第二区間
巨大な車輌基地と針葉樹の森林を横目に竜は走り出す。
段々と速度を上げてそれらを置き去り、瞬く間に景色の彼方に追いやった。
白い湖 ―エーラズィラ― までは青の森からおよそ三日。
必然的に旅人の荷物も大きくなる。
白き煙を噴き上げる龍の頭が右を見た。
それに繋がる体もそちらへ続き、龍は大地に三日月を描く。
行く手を映すイリュリチカが眺める窓の奥に、先を行く機関車の煙突が見えた。
龍が体を反らした理由は大陸東部の山脈だ。
四千
それ故に鉄路は大きく湾曲し、北へと伸びているのだ。
標高が上がり続けている事で外気は段々と冷えていく。
空には厚く重い灰色の雲が広がり、世界を暗く覆っていた。
窓に、ぱっ、と氷の華が咲いた。
それを契機に窓が段々と白く染まっていく。
雪だ。
遂に極寒の豪雪地域へと足を踏み入れたのだ。
白に染まる世界を意に介さず、鉄龍は突き進む。
イリュリチカの身体が、ぶるり、と震えた。
魔石が組み込まれた車輌内部は、気温や湿度が安定化されている。
だが、それにも限界があるのだ。
肌寒く感じる程度には室温が下がっていた。
長椅子に掛け直し、せっせと窓を覆い隠していく雪の花たちを見守る。
彼女の向かいには同じように窓を眺める一人の女性がいた。
年齢はおそらく三十辺り。
毛先が少し波がかったショートボブの赤髪。
薄くはあるが丁寧な化粧が彼女の品の良さを醸し出していた。
灰色のシャツにイリュリチカと同じような毛糸編みの上着を羽織っていた。
上着の左胸元には小さな銀のブローチが付けられている。
正円の花を元にした
花はおそらく
シンプルではあるが綺麗な品だ。
下は紺色のロングスカート。
足下は締め紐や留め金の無い黒の
頬杖を突く手は、黒の薄い布手袋によって覆われていた。
全体的に落ち着いた印象を受ける女性だ。
彼女が現在の同居人である。
イリュリチカは考えた。
目の前の同居人について。
彼女は青の森から乗車した。
だが、荷物は小さな鞄が一つだけ。
おそらく財布と小物くらいしか入っていないだろう。
着替えも何も持ってきていない、という事になる。
適当な衣服であれば売店車で購入が可能だ。
だが鞄が無い以上、それを運ぶ手段が無い。
一人旅では荷物を極力減らして移動する者がいる。
衣服などを現地調達して、その都度不要になった物を他者へ譲っていくのだ。
物々交換で必要な物を調達する事もあると聞く。
彼女もそういった旅の途中、という事なら荷物の少なさは理解出来る。
本当にそうなのかはまだ判断がつかないが、
彼女の目的地はどこだろうか。
荷物があまりにも少なく、服装は軽装。
少なくとも豪雪地域の白い湖で降りる格好ではない。
とするとその先。
ソツァニア共和国の首都『チオエスタ』だろうか。
白い湖から更に一日の距離、彼女とは四日の付き合いになりそうだ。
身体が感じる寒さが増した。
気温が下がったのではない、体温が下がったのだ。
端的に言えば、お腹が空いた、である。
少し早いが昼食にしよう。
長椅子から立ち上がると同時に、向かいに座る彼女に視線を投げた。
こちらの動きには一切興味がない様子で変わらず車窓を見つめている。
だが、窓は真っ白のキャンバスへと姿を変えていた。
見ていて面白いものでは無いだろうが、彼女には何か思う所があるのかもしれない。
イリュリチカはそう思いながら、部屋を後にした。
食堂車の風景は変わらない。
手際良く自らの仕事を成し遂げる料理人。
彼らの仕事を自らの舌で楽しむ乗客。
旅での新たな出会いを
静かながらも活気のある、そんな空間だ。
