未来なんて

 小林家に戻れば、遅いぞ、という甲高い声が耳を貫いた。小学生の高温は耳にいたい。トオルは思わず眉を寄せて、ちゃんと十九時前だ、と裕樹に言った。

「ふん、門限は六時だぞ!」

「それは君の門限だろう」

「おれが六時なんだから、おまえもろくじ、いたい!」

 すぱーん、と気持ちのいい音が響くと同時に裕樹がしゃがみ込む。なにするんだよ、という文句は後ろの少女に向けられていた。

「お客様を困らせるなって、お母さんも言ってたでしょ!ほら、謝りなさい!」

「うっせー!だれがあやまるか!」

「あっ、こら!」

 裕樹はべーっと舌を出して、勢いよく階段を駆け上がっていった。その様を見送って、少女は大きくため息をついた。

 裕樹よりも背が高く、しっかりものらしい。姉だろうか、と推測を立てたそれは、少女の次の言葉で答え合わせされた。

「その、弟がごめんなさい。わたしは小林由紀乃っていいます」

「気にしていませんので。篝透です」

 礼儀正しく一礼して、ご飯はもうすぐできるので、落ち着いたらリビングにお願いします、と要件だけ簡潔に伝えてから階段を上がっていった。

 裕樹ーっ、という怒鳴り声から察するに、説教でもしに行ったのだろう。トオルも二階で寝泊まりするのだが、果たして安眠できるのだろうか。

 いや、屋根とベッドがあるだけ上等すぎる、とトオルは贅沢とも言える欲求をドブに捨てることにした。

 かちゃ、と落ち着いた音に振り返る。リビングに通じるドアから現れたのは有希だった。

「騒がしくてごめんなさいね」

「賑やかでいいことです」

「そう言ってもらえると助かります」

 有希は眉を下げて階段を見上げた。もう少し落ち着きが出るといいんだけど、と独り言を付け足してため息をつく。どこの《街》でも親の悩み事は似たものがある。

 トオルは自分の持ち物と身なりを確認して、まだフライ返しを持ったままの有希に声をかけた。

「荷物を置いたらリビングに向かうつもりですが、よろしかったですか」

「え?ああ、もちろん。お夕飯はもうすぐできますから、遠慮せずに食べてくださいね」

 腕によりをかけて振る舞いますので、と有希は快活そうに笑う。それは楽しみです、と社交辞令のような言葉を吐いて、それでは、と会釈をして背中を向けた。

 胸の奥がひりひりと焼け付くように痛い。きっと、思い出すものが多かったせいだろう。

 階段を上がって、泊まる部屋のドアノブを回す。工具と貴重品が入った鞄を置いて、すぐに部屋から出た。

「おい、おまえ」

「篝透だ」

「篝!なあ、おまえの母さんと父さんって、《旅人》になるのに反対ってしたのか」

 相変わらず失礼な態度で裕樹は聞いた。それでも目には真剣な光が宿っている。

 トオルは裕樹から目をそらして、しかしきちんと答えないと失礼だな、ともう一度目を合わせる。黒く幼い目がトオルをまっすぐに射貫いてくる。

「いいや」

 裕樹は一瞬表情を明るくしたが、トオルの次の言葉に言葉を詰まらせた。

「《崩壊》で死んだからな」

 だから、トオルは理由もなく《旅人》なんてものになったのだ。

 裕樹は次の言葉が紡げずにうつむいてしまう。夕飯じゃないのか、と言えば、腹減った、と小さな声が返ってきた。

 かわいそうだったかと思わなくはない。ただ、そこは誤解のないよう伝えなければならないだっろう。それがこの家に滞在するための約束だ。

 トオルは灰色の目に暖色の明かりを映して、普通の家だな、と思った。

 普通で、いい家だ。

 階段を降りて、リビングに入る。裕樹がトオルのすぐ後ろから出てきたのを見て、由紀乃は驚いたように二度見した。

「うわ、裕樹がめちゃめちゃ素直についてきてる。明日は雪だね」

「は?うるせー。おれがだれの後ろから来ようがかってだろ」

「何、その言い方。いっつも最悪だけど、今日は一段と最悪じゃん」

「二人とも、今けんかするのはやめなさい。お客さんがいるのよ」

「そうだぞ、ご飯もおいしくなくなってしまうから、やめような。ほら、裕樹は口が悪すぎ、由紀乃は言い過ぎだ」

 姉弟はむすっとして、ついにそっぽを向いてしまった。弟が小学生なら、姉は中学生くらいだろうか。全く平和なことである。しかし客を喧嘩の仲裁に使うのはやめていただきたい。別にトオルは不愉快になっていないのだ。

