墓標
雨宮こるり
第1話 墓標
何が悲しくて、胸を痛めているのか、もう疾うに忘れてしまった。
けれど、鈍く滞留するほろ苦い何かが、この場所へ来るたびに蘇り、呼吸を不規則にする。
俗にいう、古傷が痛むってやつだろう。
錆びついた記憶も、馬鹿にはできない。
否、故意に忘れようとしてたってだけかもしれないが。
斜めに突き立てられた木製の十字架は、今はもう黒ずみ、せめて故人に報いろうと、焼き印で刻んだ洒落た文句も、見る影もない。
どんより重い空模様は、この場所にお誂え向きの天気で、それがひどく滑稽に思えた。
何も、辛気臭い空気をわざわざ用意することもないだろうに。
あいつはそういう奴だった。
やけに、場の空気を読む、無駄に神経の細かいところのある男だった。
ふいに奴の顔が脳裏に浮かび上がり、俺は短く息を吐いた。
柄にもなく、感傷に浸りそうになってしまった自分がおかしかった。
天を覆う厚ぼったい鉛色の雲から、ぽつ、ぽつと雨が落ちてきた。
口に咥えた煙草を震える指の間に挟んで摘まみ上げ、天に向けて煙を吐く。
「ったく、これ以上、演出不要」
吐き出した声は、笑ってしまうくらい乾いていて、俺は自嘲した。
煙草を落とし、靴底で踏み潰す。
黄土色の剥き出しの地面に、芸術家気取りの雨粒が点々と染みを作っていく。
頭部や肩に当たる粒が、次第に厚かましいくらい大きくなってきた。
一張羅の上着だぞ。
何してくれる。
冷たい水が意地悪く体を冷やしていくのを感じ、惨めたらしい気分にさせられる。
自然と首が垂れ、猫背気味になった。
「濡れ鼠にゃあ、なりたくねぇよ? おい、聞いてんのか。エリック」
この場所に辿り着くまで、どれだけ歩いたと思ってんだ。
雨宿りするところはおろか、木の一本すら見当たらないこの荒れ地だぞ。
勘弁してくれよ、エリック。
俺はお前の気の細かいところを嫌っちゃいなかったが、お前はやりすぎるきらいがある。
物事には限度とか、良い塩梅ってのがあるんだよ。
ひとり毒づく。
虚しいなんて思っちゃいない。
けど、何だろうな。
やっぱり、淋しいんだよな。
あいつの、どっかの聖母みたいに笑う顔を思い出すと。
良い奴は早死にするって言葉、真面目に実行しちゃったあいつの顔、思い出すと。
無性に淋しいんだよな。
「死ぬなら俺の傍に居るときにしろよ」なんて冗談交じりに言ったこともあったな。
あの時、お前は驚いたように眉を上げて、そのあとくしゃっと笑った。
「やめろよ。そんな、長年連れ添った連れ合いに言うような台詞」
正直、むっとしたが、俺も一緒になって笑った。
なあ、エリック。
何で、約束を守らなかった?
俺の言う通り、事務所に留まっていたら。
いつも通り、指示に背かず、待機していたら。
今も、お前は俺の隣で、無駄に空気読んで、気を遣いまくってたんだぜ。
そうしたら、お前は——探していた、お前の片割れに会えてたかもしれない。
仮のつもりで建てた墓。
すぐに手配して、お前の愛した村の、愛した丘の上に、正式なやつを建てるつもりだった。
あそこに、立派な墓石を建てるはずだった。
お前の片割れと並んで、手合わせて。
お前の眠りを安らかなものであるようにと祈るはずだった。
だのに、どうだ? この有様は。
視界がぼやけ、白い幕がかかったようになる。
いつのまにか地面に膝をついていた。
冷たい雨が容赦なく、体に打ち付ける。
目の前に刺さる木製の十字架も、湿ってますます酷い代物になる。
ああ、もっと早く動いていれば良かった。
無意味な感傷に浸って、甘っちょろい自己陶酔に突き動かされて、勝手に作り出した物事の順序を、後生大事に温めてきた。
それが裏目に出たんだ。
順番何てどうだってよかったよな。
墓石作ってから、探せばよかったんだ。
いくらでも時間はあったのに。
時間さえあれば、調べられたんだよ。
情報。
いつもなら、真っ先に調べても良さそうなものだったのに。
何て甘かったんだろうな。
お前の、片割れが——お前とは似ても似つかないなんて誰が思う?
俺は馬鹿だな。
脇腹に走った激痛に、思わず手を当てた。
ぬめっとした生暖かい液体が、べっとり付着したのがわかる。
鉄臭い、嫌なにおいが鼻につく。
耳鳴りがしてきた。
視界がさらに曇る。
どくどくどくと、聞こえるのは何だ?
心臓か? 血の流れ出す音か?
荒く息をつき、俺は片手を地面について、傷口と反対側にごろりと横になった。
衝撃に痛みが走るが、構っていられない。
もう立っている力さえないのだ。
歯を食いしばり、瞼を堅く閉じる。
体をくの字型に曲げて痛みを堪えたいと思うも、少しでも動くと血が溢れ出すのがわかる。
それに、動くたびに鈍い痛みが何重にも広がるのだ。
食いしばった歯の間から、唸り声と息が漏れる。
既に大粒になった雨は、容赦なく体温を奪い、顔に打ち付ける水のせいで、呼吸すら満足にできない。
お前はどうしただろう?
真実を知ったら。
お前の最愛の、命に代えてまで探し求めてきた片割れが——死神だったと知ったら。
冗談かと思うくらい大きな鎌を振り回し、小柄で華奢な愛らしい姿から想像もつかない、まるで可愛さの欠片もない、無慈悲な死神だったと知ったら。
それでも、お前は、その腕に、彼女を、お前の妹を抱き締めただろうか?
……愚問だな。
お前なら、絶対に抱き締めたろう。
命と引き換えにしても。
腕の中の少女が、お前の背中に鎌の先を突き立てたとしても。
お前は、絶対放しはしなかったろう。
ああ、意識が朦朧としてきた。
これが俗にいう、走馬燈か?
今までのなんやかんやが脳裏に流れまくる。
唐突に雨音が止む。
なぜか白い光が見えた。
半ば閉じかけていた瞼を、どうにか開こうと試みる。
「お、お前は……?」
うっすら見えるのは、こちらを見下ろし、覗き込む人影。
ぼんやりとした黄色っぽい頭に、黒い影のような胴体。
「迎えに来た」
ああ、よく見えない。
こいつはどっちだ?
金髪に、黒いロングコートを纏った、気を遣いまくる男か?
それとも、金髪に、黒いドレスを着た、恐怖の死神か?
天国か、地獄か。
意識が遠のく。
次に目を開けたときには、わかるだろうか。
迎えの使者が何者だったのか。
墓標 雨宮こるり @maicodori
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます