『午前0時のシンデレラ』

高山 志行

第1話「あけみ」

 もちろん、その逆もいるけど…「アゲマン」の女っていうのは、たしかにいる。

 それは、男を「その気にさせる女」という意味だ。


第一話 「あけみ」


 1.かわいいオンナプリティー・ウーマン


 2.香水パヒューム


 3.Knifeナイフ




1.かわいいオンナプリティー・ウーマン


『機能美』という点で言えば、やっぱり「ナイフ」か「銃」が、もっとも美しい。シンプルで、目的以外の余計な装飾がほどこされていない物が…。

 そして、誰かに殺されるなら、とびきりイイ女にナイフで一突き、ニヤッと笑って死にたいものだ。たとえば…

 赤いタイトなドレスをまとい、長いストレートな黒髪が、その思い詰めた表情を半分隠して、後ろ手に刃物を持って近づいて来る。そして彼女は、無言もしくは、「死んで…」と低くささやいて、俺の胸に白刃はくじんを突き立てる。


『誰かに殺されるなら、そんな死に方がしたいものだ』


 俺は真っ昼間から、座イスに浅く身をあずけ、コタツ布団のかかっていないコタツに、ふんぞり返るように両足を突っ込んでは、再放送の安っぽいサスペンス・ドラマを観ながら、そんな事を考えていたのだが…


「ね〜今度、温泉行こうよ。オフロに入って、おいしい物食べて…ディズニー・ランドか上野動物園でもいいな!」


 俺のそんなカッコイイ夢を打ち砕くかのように、俺の彼女「あけみ」は、俺の頭の真上から、無邪気にそう言って、同意を求めてくる。


「ディズニー・ランドなら、あそこのホテル。上野動物園なら、品川か赤坂のホテル。ねえ、どう?」


 ゆるいウェーブのパーマがかかった髪は、寝グセまじりでボサボサだ。


「なに言ってんだよ。新婚旅行じゃあるまいし…。だいたい俺たちが、そんなところに泊まるってがらかよ」


 個性的な目鼻立ち…クリッとした眼に、口角の上がった大きめの口に、取って付けたような鼻。けっして「美人」とは言えなかったけど、俺は個性を尊重する。それは、たとえば芸能界を見たってわかるだろう。ありきたりな「美型」より、何か特徴のある造形の方が、かえって印象が強いものだし、人気が出るものだ。それにだいたい俺は、いわゆる「メン食い」じゃなかった。


「あら、ちゃんとお金払えばいいんでしょ」


 オマケに少し、世間知らずな「不思議ちゃん」が入ってる。まあ、どこか憎めないところが取り柄だったけど…


『だからコイツは困るんだよ』


 俺は思った。『一流ホテルに泊まれる最低条件は、ボーイやポーターに、さりげなくチップを渡せることだ』と、俺は思っている。いくら金があっても、そういった最低限のマナーや知識の無い成金趣味の人間には、資格が無いのだ。

 だいたい今どきのニッポン。値段の付いている物なら、ちょっと我慢すれば、実現可能な事はいくらでもある。

 俺の知り合いで、何の知識も下調べも無く、高級レストランに一人で、フル・コースの料理を食べに行った奴がいる。そいつは、『料理が全部出揃うまで…』と、最初に出てきたスープにまったく手をつけずに、待ち続けたそうだ。たぶん裏で、ウエイター連中のあざけりを受けながら…。

 俺は、そんなのはゴメンだった。

 だいたい、勘違いしている奴らが多すぎる。「お客様は神様です」なんて、馬鹿なことを言う奴がいたからだ。「貧乏神」ないし「疫病神」のクセして、『金さえ払えば、なんでもオッケー』だと思い込んでる「成金趣味」な連中ばっかりで、いい迷惑だ。

