のような発言をしても、セクハラには感じさせない。

 石川は澄舞大学法文学部の文化人類学者で、みなもの主指導教官だ。現在、つまり三年生の秋は、来年取り組む卒業論文のテーマ設定が指導の中心となる。

「卒論のテーマ構想、進んでる?」

「あー、まだまとまらなくて。来週の発表会までにはなんとか......」

「まずは、気楽にアイディア出ししてくれればいいからね。それを揉み込むのがゼミの役割。今日の四年生の報告もいい刺激になると思うよ。なかなか面白いものになってきたから」

 石川はそう明るく言ってから、独り言のようにぽつりと呟いた。

入華いりはな先生は厳しく見てるみたいだけどね」

 はは、とみなもは力なく笑った。

「今日のゼミ資料、その山の上の奴だから......うん、そうそれ。持っていってくれる?」

 みなもがゼミ開始前に石川研究室に来たのは、今日の当番だったからだ。指示されたA3判型のゼミ資料は、別の資料の「山」の上に斜めに置かれていた。応接テーブルの上は雑多な書類の山だらけで、石川が指し示さなければすぐにはわからなかったろう。

「お預かりします」

「うん、よろしくー。あ、この仮面のことはみんなには内緒ね。研究室に来た学生さんの反応を観察したいから」

「もしかして私、一番最初でした?」

「昨日早瀬君に見せたねえ。きみは二番目」

「早瀬さん、どんな反応でした?」

「ふふーん、それもね、な・い・しょ。みんなの反応確認したら、次の『すま大エスノ』にエッセイ書くよ。上手くするといずれ論文になるかもね」

 仮面を見た時の学生の反応が、論文になり得る。文化人類学講座に入ってまだ半年のみなもには、その論文のイメージが湧かない。ただ、石川先生ならマジックのような論文を書くんだろうな、とは素直に思えた。


 澄舞大学文化人類学講座には、二人の教官がいる。入華いりはなそむ教授と、石川耕一郎准教授。この二人は、見た目も性格も対照的だ。

 入華教授は六十三歳。細身で休日に履くジーンズがよく似合う。白髪混じりのボリューミィな髪の毛は無造作に切られ、理髪店ではなく奥様に切ってもらっているのかはたまた自分で、というのが学生の噂話だ。学会では理論派で知られ、副学長として大学行政でも重要な役割を果たしている。一言で言えば「切れ者」、学生に対する指導も学問の厳しさを仕込むようなところがあった。

 石川准教授は四十二歳。どちらかといえばふくよか寄りの姿形で、短髪が顔の大きさを際立たせる。民俗学の領域にも身を置き、元々の専門であるインド地域の調査の他に、院生と共に澄舞県内の民話の聞き取りを行ってきた。日頃からフィールドワークジャケットを羽織り、あれはいつ如何なる時でも現場に出る体勢なのだというのが、これも学生の噂だ。柔らかな印象が学生に信頼感を与えるのだろう、研究活動だけでなく生活上の相談なども寄せられて、その都度親身に応じていた。

 文化人類学講座に所属する学生は、ふたりのどちらかを主指導教官として、卒業論文なり修士論文なりを書き上げることが卒業要件だった。


 この日のゼミは、講座内の卒論中間報告会を兼ねていた。学部四年生四名がそれぞれ持ち時間四十分を与えられる。基本的には前半二十分で卒論の骨子を報告し、後半は他の学生からの質疑応答に応じることになる。そのやりとりが活発であれば、日頃マンツーマンで指導している教官は口を出さない。しかし、時間が保たず沈黙が続くなら、代わって教官から報告者に向けて鋭い質疑が浴びせられることになる。