イリュリチカもまた、その空間の一員となる。
昨日おにぎりを依頼した料理人が彼女を見付け、声をかける。
軽く言葉を交わし、彼の勧める自慢の料理を皿に盛り、イリュリチカは席に掛けた。
昨日と同じ、窓際の席である。
料理人お勧めの料理は、桃色鶏の故郷煮 ―ロザトゥーフロジネーツ― だ。
桃色鶏はソツァニア共和国の一般家庭で飼育されている鶏だ。
その肉を大きめのぶつ切りにして、バターを入れた鍋に放り込む。
玉ねぎを乱切りにして桃色鶏が待つ鍋に追加し、粒胡椒と塩を投入。
月桂樹の葉を載せて弱火でじっくりと煮込んだ料理である。
水を一切入れない、という特徴があるソツァニア共和国の家庭の味だ。
皿に盛られたそれは、お世辞にも彩り鮮やかとは言えない。
過剰に飾る事無く落ち着いた
フォークで鶏肉を刺した。
予想よりもずっと柔らかく、良く煮込まれている事が分かる。
口に入れると程よい塩気とバターの香り、鶏の旨味と玉ねぎの甘みが広がった。
水を一切入れていない事で、玉ねぎの水分だけで煮込まれている。
それ故に味が濃縮されているように感じるのだろう。
水源となった玉ねぎは
スプーンで汁と共に
先程よりも玉ねぎの甘みが強く感じられた。
だが、胡椒が入っている事で甘いだけではない強さも響く。
国土の三分の一が凍土に覆われるソツァニアの大地。
その地に住む人々の優しさと強さが見えるような料理である。
食事を終え、イリュリチカは
扉を開けると、出て行った時と変わらずに窓を見つめる赤髪の女性がいた。
殆ど同じ姿勢と表情、イリュリチカが入ってきても全くそちらを見ない。
イリュリチカは長椅子に掛け、
ふと女性がこちらに視線を向けた。
ぱちり、と二人の視線が意識せずに合う。
イリュリチカは視線を動かさない。
見つめ合う事なく、すっ、と赤髪の彼女は視線を下げた。
頬杖を突いていた姿勢を変える。
机の下に置いていた左手を机の上に出し、右手の上に置く。
が、すぐにその手の上下を変え、左手を右手で覆うように置き直した。
それから数時間。
互いに声をかける事も無く、時間は過ぎていった。
時間を持て余したイリュリチカは
表紙には『食の旅情』とある。
今ほど交通網が発達しておらず、魔獣の襲撃も多かった時代。
そんな時分に魔獣を打ち倒しながら旅をして、各地の料理を楽しむ。
実在した向こう見ずの自伝小説である。
長椅子に戻り、イリュリチカは物語を読む。
極寒の湖に辿り着き、誤って足を滑らせて湖にドボン。
あまりの冷たさに一瞬で意識が無くなり、死にかけた所を現地の人に助けられる。
彼らに介抱されながら食べた質素なスープが何よりも旨かった。
そんな少しばかり間の抜けた主人公の旅路の記録だった。
物語を見ながら、イリュリチカは向かいの女性の様子を
体勢を正面へ向けてはいるが、顔は窓に向いている。
時折、他の方向へ視線を向けるが、しばらくすると再び窓に視線が戻った。
たまにイリュリチカに一瞬だけ視線を投げるが、視線が合うとすぐに
落ち着いているように見えて所在無げ、といった様子に見える。
イリュリチカは再び彼女について考えた。
彼女は荷物が少ない。
そういった旅人である、とも考えられたが、おそらく違う。
大抵の場合、そういった事をする者は他の旅人と友好を深めるのだ。
持ち物が少ない事で足取りが軽い。
それに釣られるように他者への行動も軽いのだ。
情報共有の為に、そして旅の道連れを得るために、彼らは他者に声をかける。
彼女にそのそぶりは無い。
となると、身軽である理由が不思議である。
彼女には同行者がいる、とは考えられないだろうか?