『悪趣味な冗談…ソイツを口にした奴は、前言を撤回して、世の中にたいして、きっちり謝罪してほしい』

 俺は常々、そう思っていた。


「また今度な」

「今度って、いつよ?」

「そのうちさ」

「そのうちって?」

「そのうちだよ」

「う〜ん、ケチ!」

「そろそろ、仕事行く時間だろ」


 俺は、参考書やテキストなんかが入ったバッグに目をやる。けっきょく今日は、中身を出しもしなかった。


「公共の電波を使ってるんだから、もっといいオトコ出せばいいのに」


 あけみは、俺が観ていたサスペンスの主人公にそうケチをつけると、立ち上がって着替えを始めた。最近の俺は、昼間、ここ…彼女の部屋に、入りびたっていることが多かった。


「あしたはどうすんの?」


 あけみはアパートの玄関でヒールを履きながら、そう叫ぶ。


「わかんね〜よ。電話するよ」

「わかった。じゃね」


 彼女はそう言って、鍵もかけずにおもてに出て行く。


『カギくらいかけろよな。なにかの勧誘や集金が来たら、どうすんだよ』


 俺は仕方なく立ち上がり、ドアをロックする。この部屋は、フローリングの四畳半と六畳の二部屋と、台所、それにトイレのついたユニット・バスのあるアパートの一室だった。駅のすぐ近くでこれだけの部屋となると、家賃も結構いい値段だろう。

 俺は彼女の職業を、正確には知らなかった。水商売であることは否定しなかったが、「料金がか?」「品格がか?」わからなかったが、とにかく「あなたの来るようなトコじゃないわ」と言って、正確な所在地や店名など、いつもはぐらかされていた。

 でも毎回、アパートを出る時は、大した格好をしていなかった。


「お店には制服があるし、パーマ屋さんでセットしてから出勤するから」


 彼女はいつも俺の質問をかわしていたし、俺もそれほど深く追求する気にはならなかった。


『言いたくなけりゃ、それでもイイじゃん』


 俺は他人の立場や考えを、すぐに認める人間だ。


「さてと」


 玄関まで歩いて行った俺は、ついでに冷蔵庫から「ドクター・ペッパー」を取り出した。「クスリ臭くていやだ」と言う人間も多いが、俺はそんなところが大好きだった。真夏と、真冬の乾燥した時期、暖かい室内にいると、炭酸系が欲しくなる。そんな時は決まって…手元にあればの話だが…コイツをることにしていた。


『俳優になるんだったら「変身ヒーローもの」でデビューして、「刑事ドラマ」の若手刑事デカ役で人気を出して、最後は「時代劇」の花形スターで名を博すってのがイイよな』


 俺はドクター・ペッパーとタバコを交互に口に運びながら、そんな事を考え、クライマックスを迎えつつある、先ほどのテレビ・ドラマを見続けていた。


『才能だけでできることや、好きで好きでしょうがないってことなら、苦労も苦労とは感じないんだろうな。俺にも何か、そんなものがないかな』


 俺は何のアテも無いまま、漠然とそんな事を考えていた。


『これが終わったら、帰るとすっか』


 俺は彼女がここに戻って来る時間には、家にいなくてはならない立場だった。


 俺は浪人中だったけど、すっかり目標を見失っていた。


(もっともはじめから、そんなものは微塵みじんも持っていなかったけど)。


 高校受験の時も、そうだった。俺は決して成績が悪いわけではなかったが、皆が真剣に受験勉強を始める頃になると、ナゼかシラケてしまう。中学三年の時は、「これから最後の追い込み」という夏休み明けの二学期から、俺の試験結果の順位は逆走を始めた。

 ちょっとばかり高校受験のための勉強を始めたのは、年も改まって、正月気分が抜けた頃だった。それで、そこそこの高校しか受験させてもらえなかったわけだ。


(実際、終わってみれば、学区一の公立校だって、余裕で合格できる点数だった)。


 親や教師は嘆いた。

「頭は良いのだから」とか、「やれば出来るんだから」など。

 でも、俺にはそんなこと、関係なかった。

「行きたくても、行けない人もいるんだぞ」

 それこそ、俺には無関係だ。だいたい、頭が悪いんじゃ仕方ないけど…でも、はっきり言って、三流私立にも入れない奴なんて、普通の人間にはいないはずだ。それに今どきのニッポン、貧しくて進学できない人間など、いるはずがない。


 そんなこんなで入った公立高校は、俺にとっては「楽勝」レベルの学校だった。高三の夏前までは、廊下に貼りだされる成績上位者の中に、俺の名前が無かったことはなかったが…それ以降は、また同じことの繰り返しだった。俺は普通科に通っていたので、進学希望者は大勢いた。でも、周りが真剣になればなるほど、俺はシラケていった。