 篝さんはこちらに、と椅子を引かれて、姉弟の様子が気になりつつも椅子に座る。白米に味噌汁、キャベツの千切りに野菜炒め。小さな器にはポテトサラダが盛り付けられていた。

 街の光景を思い出す。そういえばここに牧場なんてあったかな、と考えて、やめることにした。考えても仕方がないし、口を出すようなことでもない。そもそも口を出す権利もない。

 流れ者なのだから、流れ者らしくいるべきだ。トオルは全員が食卓に着くのをぼんやりと眺めて待っていた。

 やはりすねたままの姉弟がやっと座って、それじゃあいただきます、と小林夫妻の明るい声が場違いなほどに響いた。かちゃかちゃと食器の音が響く。トオルも盛り付けられた夕食を口に運んで咀嚼した。特筆することのない、普通の夕食だった。お世辞程度に、おいしいですねというくらいの料理。

 いくらか料理を口に運んだあたりで、裕樹がそわそわとし出した。ちらちらとこちらを見ているあたり、なんともわかりやすい。トオルは裕樹を一瞥して、夕飯を食べたら裕樹の部屋をたずねてやろうか、と考えた。もしかしたら裕樹のほうから来るかもしれない。

 どこか気まずい空気を感じながら口に運ぶ。そのせいなのか、裕哉も有希もあまり口を開かない。すねているらしい由紀乃はだんまりだし、裕樹もだ。

 トオルは夕飯をすべて食べ終えると、ごちそうさま、と食器を片すべく平皿に茶碗やら小皿やらをまとめ始めた。

「食器はこちらで片しておきますから」

 有希が台所へ向かうトオルを引き留めて言う。人によっては台所に他人が入るのを嫌がるという。有希もそのタイプかもしれないな、とトオルは素直にうなずいて、テーブルの上に食器を置いた。

「お風呂はどうされますか」

「入れるのであれば。無理にとは言いません」

「ああ、なら順番はどうされますか」

「最後で構いません」

 裕哉がわかりました、とうなずく。

 トオルはさっさとリビングを出て、与えられた部屋にこもることにした。明日からは日銭を稼いで、可能であれば買い出しもしたい。やることは山積みである。

 工具の調子を確認するべく鞄から出したあたりで、こんこん、と控えめな音がした。工具からは目を離さずに、どうぞ、とだけ応える。工具の方は、今日は一つも使わなかったし、以前の《街》を出る時にも手入れはしたから、特に何もする必要はなさそうだ。

「なあ」

「その口の悪さが姉さんと喧嘩する原因なんじゃないのか」

「うっせー。おまえには関係ないだろ」

 ぷい、と裕樹はそっぽを向いた。なんとも憎たらしい子供である。トオルは腹を立てるわけでもなく、入ったらどうだ、とドアを開けてたちっぱなしの裕樹に声をかけた。

 裕樹はなぜか警戒するように部屋を見渡してから、ゆっくりと左足をだす。頭も一緒に出しているから失格だな、という幻聴が聞こえた気がして、いやそんな蛮族の国でもあるまいし、とトオルはその幻聴を振り払った。

「なあ、篝はさ」

 ドアを閉めてから、裕樹は座りもせずに口を開いた。

「小学生の頃は、《旅人》になりたくなかったのか」

 トオルはぱちぱちと目を瞬かせて、そうだな、と腕を組んで考え込んだ。古い記憶だから、思い返すにも時間がかかる。

 小さい頃は、どうだっただろうか。普通の家庭に生まれたトオルは、当たり前に両親の愛を受けて、当たり前に《街》で暮らしていた。

 《崩壊》が迫るまでは。

 灰色の目を裕樹に向ける。幼く黒い目が、何かを訴えるように、あるいはすがるようにトオルを見つめている。

 この子は、とトオルは一度口を結んだ。

 きっと、強い子だ。強くて、賢い子だ。この年で、このただぼんやりしていれば生きていける《街》から出たいと望む、変化を望める子だ。

 他の誰が無謀だ愚かだと笑ったとしても、トオルだけはその心を肯定してやらなければならないと思った。

 しかし同時に、トオルだからこそその心はしまっておくべきだと言わなければならなかった。

「何も考えてなかったよ」

 一つ呼吸を置いてから、トオルはゆっくりと口を開く。柔らかな低音が、じんわりと部屋に広がっていった。

 裕樹はじっと聞いている。昼間のうるささが嘘のようだ。

「当たり前に親が居て、学校に行って、当たり前みたいに明日があると思ってたから」

「当たり前じゃ、なくなったのか」

「《崩壊》の発生条件は特定できてない。基本は栄華を極めた大都市から発生するらしいが、なぜか逃れて今まで存続している都市も多いからな」

「……難しい言葉ばっか使うやつは馬鹿なんだぞ」

「すまない……」

 トオルはそっと顔を背けた。小学生に指摘されると純粋に恥ずかしい。そして情けない。眉間にしわを寄せてトオルの言葉をかみ砕こうと強いてくれている裕樹に申し訳が立たず、トオルは頭をフル回転させてもう一度口を開いた。