 そして──入華の表現を借りれば「残念ながら」この日の学生間の質疑も活発とは言い難く、教官の発言を要することとなった。入華の指摘は、太刀のように鋭く論理の不整合を暴く。石川の指摘は、事例の隙間に真綿を押し込むように、観察の不足を気付かせる。中間報告会が「人間サンドバッグ」と学生たちに恐れられる所以だ。その様子を、みなもたち三年生は「来年あすは我が身」として震えながら聴いていた。

 脳の痺れるような濃密な百六十分が過ぎ、残り二十分の〆は入華の総評から始まった。

「まずは四年生のみなさん、お疲れ様でした。個別の指摘は既に行いましたので、以下、総評としてお話をします。

「あらためてみなさんには、文化人類学という学問の技術を意識してもらいたいと思います。観察と、思考。このふたつを、特に四年生は残された時間の中で、徹底して追い込んでほしい。

「当たり前のこととしてさらっと見過ごしていた物事が、精緻な観察によって、全く違う意味合いを持つ。それがある特定の個人や社会集団の視野や思考方法そして行動に、どのように結びついているのか。別の個人や集団、別の思考方法、異なる行動原理と比較した時に、どのような特徴が指摘できるのか。そこにはどのような『人のふるまいの力学』が働いているのか。みなさん一人一人のオリジナルなモチーフを通して、人類の営みの普遍性とその集団の固有性を明らかにするのが、文化人類学の論文です。

「みなさんは春頃から、早い人はもっと前から、自分自身の研究フィールドの観察と思考を重ね、ようやく論文執筆に着手した時期と思います。年明けの提出期限まであと三ヶ月を切りました。この時間を精一杯使って、観て聴いて感じて考えたことを、自分の言葉で彫り上げてください。

「その過程で、初めて気付くことがある筈です。「これはこういうことだったのか」「自分の中にこんな考えがあったのか」と驚くことがある筈です。それを見つけることが、学部生として論文を書く経験の一番の財産です。それは今後社会に出た後も必ずみなさんの底力として役に立ちます。どうか論文執筆を、楽しく苦しんでください」

 まるで練り上げた文章のような言葉。それは、日頃の知識と思考の蓄積、咄嗟の頭の回転、そして滑舌、いずれを欠いても成立しない。四十年以上にわたる入華の人類学者としての学問への情熱が、その言葉に更に熱を帯びさせる。

 それだけに、若い学生にとっては全てを理解することは難儀だ。それでも恩師の言葉の意味を正面から受け止めようと、特に四年生たちは真剣な眼差しを彼に向けていた。

「石川先生からも、どうぞ」

 入華に促され、石川が軽く咳払いをして、そのまま咳き込んだ。学生たちから少し笑いが起こる。緊張が急速に緩和される時に、人は笑う。

「ああ、失礼。ええと、みんなお疲れ様! それぞれ自分自身の問題意識をもってユニークな取り組みをしていて、指導教官の立場を離れて素直にわくわく報告を聴いていました。

「真面目な話は入華先生がしてくださったので、僕からは不真面目というか、ちょっと別の視点からアドバイスをしますね。

「学問って、端から見ると『なんであんな小難しい、面倒くさいことを』と思うのだけれど、やってる当人は楽しいんです。心の底から楽しんでる。そうじゃないと続かないし、そうだから時間をかけて調査して考え抜いて長文を書くなんて苦行が、苦痛でなくなる。

 さっき入華先生が『楽しく苦しんでください』って言ったのは、僕ら学者はみんなそういうわくわくした気持ちを抱えて研究してきたのだし、そういうわくわくを、学生の皆さんに伝えたいと思ってるからなんです。ですよね、先生?」

 石川の振りに、入華は我が意を得たりという笑顔で大きく頷いた。

 石川が続ける。

「執筆は苦しい作業です。でも、つらいなと思ったら、思い出してください。その論文は、みなさんが見つけたわくわくを、他の人に伝えるものなんです。オタクの人って、自分の推すアニメのどこがどう面白いのか、一時間でも二時間でも一所懸命に語るでしょう。SNSになっが~い評論をいくらでも書くでしょう。わくわくを誰かに伝えることって、喜びなんです。エネルギーがいくらでも湧いてくる。