『バカじゃね〜の』

 俺はそう思って何もしなかったが、とりあえず、親や教師に薦められるまま入学試験だけは受けた。でももちろん、『三流大学に行くくらいなら、働いたほうがマシ』と思って受けたそこそこレベルの学校では、どこにもカスリもしなかった。

 だいたい、「学歴社会」なんて言われてるけど…俺はだまされない。

 あたかも進学する学校によって、まるで将来が決まったかのように語る大人も多いけど…本当に出世する人間にとって、「高学歴」なんて単なる通過点。

 ましてや、この世に「せい」を受けて、たかだか二十年くらいの時点で、「行く末」まで決めつけないで欲しいものだ。


「ふあ〜…」

 俺は、腰掛けていた座イスの上で、伸びを一発。重い腰を上げて、あけみの部屋を出た。

 そんな俺たちのそもそもの出会いは、深夜のカラオケ屋…梅雨入り前の、カラッと暑い晩だった。


「友だちんトコ泊まって、勉強してくるからさ」

 俺はそう言って、問題集を片手に家を出た。

 同じセリフを吐いて、「徹マン」してる奴らもいたが…もちろん本来の意味は「徹夜マージャン」だったが、「夜通しヤリまくる」という意味も持っている。麻雀には興味が無かった俺は、後者の相手を探しに、仲間二人と夜の街をホッツキ歩いていた。


「今夜は収穫なしか」

 午前〇時を回った頃だった。でも三人とも、同じ口実を使って家を出ていたのだから、今さら帰ることなどできなかった。

 それで、明け方まで営業しているカラオケ屋に入ったのだが…初夏の週末ということもあって、順番待ちをしなくてはならないほどに混んでいた。


「この前さ、ソープに行ったんだよ。そしたらさ、出てきたのが中学ん時の同級生でさ」


 俺と同じ予備校に通う高瀬が、そう言って話しはじめる。コイツとは、予備校で知り合った。


「顔はけっこうカワイイ子だったんだけど、高校中退してからヤバイ道、歩いたみたいでさ。ヤクザのヒモがついてるとか言って、身の上話が始まったら泣き出しちまってさ。高い金払って、人生相談で終わっちまったよ。相手がカタギなら、外で会ってもいいけどさ。ヤーさんじゃな」


 細い銀ぶちフレームが、少し神経質そうに見せているが、度はそれほど強くない。デブというほどではないが、ちょっと小太り。見かけによらず(案外、見かけ通り?)、けっこう偏差値の高い大学を、マジで狙っていた男だ。


(今では「狙っていた」と、過去形になりつつある。それもこれも、続いて登場する悪い人間と出会ったからだ)。


「俺は中学ん時の先輩の同級ってのが、エロ本やAVに出演してるっていうんだよ。探してるんだけど、なかなか見つからなくてよ」


 自宅浪人中の土井は、そう語る。

 細身でラフな格好。色白で華奢きゃしゃな印象を与えるが、案外こういった奴がキレると、一番ヤバそうだ。たとえて言うなら、「カミソリ」といったところか。どちらかと言えば、過保護すぎてイカレちまった高瀬の正反対。放任過ぎて放蕩ほうとうしているタイプだが、親分肌で仕切り屋の面も持っている。


(今どき、高校の卒業記念に、母親が灰皿をプレゼントしてくれるような家庭なんだそうだが…「隠れタバコ」で火事なんか出すより、そっちの方が、よっぽどマシかもしれない。もっとも、『受動喫煙』なんて単語が登場し、『嫌煙権』なんて言葉に発展する以前は、日本は言うに及ばず欧米先進国だって、「喫煙」は成人男子の、ごくありふれたたしなみだったが…それ以上に驚くのは、ずっと後年になってからの事だが、『世界保健機構WHO』が「受動喫煙の弊害は実証されていない」との発表を、日本の国営放送NHKが流した時だ。『そんな事実を公表するなんて、どちらも度胸がある』と、内心、称賛したものだが…まだスマホなんてなく、インターネットも、今ほど普及していなかった頃。二日も経てば、まったく話題にものぼらない。まるで「夢・幻でも見たかのよう」に、掻き消されていた。「喫煙」なんて習慣が時代に逆行するのはわかるが、『怖い』と感じたのは、「全世界的に『情報統制』が施かれている?」という事実だ)。


