第1章 香守みなもと彼女を取り巻く人々

(1)恋人たちの朝

 ぎゅっと背後から体に腕を回し、首筋に当てた鼻から、すうっ、と息を吸い込む。嗅ぎ慣れた恋人の体臭は鼻腔から脳に染み渡り、心地よく力が抜けていく。

「みなちゃん、もぎゅられるとネクタイ結べないんだけど」

「んー、あとひと吸いだけ補給ー」

 すうっ。じわじわっ。

 朝。二人が半同棲生活を送るアパートの洋間。そろそろ時間だと、分かっている。

 香守かがみみなもは秋宮秀一の体から腕を解き、少し身を離した。秀一がホッとして再びネクタイを結び始めると、またみなもの鼻は彼の首筋に吸い寄せられる。でも今度は腕は回さない。着替えの邪魔はしない、匂いだけ、匂いだけ。

 テレビのローカルニュースが次の話題に移った。生中継で、県立運動公園に最近整備されたスケートボード練習場を紹介するという。

「あ、始まった」

 秀一は紺の背広をハンガーから外して腕に抱えたまま、椅子に腰を下ろして机上のテレビを見据えた。ピンク色のパジャマをきたみなもは、秀一の背後に立つ。

「こないだ秀くんが下見に行ったとこ?」

「うん」

 長袖の青いポロシャツを着た三十半ばの男性リポーター。インタビューに応えるのは公園の管理課長だ。施設の特徴を紹介し、利用者の練習風景を映し出す。

 リポーターが「今朝はなんと、あの人気キャラクターも練習に来てくれました」と告げると、画面の奥、すり鉢のようなコースの向こう端に、薄茶色の影が現れた。

 ズームアップ。

 犬の着ぐるみだ。澄舞すまい県のマスコットキャラクター「すまいぬ」。デフォルメされた頭部と、ゆったりしたつなぎの胴体。手足は肉球を模している。ちょろりとはみ出した舌、短い股下とおしりに申し訳程度についている尻尾が、なんとも愛らしい。

 耳に馴染んだテーマソングが始まり、すまいぬが踊り出す。


♪タッタカタッタ、タカッタタカタ

 すまいぬマーチ

 タッタカタッタ、タカッタタカタ

 街を歩けば

 タッタカタッタ、タカッタタカタ

 みんなが笑顔で振り返る

 す・ま・い・ぬ(Go、Go!)

 す・ま・い・ぬ(ヒュー!)

 澄舞を元気に駆け抜ける


 踊り終えると、すまいぬは足下のスケートボードに片足を載せた。

 すっ、と両腕を軽く広げ、前傾する。

 カメラがすまいぬの背後に切り替わった。後足が地面を蹴る。それは軽い動きに見えたが、ボードに乗ったすまいぬはランプを落下するように駆け下り、一瞬、画角からその姿が消えた。

 ごうっ。ホイールとコンクリートの擦過音が唸る。再び姿を現したすまいぬは、鋭い加速でハーフパイプ左側面に突っ込んでいく。その円弧に導かれ、直進運動は上昇運動へと一気にベクトルを変えた。重力の軛を逃れたように宙を舞いながら全身を一回転させ、そのまま上部のプラットホームに着地。

「すごいぞーっ!!

 これは驚異の運動能力だっ」

 リポーターの歓声とともに、すまいぬの頭部ミニカメラの映像がリプレイされる。飛び去る地面。激突するかのように接近するスロープ。反転する景色。着地、そして減速。そのスムースな映像は、すまいぬの体幹と頭部が激しい運動の中で極めて安定していることを示していた。

 すまいぬはハーフパイプを滑り下りるとリポーターの横で軽やかにボードを跳ね上げ、地面に降り立つ。首に巻いた縦ストライプのスカーフが少しだけそよぎ、そして静止した。

「お疲れ様でした!

