「うそ」
それからは約束通り小林家に滞在させてもらった。いつも通り、作りためた小物を売ったり、簡単な修理業を営んで日銭を稼ぎ、消耗品を買い足して終わった。なぜだか裕樹と由紀乃は《旅人》について触れては来ず、トオルは少し不思議に思った。
そう過ごして早数日。
朝は強烈な騒音で目が覚めた。
「おーきろー!」
ひゅっと息が喉に突き刺さり、トオルは思いきりむせた。突然の日光は目蓋をたやすく貫通するものだから、光に慣れていない目が痛い。
「や、やかましい」
「あっ、裕樹!お客様になんてことしてるの!」
「起きるのが遅いから起こしてやっただけだろ!」
「わたしたちの登校時間に合わせて起こすとか馬鹿じゃないの!」
「馬鹿って言った方が馬鹿なんですぅー」
「はあ?よっぽど迷惑行為してるくせによく言えたもんだわ」
そして朝っぱらから姉弟喧嘩をしないでほしい。トオルはまだ眠い目をこすって、遅刻するんじゃないのかと口を開いた。そこでやっとトオルの存在を思い出したらしい、由紀乃はさっと顔色を変えて、ごめんなさい、と小さな声で頭を下げる。
「ほら、早くいくよ!」
「おれ、いっつもはやすぎるくらいだから今日はいいの」
「んなわけないでしょ」
「二人とも、遅刻するわよ!お父さんももうとっくに家出たんだから!」
やば、と由紀乃がつぶやいてから、じろりと裕樹をにらむ。馬鹿弟に構って遅刻してやる義理もないや、と吐き捨てるように言って、彼女はわざとらしくため息をついた。
「騒がしくしてごめんなさい。わたしはもう出ますから、もし弟が迷惑かけるなら母に言いつけてやってください」
言うほどじゃないんだが、と言いかけてやめる。はは、と苦笑いを浮かべてうなずけば、由紀乃は小さく礼をしてせわしなく階段を降りていった。
ランドセルを背負ったまま部屋に居座り続ける裕樹に目を向ければ、幼い少年は滞在初日の夜のようにトオルをびしっと指を指した。
「わすれるなよ!」
「分かったって……」
そこまで信用がないのか、と内心ちょっと傷つきつつ、遅刻するぞと裕樹を部屋の外へ押しやる。それがお気に召さなかったらしい彼は、心底嫌そうな顔を向けてから、やはり勢いよく階段を駆け下りていった。
しん、と部屋が静まりかえる。あの姉弟はいささか賑やかすぎるのではないかと考えたあたりで、トオルは小さく笑った。
そういう騒がしさは嫌いではなかった。部屋を出るときに、なんとなくロケットペンダントを手に取って、無造作にズボンのポケットに押し込んだ。
それから寝癖を水で強引に押さえつけて、一階へ降りる。苦笑いを浮かべた有希がちょうどリビングから出てくるところだった。
「おはようございます。私も仕事に出ますから、朝ご飯はテーブルの上にあるものを食べてください。食器は帰ったら片しますから、そのままにお願いしますね」
分かりました、とうなずく。仕事着らしい、黒い襟付きシャツに黒いズボンという、真っ黒な格好で有希は家を出て行った。裕哉は既に出勤しているらしい。由紀乃と裕樹も先ほど登校していったはずだから、家の中にはトオルしか居なかった。
テーブルの上に置かれたのは卵焼きと簡単なサラダ、食パンが置かれていた。
隣の《街》は近かったな、とふと思い出す。もそもそと食パンを口に入れて、日の差し込む窓辺へなんとなく目を向けた。
掃除されたフローリングが日に照らされて白っぽく見える。壁掛けのカレンダーと、時計、それから生活に必要な家電類が整理されておかれていた。
静かだな、とぼんやりと思う。
トオルは朝食を食べきると、食器を一つにまとめて席を立つ。あらかじめ持ってきておいた外出用の鞄を持って玄関を開けた。
(そういえば、鍵はどうすればいいんだろう)
今更のように思えたが、トオルも外出しないわけにもいかないから、後ろめたさを覚えながらも玄関の戸を閉めた。
オートロックなんてものが用意されていればいいが、普通の民家のようだし、望まない方がいいだろう。トオルはこの周辺だけで活動すべきか迷ったが、まあいいだろうと楽観的になって、いつものようにふらふらと町中を歩くことにした。
住宅街は朝のせわしなさを反映するかのように人が慌ただしく行き交っていた。エンジン音はしない。強いて言えば、自転車がそれなりのスピードで行き交っているくらいか。