 なんでも、ある調査によると、過度の保護や放任の末に問題児になる場合、出発点が違うだけで、けっきょく同じような結果をもたらす…という統計があるそうだ。最終的に行き着く先は、内にこもるか、外に向かって吐き出すか。つまり、「ひきこもりニート」か、「家庭内暴力DV」だそうだ。


 まあ俺たち三人は、そこまではひどくなかった(と思う)が…。

『ところで俺は、人の目にはどんなふうに映っているのだろう?』

 俺は、そこそこ内面うちヅラが良かった。と言うより、自分の子供にたいする「根拠の無い自信」なのか? 両親にとやかく言われずに育った「無責任野郎」。そういう自覚だけはあった。


「都会に出て、バレないだろうって思ったんだろうけど…もう地元コッチじゃ大騒ぎさ。マトモにゃ帰って来られないな」

 そう語る土井と俺は、同じ高校出身だった。コイツはそっちな方面にかけては、なかなかの「強者つわもの」だった。

 高校の頃、仲間数人で裏ビデオを見ていた時のことだ。

『コイツ出しやがったよ!』

 皆のかたわらで自慰オナニーを始めた土井は、皆の眼の前で、きっちり最後までイケル奴だった。

 また、聞くところによると、友達と二人でナンパして、二人ともカップルが出来上がり、二組でとある所にしけこんで、友人ペアーが見ている前で、事を始めたというのだ。


(これも聞いた話だが、仲間大勢で河原でバーベキュー。姿が見えないと思ったら、駐車中の真っ昼間のクルマの中で、連れの女とはげんでいたそうだ)。


 俺にはちょっと、マネのできないことだった。


(でも、「類は友を呼ぶ」と言う。俺たちはまさに、そんな仲だった)。


 俺たち三人は、そんな話をしながら、長イスのベンチに並んで腰かけ、順番待ちをしていたのだが…。


「見てみろよ」

 右奥にいた土井が、左手の入口の方を見ながら振ってくる。

「イイ女がいるぜ。人数もピッタリだ」

 俺と高瀬は、土井のその言葉にうながされなくても、ちゃんと気づいていた。

「金と美女ってのは、ある所にはある・いる所にはいるんだよ」

 まん中に座っていた高瀬が、視線をはずさずに、そう言って返す。

「あと、暴走族だろ。『普段はどこに隠れてるんだろ』って思うようなクルマやバイクが、集まってくるもんな」

『こいつら二人よりは、いくらかマシだ』と思っていた俺は、そんな場違いな話題を持ち出すが…

「ああ…」

 土井は、いちおう返答してくるが、あっちを凝視したまま「うわの空」だ。

「あの『竹槍たけやり』とかってのは、取り外せんのかな?」

 俺は、どちらに問いかけるというわけでもなく、真顔でつぶやく。


(「竹槍」とは…「東海地方」あたりの、そちらスジの人たちの間で流行はやっているという…先端を竹槍のように斜めにカットした、天をあおぐほどの高さと長さの直管ちょっかん排気管エキゾースト・パイプのことだ。なんでも、長ければ長いほど・高ければ高いほど、「偉い」んだそうだ。アホクサ〜)。


「ボディー直付じかづけじゃねーの。なんたって、スプレーでカラーリングするのに、タイヤまでいっしょに塗っちゃうくらいだからな。奴らの美意識・美的感覚は…」


 土井は、「そんなこと、どうでもいい」といった感じで答えるが…このシチュエーションなら、まあ当然だ。


(もっとも最近では、「旧車会」なんて表現を使い、何十年も前の「族車」が、何十万なんて値段で取り引きされているようだ。でも…ちゃんと金を払うことに異論はないが…小奇麗になった「族」なんて、もう「暴走族」でもなんでもない。おまけに、乗っているのは、バイクと同じだけ歳を重ねたオッサンだったり。土井が言ったように、価値観の違いなんだろうけど…『もうやめてくれ!』って思うのは、俺だけだろうか?)。


