第2話 追憶

「今度僕ね、堕天するんだ」

僕は目の前に座る親友に向かって、そう言った。彼は、僕が何を言っているのか分からない、というような表情をしてこちらを見ていた。


ここは天界だ。僕も彼も、ここで生活している“天使”である。

問題を起こしたり、良い仕事ができなかったりする天使は、神様に堕天させられてしまう。今までに堕天した天使など居ない。しかし、それは偽りであると、僕は知っていた。

「どうしてだい?君は優秀な天使じゃあないか。そんな君が堕天する理由なんてないだろうに」

彼はそう言ってくれた。周りからは僕は優秀な天使だと言われ、評価が高い。そのことに、誇りを持っていたのは、紛れもない事実である。あの瞬間までは。

「この間、人間を連れて行くときに少々ヘマをしてしまってね。もう僕に天使は任せられない、と神様がおっしゃられたんだよ」

嘘だった。本当は、すべてを知ってしまったからだった。今までに堕天使になった仲間たちのことも、僕らがどうして天使になったのかも、何もかも。

「何故だ!そんな話は聞いていない!君が何かしてしまったのならどこかでその話を聞く筈だ。誰もそんな話はしていなかった」

目の前に座る彼は、憤慨していた。そして、少しだけ寂しそうであった。ごめんね、全て嘘なんだ、と、心の中で謝罪した。

「そりゃあ、誰にも話していないからね。神様に、誰にも言わないでくれ、とお願いしたんだ。自分の失敗を囁かれるのは気持ちがいいものではないだろう?しかし、君になら、言ってもいいと思ってね」

これだけは本心だった。何も知らない、天使になったばかりの僕に、天使のことを教えてくれたのは彼だったからだ。

「君が堕天してしまうのならば、僕は君のことを忘れてしまうじゃあないか。そんなのは嫌だ、僕はまだ君と一緒に居たい」

彼は苦しそうだった。堕天使になってしまったら、彼も、他の天使たちも、僕のことを忘れてしまう。どの天使も、例外はない。でもいいんだよ、僕のことなんか忘れておくれ。僕は天使になっていいような、綺麗な人間ではなかったのだから。でも、彼に忘れられてしまうのは、少しだけ悲しかった。

「悲しいけれどね。これはもう決定事項なんだよ。変えようがない。神様がそうおっしゃったんだから」

その瞬間、彼は席を立ち、一目散に走り出した。おそらく神様の所へと向かうのだろう。

「待って、そんなことをしても」

そこまで言いかけて、僕は叫ぶのを辞めた。彼にはきっと、もう届かない。

「……もう、時間なんてないんだよ」

ひとり、呟いた。行かなくてはならない。立ち上がって、歩き出した。


歩きながら、記憶を呼び寄せていた。

「僕を堕天させてください」

僕はあの日、神様に願った。すべてを知ってしまったあの日に。

「どうしてだい。お前は何の罪も犯していないだろうに」

「……知ってしまったんです、全て」

そう、全て知ってしまった。僕は元は人間だった。いや、僕達は、の方が正しいのかもしれない。僕ら“天使”は人間だった。それも、寿命を迎える前に、本来は生きる事のできた生命を絶たれてしまった人間たち。こういった人間は、転生するか、天使になるかを選ぶことができ、一部の人間は転生せずに天使となる。理由は様々だろう。そして天使になると、人間だった頃の記憶を全て失う。神様なりの配慮なのだろうか。

しかし、この日僕は穢れた魂を持つ人間を見た。女性だった。その女性には見覚えがあって、何かが引っかかった。そして、女性が声を上げて喚いた瞬間、全て思い出した。思い出してしまったと言った方が良いかもしれない。僕にとっては、思い出したくないひとだったから。

彼女は僕の母親だった。家ではよく怒りの捌け口にされていた。所謂、虐待。それでも学校には行っていたから、周りの幸せそうな人たちを見るのが辛かった。そんな日々に嫌気が差して、僕は自殺した。また人間になんてなりたくなかったから、天使になった。天使になれば救われるとでも、心のどこかで思っていたのかもしれない。全てを思い出したとき、天使であることが自分を縛る鎖のようだった。幸せな人生だった、とは言えなかった僕が、幸せに生きてきた人たちをまた見ることになるなんて、嫌だった。それに、生きられた筈の命を自ら絶ち、全てから逃げた僕に、人を導く資格なんて、ありはしないのに。

「そうか」

とだけ、神様は言った。なぜだか安心した。

「だから僕は、堕天使になることを選んだんだ」

ふと顔を上げると、いつの間にか目的地に到着していた。ここで、僕を堕天使にしてくれる、執行人が待っている。

「覚悟は良いか」

執行人は問う。とても冷ややかな目だった。すべてを飲み込んでしまいそうな、漆黒に見えた。

「……お願いします」

彼に別れを伝えられないことだけが、心残りであった。

「……でも、どうせ」

すぐに忘れられてしまうからな、と諦めた。

「行くぞ」

執行人が小さく呟く。優しい風が吹いた。ああ、この世界ともお別れだ、そう思うと、なぜだか風に吹かれた頬が冷たくなった。雲一つない、快晴だった。彼はいい天使だった。

「ごきげんよう」


一人の天使が、死んだ。

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天使たちの夜想曲 観音堂 紅葉 @cho_no_hane

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