「いつ、どこで《崩壊》が起こるのかは誰にも分からないんだよ。最初こそ、大きな……東京とか、上海とか、ロンドンとか、そういう場所から消えていくのだと騒がれたものだが、今でもロンドンは健在だ」

 トオルは裕樹の顔をもう一度見てみた。真剣な顔で、じっとトオルの言葉に耳を傾けている。一言一句聞き逃すまいと言う姿勢だった。

「俺の住んでいた《街》は、別に大都市だった場所から遠くもなければ近くもない、別に栄えた名残があったわけでもない場所だった。だから、誰も《崩壊》が起きるなんて思わなかったんだよ」

 苦いものが喉の奥までこみ上げてくる。トオルは目を閉じて、それを再び飲み込んだ。

 この若い命に、何を語れるだろう。

 約束はあるが、それ以上に真摯に向き合わなければならないという確信があった。

 がらがらと崩れていく音は今でも耳に染みついて離れない。色を失った誰かを鮮明に思い出せてしまう。知らず、喉に右手を持って行っていたことに気がついて、トオルは左手で右手を押さえるように膝の上に置いた。

「最初の《崩壊》は誰も居ない公園の管理小屋だった。見つけたのは俺の同級生で、慌てて走って大人に伝えた」

 けれど反応は実に淡泊だった。

「仕方ないね、とそいつの父親が言った。そう言われれば、同級生も、しかたないんだ、って納得してたか」

「な、なんで?だって、《崩壊》がはじまって、まきこまれたら」

「死ぬな」

「じゃあ、どうして!」

 耐えきれなくなった裕樹が声を張り上げたとき、どんっ、と鈍い音がドアから響いた。

「うるさいんですけど」

「なんだよ、話してるだけじゃんか」

「声がわたしの部屋まで聞こえてきてるんだってば。もうちょっと静かにしなさいよね。あと風呂」

 言うだけ言って、由紀乃はさっさとドアを閉めてしまった。うるせー姉ちゃん、と裕樹が文句を言うものだから、トオルはつい笑みを浮かべてしまった。

 姉ちゃんがうるせーから、と裕樹は名残惜しそうにトオルを見つつ立ち上がる。

「別に、数日は居るつもりだが」

「少ししか居ないじゃんか」

「確かにな」

 裕樹は不機嫌そうに顔を背けて、風呂出たら話の続きな、と一歩的な約束を押しつけて部屋から出て行った。一人になった部屋は酷く静かで、なぜだかとても広く感じられた。

 ぼすりと力なくベッドに倒れ込む。今日離れないことをしたせいでとても疲れてしまった、とトオルは天井をぼんやりと見つめた。明日以降もそう変わらないことを考えて、トオルは現実逃避をしたくなる。話し下手がここまで効いてくる日が来るとは思わなかった。

 ホシノと裕樹。ともに《旅人》と《崩壊》について知りたがる変わり者だ。しかし、この二人はどこか違うとトオルは感じていた。

 そういえば、とホシノを思い出してトオルは身体を起こす。

(ホシノは俺たちと名乗り方を合わせたな)

 ホシノ=ミズトメ、と彼女は名乗った。その直前にミズトメと言いかけていたから、本当は小林家と同じように名乗ろうとしたはずだ。

 どこかで《旅人》とであった経験があるのかもしれないな、と結論づける。単に憧れからそう名乗ったのかもしれないし、別の理由が会ったのかもしれない。いずれにせよ、トオルには関係のない話だ。

 白い天井をもう一度見上げて、眩しくてやっぱり下を向く。夕飯に肉はなかったなあ、と贅沢なことを考えて、くすりと一人で笑った。風呂には入れるのだから上等だろう。

 《崩壊》が広がり、《街》と《街》の行き来は困難になった。それでもエネルギーに問題はないのは、ひとえに再生可能エネルギーと呼ばれたそれが発達したからだ。

 皮肉な話で、それらは《崩壊》が観測された後に瞬く間に広まった。その頃には太陽光だの水素発電だの、いろいろな発電手段があったから、とにかく死なないためにエネルギーの確保を行うべく次々とそれらは普及していったのだ。