「でも、あのケバさは水商売の女だよな」

 高瀬は、俺たちを見回しながら言う。

「そんなに厚化粧じゃないぜ」

 俺は反論する。

「雰囲気だよ雰囲気。そんな空気が漂ってるだろ。仕事が終わってから、ここに来たんだよ、きっと」

 高瀬は、そう推理するが…

「閉店には、早すぎるぜ」

 俺が理にかなった反対意見を続けると…

「じゃ、風俗のオネーサンかな?」


(80年代なかば。未解決のままの未成年少女の惨殺事件を契機に、『風俗営業法』略して「風営法」の大改正が行われ…ディスコや風俗店の営業が、深夜0時までになった。そして本来、広義には「人の暮らしぶり」という意味の『風俗』なる単語が、広く世間に知れ渡り、この時を境に、「フーゾク=エッチな商売」といった使われ方が定着することになった)。


 そこに、土井のひと言。

「どれにする?」

 俺たちは、勝手に品定めを始めていた。でも、いざナンパするとなったら、最初にある程度、話をつけておいた方が、後でモメなくてよい。


「あの女、ちょっとコッタンね〜感じで、ヤッててもあんな顔してそうだな」

 高瀬は、向かいの白いソファーの一番左側に座り、首を右にひねって、退屈そうに出入り口の外を眺めている、ショート・カットの女を、そう批評する。

「バーカ。ああいう女のほうが、ベッドの上じゃもだえ狂うんだよ」

 土井は、イヤらしな笑みを浮かべる。

「そんなことね〜よ。あの手の女はけっこう淡白で、抱かれていても、なに考えてんのかわかんね〜よ〜な、ボーッとした顔して突かれてるんだぜ」

 高瀬は、そう言い返すが…でも俺は、そのに「ピーン」と来るものがあった。


(肌が白くてポッチャリ顔。でも見かけと違い、出るトコは出てるが、案外ヤセていることを、俺は見逃さなかった。それに俺は…先にも言ったが…いわゆる「面食い」ではなかった)。


「それは、オマエがヘタだからだろ?」

「悪かったよ、下手クソで!」

 男二人は、そんな感じで言いあっているが、「他の二人はどうだった?」って。悪いが、はっきり言ってよく憶えていない。同年代だろうが、少し年上? 水商売かどうかははっきりしないが、学生とかではなさそうだ。とにかく二人とも…俺にとっては…印象が薄く、記憶に残っていない。


「俺は、あの女でいいよ」

 そこで俺は、まっさきに狼煙ノロシを上げる。

「ヘッ?」

「エッ?」

 土井と高瀬は、『意表を突かれた』みたいな表情を見せて、会話を打ち切る。

「それじゃ、さっそく…」

 どちらにしろ、「好み」はダブッていなかったので…こういう事に関しては、積極的で手慣れている土井が、ハナシをつけに行く。


(なんでも「先輩に鍛えられたおかげ」なんだそうだ。とりあえず、ナンパの極意は「手当たり次第に声をかける」ことだという。きっと奴は、いずれ営業やセールスの世界で成功することだろう)。


「俺たちと合流すれば、順番待ちも早くなるよ」

 順番はこっちの方が早かったので、良い手だ。

「俺たち、男ばっかだろ。君たちだって、大勢のほうが盛り上がると思わない?」

 話はアッサリついた。そして部屋に入ると、サッサと怪しい雰囲気となった。


 右側のソファーに座る高瀬は…左側からお目当てのの肩に腕を回し、冗談を言いあっては大声で笑って、顔が触れ合わんばかりにくっついている。

 左側の土井の方はと言うと…ピンク色のソファーを背もたれ代わりに、赤い絨毯の上に腰を降ろし、女のを後ろから抱きかかえるように自分の前に座らせて、ベタベタしていた。胸に回した左手は、右の乳房を押さえ、右手はよく見ると…そのは両膝を立てて座っていたので、よく見えなかったが…股関にのびて、ユックリとまさぐっているのがわかった。そして時どき耳元で、小声で何かささやいている。

 一方の俺はと言うと…例の「ちょっとコッタンネ〜感じ」のと、部屋の奥の、一段高くなったステージっぽい台の上で、歌いまくっていた。

『歌うっきゃね〜』といった雰囲気だったし…それでなくとも彼女は、とてもノリが良かった。俺はポップでロックな曲が好きだったが…彼女の選曲は、「俺の好みにドンピシャリ!」な楽曲が多かった。


