終わる世界と夢を見た
水留はさあ、と裕樹が道ばたの石ころを蹴飛ばしながら言った。
「学校、とちゅうからいってないんだって。外の《街》から来たから、転入もしなかったっていってた」
いつのまにか『せんぱい』が外れているが、そこは裕樹なりの反抗心なのだろう。その気持ちはありがたいものだと、あえて触れずに頷いた。
「水留も、こころがおれたのかな」
「さあ。他人の心はわからんからな」
「つめてー。篝、絶対道徳赤点だ」
「……道徳の授業に赤点はない」
「あったら赤点だね。『きょうかん』が足りてないぞ」
ド正論である。
小学生の正論に悲しくなりつつ、トオルは裕樹の様子を確認する。
顔を真っ赤にして怒っていた割には落ち着いていた。いや、今もしっかり怒っているのだろう。『せんぱい』の抜けた呼び方がそれを物語っている。
とはいえ、とトオルは内心苦い笑みを浮かべた。ホシノの気持ちも分かってしまう。もうトオルは子供ではない。共感はできなくても、理解はできた。
それがある種トオルと同じ立場であったのならなおのこと。
「《運び屋》にはならなかったんだ?」
静かな通りを歩きながら裕樹が聞いた。トオルは、そうだな、と口にして思案する。《旅人》よりも《運び屋》の方が生活は安定しているし、《街》の空気が合わないという理由だけであれば、確かに《旅人》である必要性は薄く感じられるのだろう。
まだ色彩の残る街は、しかしワークタイムなおかげか人はあまり通らない。暇だと推測される初老の男性女性か、子育て中だと思われる親子と何人かすれ違うくらいだ。
「俺は……」
どうしてその道を選ばなかったのか、と聞かれて即答できる人間が何人いるだろう。
トオルは中学生活も終わりにさしかかる夏の日を思い出した。空一面の雲が太陽を覆い隠していたくせに、気温だけは高い日だった。
「情けない話だが、友人がそうすると言ったから、そうしただけだ」
「じぶんの意思じゃないじゃん」
「情けないことにな」
「でもけーぞくできてるからすごいぞ!」
「それはどうも」
なぜか偉そうな様子がおかしくて、つい笑ってしまう。
「強いて言えば、《運び屋》は自由がないからだろうな」
「仕事だもんな」
裕樹が頷く。トオルは肯定して、《街》の外に出ることが目的であれば、確かに《運び屋》の方がいいだろな、と付け加えた。
「それが合わなかったり、別の理由があったりすれば《旅人》として生きるんだろう」
自分がどうして流れ歩いているのかすら分からないくせに、偉そうに。
そんな考えが頭をよぎったが、トオルはそれを無視することにした。分からないから放浪しているという理由だってあるだろう。
そう単純なものでもない。知らない誰かに説明するのは難しい、とトオルは引き受けてしまった依頼に少し憂鬱になった。
「ふうん……」
裕樹は曖昧に頷いていた。
それから、裕樹はぱったりと口を開かなかった。静かな帰路ではあったが、トオルには有り難かった。ホシノの冷えた声が耳にずっと残っていたからだ。
家族を捨てて一人逃げ出して、ただ一人生き残ってしまったという事実が、今更のように肩に重くのしかかったように思えてしまった。分かっていたことのはずだったのに、先ほど初めて直視したかのような、そんな焦燥感が胸中を満たしている。
裕樹は、とまだ背の伸びるだろう少年をチラリと見る。考え事をしているらしく、眉間には小さなしわができていた。
彼は、多分そうはしないだろうと思った。ただの勘でしかなかったっが、そう思えた。同時に、きっと《街》にとどまることもないだろうなとも思った。
「長生きできなくても、外に出る理由、かあ」
「裕樹はそうなるな」
トオルが言えば、裕樹は腕を組んでうなり始めてしまった。
ざわざわと人の気配が戻ってくる。公園を過ぎて、住宅街へ足を進めていく。アスファルトの地面は変わらず続いていた。
「由紀乃がさー」
まだ小林家まで少し歩く距離にさしかかった頃、裕樹がぽつりと言った。今回は姉とは呼ばないらしい。気恥ずかしさからだろうか、とどうでもいい考察をして、トオルは裕樹の言葉を待った。
「研究者になりたいんだって。由紀乃、頭いいから」
おれは頭悪いけど、と小さな声で付け加えられる。
「外の研究者って、まじめに研究してるのかな」
「人によるな」
記憶をたぐって応えれば、ええ、と嫌そうな声が返ってきた。嘘をつくよりましだろうと言えば、裕樹はあからさまに嫌そうな顔をした。それはそうなんだけど、とぶつぶつ文句を言っている。
「父さんと母さんは反対なんだって」
それはそうだろう。《崩壊》した後の世界は直接的な危険こそないが、遅効性の毒のようなものだ。徐々に命をむしばむ空間に我が子を放り出したいと思う親の方が少ないことだろう。
「おれは、すげーなって思ったのに」
ざりざりとすれる音が寂しく響く。柔らかな茜色に染まり始めた空が、建物の隙間からのぞいていた。
(――『まだ子供だから』か)
それは彼らが一番よく分かっていることだろう。 けれど、と幼少の記憶を振り返ってトオルは思う。子供だからなんだというのだろう。
まだ子供だから分からない?