 もっとも、それらを普及する自力のない場所ではどうしようもない。

 飢えに苦しんだ《街》を知っているし、自滅したとおぼしき《街》も知っている。前者は実際に見てきた。後者はもうほとんど聞かないが、《崩壊》が初めて観測され、《街》という概念ができあがっていった当初は多かったらしい。

 何から話そう。何を話そう。トオルは照明に照らされて白くなった手のひらを見つめて、灰色の目を迷いに揺らす。

 どうすれば、後悔のない選択ができるだろう。何を話せば、彼らの助けになるだろう。

(わからない)

 ずきりと頭が痛んだ。あのロケットペンダントの写真を未だに確認することもできない自分に、何が話せるのだろう。トオルは答えの出ない疑問をこねくり回しては、ただ息苦しさに顔をしかめた。そのたびに、馬鹿だなあ、と笑ってくれる友人を思い出して、トオルもなんとなく笑うのだ。

 ぼうっとしていれば、そのうち風呂だと呼びに来るだろう。いつまでもこないのなら、様子を見に行けばいい。

 だから、今はただ、とベッドに横になる。照明を真正面から見てしまわないように、仰向けではなく横向きに。

(明日――明日になったら。明日になったら、裕樹と少し話して、外に出て。それからホシノとまた話して、ああ、そうだ。由紀乃の様子も少し気になるから、可能なら様子を見れれば)

 眠くなるな、と身体を起こす。さすがに風呂には入ると言いながら寝こけるのはよろしくないだろう。

 そう身体を起こして、眠気覚ましに工具をいじっていれば、控えめなノック音とともに裕樹が入ってきた。

「風呂だって」

「分かった」

「風呂出たら話の続きだからな。わすれるなよ」

 裕樹がそう念押しするものだから、忘れてないぞと小さく笑った。ついさっきまでそのことで悶々としていたのだ。忘れる訳もない。

 換えの衣服を持って一階へ降りる。小林家の風呂は、やはり至って普通だった。久しぶりの風呂なので、ひとまずは汚れを落とすことに専念する。《崩壊》した後の土地を歩き続けたせいで、髪の毛は埃をかぶってゴワゴワとしている。多分身体も汗も相まって垢だらけなことだろう。とにかく念入りにお湯で洗い流す。

 ようやく納得できるくらいに、厳密に言えば流すお湯が濁らなくなったくらいにお湯につかる。やはり《旅人》なんてものになるやつはただの物好きだな、とトオルは思って、しかし《街》で一生を過ごすことを当たり前だと思うのも、どうなのだろうな、と眉間にしわを寄せた。

 風呂から出て、借りていいと言われたドライヤーをありがたく拝借して髪を乾かした後に二階へ上がる。

「……まさか、ずっとそこに立ってたのか」

「しらを切ろうとしたってむだだぞ!」

「切るつもりなど最初からないんだが」

 トオルは思わず困惑の表情を浮かべた。難というか、この少年、なかなか人間不信らしい。トオルはややずれたことを思って、ため息をついた。

 裕樹がドアノブを回して、トオルが寝泊まりする部屋に入る。元々着ていた衣服は洗ってくれると言うから、お言葉に甘えて一階に置いてきていた。

「なあ、さっきの続きなんだけどさ」

「その前に、時間だけ先に決めておくぞ。十時までだ。俺も明日があるし、十時を過ぎたら寝る」

「わかってるっての。おれだって明日学校だし」

 裕樹は出鼻をくじかれたのが気に入らなかったらしい。途端に不機嫌そうに顔を背けられてしまい、子供だなあ、と表情を変えずに少年を視界に納めた。

 それで、とトオルが声をかける。このまますねられても話が進まない。何より、裕樹にはトオルに聞かなければならないことがそれなりにあるはずなのだ。

 裕樹は部屋に備え付けられていた椅子を引いて座ると、じっとトオルの顔を見てから、おずおずと口を開いた。

「なあ、篝の《街》は、避難とか考えなかったの」

 疑うような声は震えていた。恐ろしいと感じるのは当然だろう。《崩壊》はいつ起こるか分からない。傾向はあるが、それをあっさり裏切ってくるときもある。そのとき、諦める選択をとるのなら、それは自殺と同義だろう。