「♪〜♪!!!」

 最初は交互に歌っていたのだが、お互い知っているような曲ばかりだったので、途中からはデュエットで…と言うより、ツイン・ボーカルで…次々と歌いまくっていた。

『ボーカルは女にかぎる』

 常づね俺は、そう思っていた。

 突き抜けて行くような女性の高音。マイクを通してでも伝わって来る、ちょっと甘ったるいような息遣い。俺はそういったものに、エクスタシーにも似た興奮を覚えるのだ。


(洋楽モノは、多少男性ボーカルも聴いたが…邦楽に関しては、そのほとんどが女性ボーカルのもので、男の曲はカラオケ用に、自分のキーで歌えるものだけしか聴かなかった。それに女の曲は、何オクターブか下で、ちょうど俺の音程に合っていることが多い)。


 しばらくすると、高瀬の相手のが「ちょっとトイレに」と言って、部屋を出て行く。「俺も」と言って、高瀬も彼女の後を追うように出て行く。そして二人は、それっきり戻って来なかった。

 でも、まったく気にもとめないで、俺たちは歌い続けた。俺たち二人は、ノリノリだった。キュートな歌声。彼女には、案外「小悪魔的コケティッシュな魅力」があった。

「ふう〜!」

 いいかげん歌い疲れた頃、荒い息をしながら俺たちは、フト思い出すように土井たちの方を見ると…

「?」

 女のは長い髪で顔を隠すように、うつむき加減で目を閉じていた。土井の奴は、口を半開きにして、焦点の定まらない目をし…早い話が「恍惚の表情」を見せて…一心不乱に、小刻みに両手を動かしている。今にも、事をし始めそうな勢いだ。

 視線を戻した俺は、共演(競演?)者と目が合う。彼女は「見てられない」と言わんばかりの、ちょっとテレ臭そうな顔をした。

「ヤベー雰囲気! 出ようか?」

 俺がそう言うと、彼女はコクンとうなずいてマイクを置く。

「先に帰るよ」

 俺は土井たちの前を通過しながら、そう声をかける。

「ああ…」

 ボーッとした顔のまま、奴はそう返事をする。


 カラオケ・ハウスを出た所で振り返った俺は、彼女に向かって…

「どっかで休もうか?」

 そう言ったのだが、彼女は…

「あたし、まにあってます!」

 キッパリそう言われてしまった。


(一番アタマに来るのは「自意識過剰な醜女ブス」だが…「不細工ブサイク」と言うほどじゃないし、むしろ「個性」と言うか「特徴」とでも言うか、何か「印象に残る」ものがある)。


「そういう意味じゃねーよ」

 俺はそう切り返したが、当然「そういう意味」もあった。

「深夜営業のファミレスとか、あるだろ」

 もちろん、このままバックレても構わなかった。まあ美形とは言わないが、嫌いなタイプじゃないし…それ以上に、「なんだかほっとけない」雰囲気がある女だった。


「普段は何して遊んでるんだい?」

 俺は、ラーメン・セットのラーメンをすすりながら、そう尋ねる。

 というわけで俺たちは、深夜営業の「チョットはマシ」な店で、夜食を食べていた。


(夕方から早朝にかけて営業しているこの店は、出勤前や仕事帰りであろう「お水」風のオネーチャンたちや、マトモな仕事はしてないが「ヤクザ」とも違うようなオニーチャンたちが、よくメシを食っている所だ)。