これぐらいの規模の《街》であれば車もいらないか、とトオルはその様を視界に納めながら道路を歩く。きゃあきゃあとはしゃぐ子供の声と、腕時計を見ながら早足で通り抜けていくサラリーマンの足音と、何やらゴミ捨て場で井戸端会議をしている主婦たちの声とが、奇妙な音楽となって住宅街を彩っていた。
ふらふらと歩いて、《街》へ入った時に小学生に囲まれた公園までたどり着く。早々に囲まれてしまった記憶のおかげで、トオルの中では立派なランドマークとなっていた。
「あ、トオルさんだ!おはようございます」
「おはよう」
勢いよく手を振りながら駆け寄ってきたのはホシノだった。黒い髪は変わらず一つに束ねられている。
まだ午前中だから、たまたま通りがかっただけだろうか。うれしそうに駆け寄るホシノに首をかしげれば、彼女はへらりと笑って見せた。
「見かけたので、つい声をかけちゃいました。これから散策ですか?」
「ついでに仕事もあれば探すつもりだが」
「《旅人》のお仕事!そういえば、トオルさんって何をしてお金稼いでるんですか?やっぱり語り部とか?」
「いや、俺は……口がそこまで回らないから」
はあ、と思わずため息をつく。話し下手な自覚はあるし、そこに劣等感を抱くことが全くないとは言い切れなかった。知己に口がうまい人間がいるのならばなおのこと。
少しへこんでしまうな、とつい目をそらした。そんなことないですよ、と慌てた様子でホシノが言うものだから、トオルは緩く口角を上げた。
「ほら、あの時の話も面白かったですし」
「それはホシノだからじゃないか」
《崩壊》の話を好き好んで聞く人間はめったにお目にかかれない。トオルとて、ここまでストレートに《崩壊》について聞いてきたのはホシノしかいないと記憶している。怖いもの見たさで聞いてくる人間はいるにはいるが、それくらいだ。
「そ、そうですかねー。みんな、言わないだけでいっぱいいると思いますけど」
「どうだか。終末の話なんて、聞きたいものじゃないだろ」
「――そうでしょうか。それ、見たことあるからそう思うだけでは?」
声が一段冷えた。
「私たち、結局知らないんですよ、《崩壊》なんて。生まれたときから《街》に守られて、遠い《街》が《崩壊》したって他人事なんですから」
黒い目が無感情に街を眺めている。通勤通学の時間が過ぎたからか、通り過ぎる人はほとんどいなくなっていた。
ホシノはふわりと笑うと、歩きませんか、と口にした。この間の報酬も渡してませんし、ととってつけたような理由を付け足して、人のいない道路の真ん中を歩いて行く。
トオルは何も言えずにその後を追った。かつての文明の名残がうっとうしくてたまらなかった。
公園を後ろに、商店街を突っ切っていく。先ほどの異様な雰囲気は微塵も見せずに、ホシノはあそこのお店は何がおいしいとか、ここのお店はこれがお得だとか、そんなことを教えてきた。空っぽの会話だと思って、トオルは曖昧に頷いて、ただホシノから離されないように足を動かす。歩くたびに鞄の中で工具がかちゃかちゃと音を立てていた。
寂れた町だったのだろう、商店街は想像以上に小さく、あっという間に通り抜けてしまった。空が広い。建物はポツポツとしかなく、そこが集団農地であると一目で分かる風景だった。
「牧畜は盛んではないので、《運び屋》に頼るしかありませんが、それ以外は自給自足できるので、まだましなんですよね」
ホシノはそう言って、人気のない農地に敷かれた道路を歩いて行く。僅かにゆがんだ田植えの跡が、トラクターなんてものがないことを訴えていた。
彼女は他者が周囲にいるときに《崩壊》の話をしたがらない。不自然に話題を変えて、聞かれないようにしている。
《街》が原因ではないだろうな、とトオルは踏んでいた。小林家の様子を見ても、自分が《街》へ入ってきたときの様子を見ても、彼らは特に《旅人》に対して過剰な拒否反応を抱いていなかったからだ。
酷いところは本当に酷いからなあ、と思い出してげんなりしてしまう。気持ちがさっぱり理解できないわけではないが、それにしても限度があると思う。入った瞬間石を投げつけなくてもいいではないか。
「《崩壊》って、どれくらい前から始まったんでしたっけ」