まだ子供だから経験が足りない?
そんな理由で、感じたものを捨てろというのはあまりに横暴だ。
(俺が《旅人》で、独り身だからそう思うだけかもしれないが……でもなあ)
ちょっと悪いことをしたい、とかではない。姉弟の願い事は至って単純で、このいつか来る終わりの日におびえる毎日から逃げ出す手段を見つけたいだけなのだ。
それを、どうして否定できるだろう。
依頼された内容を思うと、一応やめたほうがいいと言った方がいいに違いないのだが、とトオルは内心ため息をつく。そういえばホシノからまだ報酬をもらっていない。
矛盾する心が酷く痛い。幼い少年の願いはあまりに自分事過ぎて、しかし両親の懸念を知らないふりするには大人になりすぎてしまった。
「あ」
民家の中で、それと認識できる家屋を見つける。裕樹の足がピタリと止まって、おずおずとトオルの顔を見上げてきた。
「大人しく怒られるか」
「か、篝もいっしょだからな!」
「半分は俺のせいだからな……」
裕樹が怒られるより、トオルが追い出される可能性の方が高い気がする。とはいえ、と息を吐いた。さすがに逃げてしまうわけにも行くまい。荷物も置いてあるし、何より無責任すぎる。
近づくにつれ、小林家の前に人影があることに気がついた。人影はこちらに気づくと、ずんずんと近寄ってくる。由紀乃だった。
「……母さ、母には言ってありますので、少し付き合ってもらえませんか」
まだ休ませてはもらえないらしい。なんだよ、と裕樹が文句を言ったが、あんたは黙ってて、とぴしゃりと由紀乃が遮ってしまった。
「本当に少しだけ……聞きたいことがあるんです」
きゃんきゃんと騒がしい喧嘩をしていた戸は思えないくらいに静かな声だった。
トオルは灰色の目を泳がせてから、ため息をつく。ぼりぼりと後頭部をかいて、かまわない、と返事をした。少女はぺこりと礼をして、こっちに公園があるんです、と歩き出した。いつぞやに裕樹たちに囲まれた公園がある方向とは全く別方向だった。
「こっちに公園なんてなかっただろ」
「あるよ。百年くらい前に《崩壊》した地域が近くて、人が行かなくなっただけ」
裕樹が驚いたように目を丸くした。由紀乃はばつが悪そうに目をそらして、この《街》自体はなんともないんですけど、と言い訳するように言った。
住宅街を抜けてすぐそばにある公園はすっかり寂れていた。ポイ捨て禁止の看板だけが義務のようにフェンスにくくりつけられている。
「裕樹の話、実はちょっとだけ聞いてて」
歩きながら由紀乃が言った。だろうな、とトオルは何も言わずに続きを待つ。
「あの、こんなことを聞くのはよくないのかもしれないですけど」
「かまわないが」
「まだ姉ちゃんなんもいってねーじゃん」
「何を聞かれてもかまわないという意味だ」
じろりと由紀乃が裕樹をにらむ。裕樹はぴゅうぴゅうと下手くそな口笛を吹いてそっぽを向いた。こいつ、と低い声が聞こえた気がしたが聞かなかったふりをした。
「じゃあ、その」
近くに《崩壊》した地域があるという場所はぞっとするほど静かだった。まだここは生命が存在できる場所だというのに、その気配があまりにも希薄に感じられた。
「篝さんは、《崩壊》の研究をしたいなんて、馬鹿馬鹿しいって思いますか」
おれはすげーって思うけど、と裕樹の言葉がよみがえる。
「どうしようもないことなんだから、諦めた方がいいって、思いますか」
――俺はいやだね。
由紀乃の手は硬く握り過ぎて指先が白んでいた。裕樹は、そんなわけねーじゃん、とぽつりとこぼしたが、それ以上何も言わなかった。由紀乃が求めているのは弟からの肯定ではないと分かっているのだろう。
「《崩壊》から生き残った人間として、どう思いますか。わたしのこの考えは、おかしいですか。だって、まだやりたいことだってたくさんあるのに。ボタン一つで世界中の人と話せた時代とか、わたしはしらないままなのに」
なのに、明日消えてしまうかもしれない場所で生き続けるの?このまま?