「えー、べつに。ひとりで街をブラブラしてたり…」

「ショッピングか?」

 レンゲでスープをすくいながら彼女は…

「うーん。あたしダメなのよね、貧乏性で。欲しい物があっても買えなくって…」

 そう言って、スープをすする。

「それで、黙って持ってきちゃうんだろ?」

 そんな俺のツッコミに…

「そうそう」

 悪びれずに返してくる。

「ホントかよ?」

「半分ね」

 彼女は、そう言ってニヤッとする。まんざらウソでもなさそうだが、そんな事はどうでもいい事だ。

「よく行く所は?」

「あたし、友達あんまりいないから、いつも独りでプラプラしてるわ。CDやDVD借りてきて、ひとりで見てることが多いな」

「さっきの子たちは、友達じゃないのかよ?」

「前に働いてたトコの仕事仲間。ブティックでマネキンやってたの」

「ブティック? そんなトコで働いてたんだ」

「へへ。ブティックって言うほどでもなかったけど…でも何だか合わなくてさ」

「どおりで一人だけ、浮いてると思ったぜ」

「どういう意味よ?」

「君が一番カワイかったってことさ」

「バーカ!」


 俺はその後、何気なくそのレンタル屋の所在を聞き出す。俺はそこに行ったことはなかったが、『たぶん、あそこだ』くらいの見当はついた。

『通勤や通学の経路の途中でもない限り、もっとも料金や品揃えの良し悪しもあるだろうが…わざわざ遠くの店まで、足を運ぶことはないはずだ』

 俺は、そんな予測を立てた。きっとこのは、その近くに住んでいるのだろうが…

『なんで、こうなるんだよ!』

 アテがはずれた俺は、心の中で嘆く。

『チェッ!』

 その店を出る頃には、もう明るくなり始めていた。もうすぐ、一年で一番陽の長い日がやって来るのだから仕方ない。俺はその事を、すっかり忘れていたわけだ。

『こんなんじゃ、ムードもヘチマもねーよな』

 俺たちは、近くの、かなり広い面積を持つ公園で、二つ並んだベンチを見つけた。

「フイ〜ッ!」

 急速に明りが差し出したこの頃には、もうすっかり夜も明けていた。この季節・この時間の公園は、かなりの人出だ。散歩をするジイサン・バアサン。ジョギングをするオッサン・オバサン。なかには「太極拳」みたいなものを始めるグループもあったが…

「ラジオ体操じゃなくて、よかったよ」

 俺は小声でそううなって、左側の木製ベンチに、頭を右にして横になった。


(つまり、朝から…「朝だからこそ」なのだが…あの聞きなれた曲を聞かなくて、ホッとしたという意味だ)。


 さえずり回る小鳥たち。こんな早朝から、朝日を受けて銀色に輝くジェット機が見えた。音も無く、遠くの空をフーッと移動して行く。

「飛行機が、あんな鉄のカタマリが空を飛ぶなんて信じられない、なんてバカげたことを言う奴っているじゃない」

「だって実際、飛んでるじゃない」

 頭上側になる隣りのベンチから、そう返ってくる。

「そうだよな! そうだろ。事実を素直に認めないなんて、どっかおかしいよな。そういう考え方って、なんかヘンだよ。そういう奴らのほうが、よっぽど信じられないよな」

 俺たちは頭上をあおいで、目でそのジェット機を追う。

「空を飛んでみたいな。気持ちイイだろーな。もー死んでもいいってくらい。でも、そういう願望持ってる人間って多いじゃない。どうしてなんだろうな? よく考えるんだけど、わからないんだよ。人類って、鳥から進化したわけじゃないのにさ」

「わかんなーい。そんなに深く考えたことないもん」

 彼女は、さすがに疲れている風だった。軽くアクビをしながら両手足を伸ばし、面倒臭そうに、そう答える。

「俺は空を飛ぶ夢を見た時は、目覚めがいいんだ。女が空を飛ぶ夢を見る時は、性的欲求がある時なんだってな。映画の題名にもあったろ」

「知らなーい。それに最近、夢なんて見ないもん」

「それは、老化が始まってるってことだぜ。夢っていうのは、かならず見てるんだってさ。ただ、それを憶えていられなくなるんだってさ、老化が始まると」

「あたしバカだから、何も考えてないからじゃない」

 俺は半身を起こしながら…

「あー、そうかもしんない」

 首を右にひねって、彼女の顔を見ながら言う。

「ひっどーい。はっきり言うわね」

 でも、本気で怒っているわけではなかった。

「人間が、なんで老化するか、知ってるかい?」

「知らないわよ。だから言ったでしょ、あたしバカだって」

 そこで俺は…

「進化のために必要だからって言うんだ」

 まず答えを述べてから、続ける。

「アメーバみたいな単細胞生物は、細胞分裂くり返して、どんどん新しいカラダになっていくけど、新しくなるってことは『もと木阿弥もくあみ』。つまり、イチからやり直さなくちゃならないってことなんだ。人間の場合は…ってか、動物全部なんだろうけど、それまでの経験を遺伝子に記憶させて、子孫に受け継がせるために老化するんだってさ」