ホシノの問いに、それた思考を慌てて元に戻す。トオルは首をかしげてから、諸説あるが、と前置きをしてから口を開いた。
「三百から四百年前だっていうのが一般的じゃなかったか。《崩壊》の性質上、記録が残ってないのも多くて真偽は確かじゃないが」
「三百……」
黒い目が空虚に空を映した。午前から午後へと移り変わろうとしている空は、憎たらしいほどに青い。
「あはっ」
ホシノが息苦しそうに笑った。
「そんなに時間がたってるのに、
「そうだな」
「《運び屋》でも《旅人》でもない限り、《崩壊》のほんとうの姿を知らないから、皆――皆、逃げることを選んだんですね」
くしゃり、と端正な彼女の顔がゆがんだ。《旅人》であるトオルは何も言わなかった。否定できるはずもなくて、しかし肯定もできなかった。
ホシノは歩く速度を少しだけ早めて、トオルの前にでて歩く。こつん、とスニーカーに蹴飛ばされた小石がアスファルトに跳ね返って、畑に着地した。
「私、ずっと外のことが知りたかったんです」
「他の《街》のことか」
「それもありますけど、どちらかと言えば《崩壊》した後の世界のことですかねー」
ホシノの表情はトオルからは見えない。泣きそうな顔をしているのだろうな、とトオルは思った。
そんな嘆きを、確かに聞いたことがあったからだ。
「嘘だって思ってたんです」
――うそにきまってるじゃん、そんなの。
「きっと外には普通に道路が伸びてて、ぼうぼうの雑草が生えてて」
――おれたちの知らない植物だってたくさんあるにきまってる。
「《崩壊》なんて、大人の吐いた質の悪い嘘だって」
――だから、ちょっとだけみにいってみようぜ!
「……けれど、嘘ではなかった」
「はい、それは真実だったんです。外はお先真っ暗の終末世界で、いつかこの《街》も《崩壊》に飲み込まれて終わる」
ぴたり、とホシノの足が止まった。彼女は振り返らなかったから、トオルも彼女の後ろで足を止めた。
黒い髪が揺れている。それが風のせいなのか、かすかに震える肩のせいなのかは分からなかった。
「裕樹くんに朝会ったんですよ」
「あのすこし……かなり騒がしい子か」
「言い直す必要ありました?分かりますけど」
きゃんきゃんと勇ましい少年を思い出して、ついトオルは口元が緩んだ。いつの間にか振り返っていたホシノは、仲よさげでなによりです、とおかしそうに笑った。
「
しそうだな、とトオルは頷いた。
「でも、裕樹くん、びっくりするくらいおとなしくて。お友達もめちゃくちゃびっくりしてたんですから」
「おとなしかったのか、彼が」
「ええ、それはまさしく『借りてきた猫』のように!……これはちょっと過言ですが」
こほん、とホシノが咳払いをした。柔らかな笑顔が痛々しい。トオルの灰色の髪がふわふわと風に吹かれて揺れた。大して手入れもしていない髪は、あっという間にぼさぼさになることだろう。
「だから、きっとあの《旅人》さんは、いろんなことを教えたんだなあ、って思ったんです。この《街》、前にも《旅人》はきたし、《運び屋》もそれなりにくるから、子供の無謀な夢を打ち砕く手段には事欠かないんですけど。裕樹くんは、それでも諦めないタイプだったので」
「畜産に弱そうだしな」
「まー日本の畜産って北と南に依存してますから。中央部なんて移動手段たたれたらあっという間に死にますよね」
「まあ、存外たくましく生きてるが……」
あら意外、とホシノが大仰に驚いて見せたから、失礼だなあとトオルは苦笑した。
《崩壊》すれば、あらゆる文明の産物は意味をなさなくなる。数日放置すればあっという間に劣化するし、飛行機や車で突っ切ろうとすれば、ものの数分でエンジンが止まるという。
《街》と《街》をつなぐ手段は生物に限られた。この現代において、飛脚という職業が復活するとは夢にも思わなかったことだろう。
「ねえ、トオルさん」
ホシノがくるりと前を向く。彼女の表情は再び見えなくなった。
「せっかくなので、お時間延長していいですか?」
あくまで軽いトーンのそれに、トオルは小さく息を吐いた。
「日銭をもらえるのなら問題ないよ」
ホシノはおかしそうに笑っていた。
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