「さあ。俺はそのとき子供だったから、分からん。考えたのかもしれないが、結局逃げるってのは選ばなかったな」

 トオルは灰色の目にかすかな郷愁を浮かべていた。裕樹はそんなトオルをじいっと見つめて、わかんないや、と小さくつぶやいて下を向いた。

「俺も分からなかった」

「篝もわかんなかったんだ」

「だからここに居る」

 短い言葉はトオルの複雑な心を表すにはあまりにも力不足だった。それでも、裕樹はきゅっと口を結んで、トオルから目をそらすことはなかった。

「何も知らない子供だったから、同じ《街》に住んでたやつと二人して逃げる算段を整えたんだよ」

 それがあの口やかましい友人だ。本当の理由が少しだけ違うことぐらいは幼いトオルにももちろん分かっていたが、共犯者のように準備をする時間は楽しかったと記憶している。

 信じられなかったし、許せなかった。トオルはそのとき絶対に死にたくなかったし、まして何もかも無力に《崩壊》に巻き込まれて終わるなんて結末は嫌だった。

 だから、逃げようと駄々をこねた。いままでずっといい子だった子供が、初めて親の制止を振り切ったのがそのときだ。

「俺の《街》の《崩壊》は早かったな」

 一年どころか、ほんの一、二週間ほどだったか。荷物をまとめて、友人と二人して《街》の敷地外へ走って逃げた。

 《街》は異様なほどに静かだったはずだ。

 ほんの数日後には滅んでしまうとは思えないくらいに。

「俺が《旅人》としてふらついているのはそういう理由だ。《旅人》にまったく憧れがなかったとはいえないが、なりたいと願ったわけじゃない。そうならざるを得なかっただけだ」

 かち、かち。壁掛け時計の秒針が音を立てて回っている。

 驚くくらいには冷静に話せている、と思う。元より人付き合いが苦手で、なんとなく一人でいることが多かったトオルは、存外頑張って話せているのではないか、と内心小さくガッツポーズをしていた。

 何より、トオルにとってはトラウマといって差し支えない幼少の出来事を、感情に振り回されることなく話せたのは自分でも意外だった。

 まだロケットペンダントは開けない。あの《崩壊》から既に十数年は経過している。普通に生きていれば、両親の死なんて、とっくの昔に昇華できている頃だろう。

「学校で、《崩壊》が起きたら《避難》するんだって、習ったのに」

 ぽつりと裕樹が口にした。そうだなあ、とトオルは肯定して、でもそうはならなかった、という言葉は飲み込んだ。

 かち、こち。時計の秒針がぐるぐると飽きもせずに回っている。

「今日はもう寝るといい。明日も話せる」

「えー」

「えー、じゃない。明日も学校なんだろう。一度に詰め込むと、寝れなくなる」

「篝はそうかもだけど、おれはそうじゃねーし」

 このクソガキめ。

 トオルはため息をついてから、さっさと寝ろ、と追い払うように裕樹をドア付近に誘導する。ぶつくさ文句を言いながら、裕樹は結局退散することにしたらしかった。

「明日も話きくんだからな」

「分かっている」

「わすれるなよ!」

 びしっ、と指を指される。トオルは眉を下げて笑って、さっさと寝ろ、と繰り返した。

 賑やかな子供が消えた部屋は、やはりだだっ広く感じられて仕方がなかった。

(……あ)

 その感覚の正体になぜだか検討がついてしまって、トオルは光から顔を背けるように枕に顔を埋めた。

(あいつと、《街》を飛び出した時と、それから)

 ゆらゆらと記憶が揺れている。

(《崩壊》で色を失った、だれかを)

 ぎちり、と嫌な音がした。しかし力を抜くことはかなわなかった。息が浅くなる。痛む心を無視して、トオルはその既視感をたぐり寄せた。

(――両親と、妹を見たときの)

 一人でいることが多かった。しかし、孤独ではなかった。友人がいたし、ませた妹が居て、優しい両親が居た。記憶の中にしかもう居ないから、家族に関しては多少美化されていることだろう。

 それでもずきずきと痛んで仕方がない。浅くなった呼吸を整えるように枕から顔を離して深呼吸を試みる。

 げほっ、とむせて、力なく笑った。なんとも馬鹿らしい。

 今日はもう寝よう、と照明を消すべく立ち上がる。机の上に置いた銀色のロケットペンダントが目に入って、息を吐いた。

 癒えない傷はそのままに、しかし抱えているからこそ話せるものもあるだろう。

 ぱちん、と照明の電源が落ちる。街灯の少ない住宅街だからか、シャッターを閉めていなくても窓の外は真っ暗だった。

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