この列車は多くの旅人を乗せる。
それ故に同じ部屋を取れない場合も多いのだ。
一人旅であるイリュリチカには影響は無いが、大体の旅人にとっては面倒事だろう。
例えば、この列車のどこかに彼女の夫と子供がいる。
そちらは同室であり、部屋を広く使える事から荷物は全てそちらにある。
そうであれば、彼女の荷物が少ない理由になるだろう。
だが、それだと妙な事がある。
なぜここに居続けるのか、だ。
彼女の様子はどう見ても退屈そうである。
家族か、友人か。
同行者がいるならばそちらへ行けば良い。
退屈であるならば列車内を見て回る事も出来るはずである。
それを彼女はしない。
部屋の外に出ない理由があるのだろうか?
彼女の表情はずっと
家族や友人との旅であれば、もっと楽しげにしそうなものだが。
何故だろう。
イリュリチカの脳内にある考えが浮かび、本をめくる手が止まる。
何かから逃げている、隠れている、というのはどうだろう。
荷物が少ないのも追跡者を
部屋から出ないのも万が一車内に追跡者いた場合に見付らないようにするため。
と、すると。
彼女は。
犯罪者、だろうか?
単純に誰かに追われて列車に乗ったのであれば、列車内に追っ手はいない。
気がかりな事があったとしても、この車内は安全であり、羽を伸ばせるはず。
だが、ここでも隠れるという事は追跡者は複数、車内にも存在する。
それも部屋から容易に出られない程に多い、という事になる。
列車内には万が一の時のために軍人が乗車している。
当然彼らは武装しており、犯罪者に関する情報を共有しているのだ。
逃げ場のない走る密室で彼らに見付かったら確実に捕まる。
だから部屋から出ない。
残念ながら合理的だ。
不可解な要素は無いように思える。
女性の様子を
青の森から出発して、まだ半日だ。
次の白い湖まで二日半。
時間はたっぷりとある。
イリュリチカは自身の導き出した答えに対して、脳内で一つため息を
それから二日。
特に何の動きも無く時間は進んだ。
女性は変わらず、同じ格好でただそこに座っているだけ。
食事に立つのは一日一回、時間は決まっていない。
時折、こちらを見るのも相変わらずだ。
そんな多少の緊張を
列車が走る音だけが響く部屋の中で、二人は向かい合い、されど目を合わせない。
女性の右の手元にはソーサーに載ったカップが置かれていた。
まだ熱を持つ事を主張するかのように、注がれた紅茶が湯気を発している。
食堂車から持ってきた物だろう。
それに口を付け、ため息を吐き、女性は窓を見る。
イリュリチカは変わらず本を読んでいた。
そんな時、がだん、という音と共に車体が横に大きく揺れた。
普通の揺れではない。
おそらくは先頭の機関車が撥ね飛ばした魔獣が車体に当たったのだろう。
車体が揺れた事で、イリュリチカもまた身体を揺さぶられて体勢を崩す。
咄嗟に机に手を突いて椅子から落ちそうになる身体を支えた。
それと同時に、がちゃん、と目の前で音がする。
「熱っ!」
お向かいの女性が初めて言葉らしい言葉を発した。
揺れによって紅茶が零れ、彼女の手を濡らしたのだ。
紅茶はまだ十分な熱を持っている。
女性はその熱湯が染みてしまった左右の布手袋を大急ぎで外した。
左手は覆っていた右手に守られたのか、無事だったようだ。
幸いな事に火傷はしていない様子。
イリュリチカは
女性は礼を言って、無事だった左手でそれを受け取った。
イリュリチカは気付く。
彼女の手を見た事で。
そういう事だったのか、と納得し、イリュリチカは不機嫌そうな表情を浮かべた。
彼女が荷物を持っていないのは何かから逃げていたから。
これは間違っていなかった。
だが、その意味が違ったのだ。
追跡者など存在しない。
いや、いなくなった、と言った方が良いのかもしれない。
化粧から身だしなみに気を遣っているのが分かる。
でありながら、服装の色合いは単調で暗い印象だ。
それは彼女の精神状態を表している。
毛先だけが波がかった髪は、おそらくは元々長髪。
理由があって彼女はその長い髪を切ったのだ。
あまり外に出なかったのは軍人に見付かるのを避けたかったから。
だが、その理由は彼女が犯罪者だからではない。
軍人ならば、彼女が向かう先とその理由を嗅ぎ取る可能性があったからだ。
彼女が行おうとしている事の結果は、彼らにとって身近なある事象をもたらす。
それに気付かれれば旅の理由を失ってしまう、そう考えたのだろう。
何度も視線が合ったのは、とある理由から。
実に身勝手な、実に自分本位な、彼女の願望だ。
見ず知らずの他人に自分の結論を任せる、愚かな行為だ。
食事をあまり取らなかったのは、その必要が無かったから。
退屈を紛らわせる事をしなかったのも同じ事。
間違いない。
彼女は『自殺』する気だ。
白い湖へ飛び込んで。
イリュリチカは本を机に置き、彼女を真っすぐに見た。
「止めてほしいならそう言って。」
「・・・・・・・・・・・・え?」
突然、目の前の少女はそう言った。
どういう事か理解が出来なかったが、彼女は真っすぐに見つめてくる。
その透き通った
いや、そんな事があるわけが無い。
そもそも言葉を交わしてすらいないのにどうして?