 いやー、素晴らしい走りでしたね」

 ボードを脇に抱えたまま、頭を掻いてもじもじ照れるすまいぬ。

「どうですか、このコースを滑ってみた感想は」

 リポーターがすまいぬにマイクを向ける。その様子を見て秀一が眉をひそめた。

「……あーもう、柳楽なぎらさん、またやらかしてる」

 柳楽修は地方局「すまテレ」こと澄舞テレビに所属するアナウンサー、今まさにすまいぬにマイクを向けている男の名だ。

「え、なに?」とみなも。秀一は「いや、打合せと違うことやっててね。困るなあ」とだけ答えた。


 秀一は澄舞県庁企画部広報課に勤める公務員だ。今年四月に新卒で採用され、半年あまりが経過していた。

 彼の業務のひとつが「すまいぬ番」だ。

 十年ほど前のゆるキャラブームの最中、澄舞県はマスコットキャラクターの公募を行なった。プロを含む数百の応募の中から採用されたのは、小学三年生の女の子が描いた一枚のイラストだった。二本足でヌッと立つ犬。決して達者とは言えない描線ながら、見ているうちに頬が緩む愛嬌がある。

「澄舞の犬だから、すまいぬ」と可愛らしい文字が添えられていた。当時のおじいちゃん知事がいたく気に入り、事務方の思惑を超えて選考委員会の流れを決定付けた。

 このイラストを原型にリデザインしたものが、現在のすまいぬだ。さまざまなポーズのキャラクターカットが県の広報媒体を飾り、着ぐるみもイベントで引っ張りだこだ。

 今回は教育庁スポーツ課の依頼で県立運動公園施設の生中継にすまいぬの出演が決まった。秀一は、県広報誌『ビジュアルすまい』の取材を兼ねて、事前に現地で柳楽と打ち合わせをしていた。

 今後すまいぬは喋らない。以前のようにすまいぬにマイクを向けてはならない。そんな新たな県の運用方針を、秀一は柳楽アナに念押しした筈だった。シナリオの流れもひととおり確認した。それが今、生放送という制止の効かない状況で、反故にされようとしていた。


 一瞬の間を置いて、すまいぬはリポーターに向かって喋るような身振りを示した。このキャラクターは声を出さずにコミュニケートするということを、視聴者に自然に伝えていた。放送をグダグダにしないためには、レポーターが流れを引き取らねばならない。強引に投げつけられたボールを打ち返した形だ。

 柳楽アナはすまいぬの声なき声に耳を傾けるようにして、幾度か頷いた。そしてカメラを振り返り「新しいコースは超楽しい、だそうです!」と言った。中堅アナウンサーの力量だろう、ライナーを自然な流れでキャッチした。この瞬間密かにトラブルがあったと気付く視聴者はいないだろう。

 なんとか乗り切ったな、さすが・・・──と秀一が体の力を抜いたのも束の間、柳楽の続く言葉が再び彼を硬直させた。

「そろそろ終わりの時間です。すまいぬ、最後に視聴者のみなさんに向けて、決め台詞をお願いします!」

 柳楽は言わせようとしている。一月前に「彼女」がぽろりと口にして、すまいぬが全国のアニメマニアから一気に注目されたあの言葉を。

 しかしすまいぬは、チチチ、と指を立てて左右に振り、お口にチャック、のアクションをした。そしてスケートボードに軽やかに飛び乗り、コース中央で華麗にジャンプを決めると、そのまま走り去っていった。

「……台詞の代わりにキメのアクション、いただきました!

 以上、現地から柳楽がお届けしました」

 番組は天気予報に変わった。(これはすまテレに抗議しなきゃ)

 秀一の内心の冷や汗に気付かず、みなもは画面に向かって拍手した。

「すっごいねえ、着ぐるみであんなに動けるなんて。中の人って何者?」

 秀一は、チチチ、と指を立てて左右に振り、お口にチャック、のアクションをしながら口をもごもご動かす。

「中の人なんて、いないのだー。あれは澄舞にだけ生息するかわいい生物なのだー」

「お役人の棒読み、じょうずー」

 みなもは口調を真似て言いながら、今朝二回目のもぎゅっ。秀一は笑いながら身を捩る。

「もう仕事に行かなきゃ。また夜にゆっくり、ね」

「あ、今夜は私、家に帰るよ。明日来ていくスーツ取りに行かないと」

「そっか、分かった」

 秀一の表情が途端に寂しそうになり、みなもはキュン死しそうだ。でも、もぎゅるのは、がまん。

「明日は家から直接県庁に行くから。お昼、一緒に食べる?」

「いや、やめとく。県職員一年生がインターンシップに来た女子大生に手を出した、なんて噂になりかねないから」

「あはは。大学三年生が新入生に手を出したくせに」

 あれから二年。秀一は卒業して県職員になり、みなもは当時の秀一と同じ三年生になった。

「それはよくある話でしょう」

「うん、よくある話」

 みなもは秀一の唇にキスをした。これ以上は、がまん。

「行ってらっしゃい。私は二コマ目からだから、九時くらいに出るよ」

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