 そういう意味で、学問はオタクの営みです。学者はみんなオタクです。みなさんも、論文を書く間は、オタクになってください。みなさんのわくわくを僕たちに論文を通じて教えてください。僕たちは期待して待ってます。以上!」

 四年生が一斉にわらい、拍手が起きた。中間報告会は、学生たちの胸に勇気を与えて、終わった。


 みなもがホワイトボードの板書を消している間に、早瀬が欠席者のゼミ資料をまとめて持ってきてくれた。

「ありがとうございます」と言ってから、教室の中を見渡す。他の学生は近くにいない。みなもは小さな声で囁いた。

「早瀬さん、石川先生の仮面、見ました?」

「うん、ガルーダね。香守さんも見た?」

 みなもは小さく頷いて、唇に人差し指を立てて当てた。早瀬も同じ仕草で応えた。

 早瀬泰彦は修士課程1年の院生だ。行政法専攻、つまり法律・経済コースの学生で、文化人類学の社会文化コースとは異なる。別コースでも卒業必要単位の一部に組み入れることができることから、早瀬は趣味でこのゼミに参加していた。

「アッキーは元気にしてる?」

 早瀬の言葉にみなもはもう一度頷いて、隠す必要もない話題なので普通の声量で答えた。

「はい。随分忙しいところですけど、天職みたいに面白い仕事だって言ってます」

 アッキー、すなわちみなもの彼氏である秋宮秀一と早瀬は、学部時代に同じ行政法ゼミに所属していた友人だ。だからみなもも一年生の時から「早瀬先輩」の事はよく知っていた。秀一は卒業して県庁に入り、早瀬は修士課程に進んだ。今も仲の良い友人だが、秀一とみなもが半同棲状態になってからは、遠慮をしてか部屋に遊びに来なくなった。

「また県庁の話聞きたいから、余裕のある時に一緒に呑もうって、伝えといて。って、LINEで書きゃいいのか」

「いいですよ、伝えます。私もご一緒してもいいですか?」

「もちろん。もう成人でしょ? 大歓迎。ホントは俺も彼女連れて来てダブルデートになるといいんだけど」

「え、彼女できたんですか!?」

「『いいんだけど』という言葉の含みを読み取って欲しいなあ」

「なーんだ」みなもはくすくすと笑った。

 澄舞大学は「日本一同棲率の高い大学」としてネットで有名になったことがある。ど田舎なのでセックスしかやることがない、という説明付きだ。もちろん比較可能な実証データがあるわけではなく、すま大生の誰かが自虐ネタとして流布したものだろう。実際、早瀬を含め、見た目も性格も悪くないのにパートナーに恵まれない学生も決して少なくない。

 余ったゼミ資料は、講座院生室のボックスに置いておくと、欠席者が後で取りに来るシステムだ。みなもと早瀬は院生室に足を向けた。

 廊下の少し先で、ゼミ生の大森範香が石川研究室のドアをノックするのが見えた。小柄なので、レポートボックスの上辺が彼女の目の高さより上になる。彼女はゼミで唯一の2年生だ。ゼミに正式に参加できるのは3年生になってからだが、たまに彼女のように熱心な学生が教官の了解を取ってフライング参加することがある。単位にはならないのに、講座で学ぶこと自体が楽しくて仕方のない様子が、みなもには眩しく映っていた。今日も何か質問しに来たのだろう。

「はあい、どうぞ」

 奥から石川の声が聞こえた。範香が部屋に入るのを、みなもと早瀬は息をひそめて眺めていた。二秒後に「きゃっ」と可愛らしい悲鳴が聞こえた。

「石川先生、この反応を待ってたんでしょうね」

 みなもはそう言って、早瀬と顔を見合わせ、笑った。

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