姉ちゃん、と案じるような声が落ちた。
「今日、進路の授業があって。わたし、先生にも友達にも『現実的じゃない』って言われて、それで――」
その悲鳴には既視感があった。堰を切ったようにあふれ出した悲鳴は、聞いているだけで心をズタズタにするような鋭さがあった。
おかしくない。どうしようもなくない。諦めるなんてとんでもない。貴方のその考えは、きっと間違ってない。間違っているはずもない。
(なんて、口にできればよかったんだが)
そう励ますには現実を知りすぎた。否定するには夢を抱き続けた。柔らかな部分を打ち明けてくれた彼女に何を言おう。まさか彼女の方から打ち明けてくれるとか思わなかったしなあ、と言い訳めいた言葉が脳内を滑る。
「俺たちの寿命はおよそ長くて四十半ばあたりといわれている」
「え、っと」
「些末な話だろう。ほとんど人間には関係ない話だ」
「そう、かもですけど」
「けどその目安が俺たちの生きるための指針の一つになった」
かちゃん、とガラス器具の音がよみがえる。訪れた都市で、煙たがれながらも研究を続けていたその人を思い出していた。数は少ないが、居ないわけではない。その人が研究しているのは《崩壊》そのものではないが、カテゴリとしては同じものだろう。
「身になる可能性の方がほぼないのは事実だ」
「おい!」
責めるような声が飛んで、いいの、と止める声が響いた。だって、ともの言いたげな目が由紀乃とトオルを行ったり来たりしている。
「というか、諦める方向に舵を切って長いからな、この世界。諦め悪く頑固に研究に固執すれば、そういう場所でも孤立は免れないだろう」
無論、予算も最悪である。
(だが――)
いつか文明が興った時のような、きら星の才能を持った誰かがいたとして。そんな誰かがこの地獄に似た世界を壊せるというのであれば、きっとその背を支えようという人間は現れるだろう。
この公園がいい証拠だ。
「かつて人間は《崩壊》を止めることを諦めて、遅延することに決めた。いつか滅びきる時を、ただ待っているだけに過ぎない」
そのくせ、《崩壊》から逃げようとする本能は残っているのだから笑ってしまう。生きたいのか死にたいのか、生存したいのか滅びたいのかはっきりした方がいい、といつか誰かが悪態をついた。
なら、と由紀乃が口を開く。
「わたしの夢に意味はありますか」
「それはわからん」
否定はもちろんできないが、かといって肯定できるほど無責任でもなかった。
言ってしまえば、由紀乃は疲れたように笑って、そうですか、とだけ言った。
由紀乃はそれで満足だったらしく、ありがとうございますと礼を述べる。裕樹はなんとなく納得がいかない様子で、何か言いたそうに由紀乃とトオルを交互に見ている。
何か声をかけた方がいいと思ったが、悲しいことに適切な言葉は一つも見つからなかった。自分の経験を話せばいい時とは訳が違う。トオルはこの《街》に来てから自分の口下手さを真剣に恨み始めていた。
「別にいいの。全員がわたしの夢を否定してくるわけじゃないってのは分かったし」
「ふーん。じゃあ、おれもかな」
「裕樹の将来の夢とか知らないから知るわけないじゃん」
じゃれ合いのような、しかし確認し合うような会話が緩やかに飛んだ。姉弟は足先を公園の出口に向けていて、帰路につくのかとトオルもその後ろに続いた。
「……《運び屋》」
「いいんじゃない」
「てきとーにいうなよ」
「は?適当じゃないし。第一、誰かがならないと困るのに、危険でやばいからなりたくないとか、家族にはなってほしくないとか、そんなの超自分勝手じゃん」
だから否定しないの、と言外に由紀乃は言う。それは由紀乃自信の夢を否定されたばかりだからこそ、同じことはしたくないという意地の表れだろうか。
あっそ、と裕樹はそっけない風を装ってそっぽを向いた。反抗期と思春期の子供は難しい。
「そういえば、篝さんには研究者の知り合いっているんですか?」
「あ、おれも知りたい!篝、さっきちょっとだけ話してたから知り合いいるんだろ」
その話わたし知らないんだけど、という視線が裕樹に突き刺さっているがさっぱり気づいていないようだ。いずれ裕樹から由紀乃へ先ほどの話は伝わるだろうとトオルはいったんスルーを決めて、いる、と端的に回答する。
「正確には《崩壊》そのものと言うよりは、《崩壊》が命に与える影響についての研究をしているやつだが」
「さっきの話の研究者、ですか」
「ああ」
そしてトオルたち《旅人》や《運び屋》の寿命が短いだろうと宣告したのもこの研究者である。そっちの道もありか、と由紀乃は独り言を言って、ありがとうございますと告げた。
何かの指針になれたのならば幸いだ、とトオルは小さく口角を上げて、見え始めた小林家に目を細めた。
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