彼女から受け取った
・・・・・・左手?
あ。
「貴女の目的地は
少女は指をさす。
私の左手を。
いや、もっと細かく。
左手の薬指を。
そこには何もない。
あったはずの物が無くなった痕だけがある。
咄嗟に右手で左手を隠す。
自分を見透かされている状況から身を守るかのように。
だが、少女は言葉を止めない。
「白い湖は温泉地。でも、目的地は温泉じゃない、他にある。」
少女の視線が私の目を離さない。
どうしてか、その視線から逃げることが出来ない。
充血した私の目が彼女にはしっかりと見えている事だろう。
「貴女の目的地は白い湖。一瞬で命を呑み込む、その
ああ。
正解だ。
ありがとう。
これで私は。
「自殺を止めてほしいなら他を当たって。私にその理由はない。」
「え。」
少女はそう言って手元の本を取り、再び
なんで?
どうして?
そこまで分かっていて何故?
なんで、たすけて、くれないの?
「どうして?」
思わず、口を
少女はそれを聞いて、ため息を吐く。
「他人だから。貴女がどうしようがあなたの勝手。私がどうしようが私の勝手。」
冷たい、話に聞く白い湖のような、氷のような言葉。
助けてくれる、そう思った希望の相手は冷徹な氷の華だった。
十年連れ添った夫と離婚して、悲しみに泣き腫らした目からは、もう涙が出ない。
それでも、身勝手でも、悲しく思ってしまう。
この少女の言う通りだという事は理解出来る。
だが、それでも―――
「だから、貴女がこれからどうしようがあなたの勝手。」
同じ言葉を重ねられた。
そんなに言わなくても良いじゃない、と思う。
いや、何か違う。
これから?
少女は再び顔を上げ、私を真っすぐに見た。
そして指をさす。
今度は手元ではなく、私の左胸元を。
「
イリュリチカは、至極簡単な事の様に言い切った。
「次は温泉地、働き口は多い。上手くいかなければ湖に飛び込めばいい。」
その言葉に女性の目に小さな、とても小さな光が宿る。
同時に彼女の目から雫が落ちた。
落ちた雫に光が宿る。
窓に目を向けると、真っ白だったキャンバスに絵が映し出されていた。
重く厚い雲はその姿を消し、
この時期の白い湖には珍しい程の快晴だった。
ソツァニアの大観光地に龍は辿り着いた。
多くの乗客はこの地が目的地であり、列車内は途端に静かになっていく。
赤髪の女性もまた目的地へと到着した。
その顔はどこか晴れやかで、吹っ切れたように見える。
彼女は一言、ありがとう、とイリュリチカに礼を言って去っていった。
彼女のブローチは
希望や挑戦をその花言葉に持つ花だ。
イリュリチカは彼女を見送り、新しい本を開く。
その先の物語を楽しみにしながら。
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