「ふ〜ん。じゃ、あたしみたいに何も考えてないバカは、年を取らないのね」

「キャハハ! わかってるじゃん。でも、それがわかるってことは、まんざらバカでもないんじゃないの」

「失礼ね。フン!」

 彼女はそう言って、フクレッツラを見せる。

「でもさ、どうせなら、もっと効率良く遺伝させて欲しいよな。たとえばさ、このさき自分の子供ができたとして、学校行ったり試験受けたり…今まで自分がしてきたのと、同じようなことをやっていかなくちゃならないと思うと、かわいそうだよな。どうしてディスクをコピーするように、簡単にいかないのかな。人間なんて生き物、非合理的・非効率的だよな」

「そうよね、かわいそうよね…」

 彼女は何かを思い出すようにして、ポツリとそう言った。

「いいの。あたし、子ども産まないから。あたし、子ども嫌いなんだ」

「自分が子供だからだろう?」

「うるさいわねー」

「でも、子孫保存の本能には逆らえないだろ? どうしてアレが気持ちイイか、知ってるかい?」

「あなたって、見かけによらず、理屈っぽいわね」


『人生とは何ぞや?』

 だいたい俺は、徹夜明けなんかで意識が朦朧もうろうとしているくらいの時のほうが、そういった「こ難しい考え」が頭に浮かぶ人間だった。


「気持ち良くなきゃ、わざわざそんな事をしてまで子供作ったりしないから、神様が気持ち良くしてくれたんだってさ。そう考えると、神様もまんざら悪い奴じゃないよな」

「ヘンなのー」


 あたりが、車の騒音などで騒がしくなってきた。そろそろ朝の通勤時間だ。

「それじゃ、またね」

 彼女は、そう言って立ち上がる。

「ちょっと待てよ。連絡先教えろよ」

 俺はベンチから起き上がりながら、そう言ったが…

「あたし、電話持ってないの」

 彼女は振り向きもせず、そう返してきた。

『まっ、いいか』

 俺はそう思って、彼女の後ろ姿を見送った。

『しまった! 名前も聞いてなかったよ』

 俺はまだその時、彼女にたいして、さほど興味を持っていなかった。



       ※       ※       



「お前の場合、いつも最後のツメが甘いんだよ」

 土井は、そう解説を始める。

 俺たち三人は、タバコが吸いたかったので、予備校からチョットはなれた自販機の前でタムロし、前回の戦果について報告しあっていた。


(「宅浪たくろう」の土井の奴は、ここの予備校生でもないくせに、目の前のパチンコ屋に入りびたっては、ちょくちょくここに顔を出す)。


「たとえばさ、ワンピースのボタンをひとつずつ、下からはずしていくだろ。でも、一番上のボタンをはずさなきゃ、脱がせられないわけだ」

 俺は、あのと別れた後、適当に時間をつぶして、日曜だったきのうは、一日家でゴロゴロして過ごした。

「つまりお前の場合、攻める方向が違うんだよな。一番上からはずしてきゃ、最後の一個くらい残っていても、服を脱がせられるだろ。やるときゃ、最初っからそのつもりで行かなくちゃ。『お友達から』なんて、まどろっこしいマネしないでさ」

 奴は独自の理論を展開するが、どっちにしろ俺は、関係を持った女のことについて…自分の事だけならともかく、相手がいなくちゃできない事だ…ベラベラと口外するような人間ではなかった。

『真実は黙して語らず』

 たとえ周りの人間も公認の仲だとしても、それが俺のやり方だ。中には、自分の付き合っている女の「ベッドでの行状」を、得意気にしゃべる奴もいるけど…

『周りの連中が、どういった目で自分の女のことを見てるか、気にならないんだろうか?』

 俺には、そんな奴の気が知れなかった。俺は、そのお相手の秘話をバラしまくるなんて、相手に対して失礼だと思っていたし、『この女が例の…』なんて顔して皆に眺め回されるのも嫌だから、せいぜい「ヤレたかヤレなかったか」くらいしか話さないことにしていた。「ヤレたかヤレなかったか」を明らかにするというのは、「所有権」や「優先権」を主張するために必要なことだからだ。


「はあ〜! でもヤッちまったらヤッちまったで、なんかムナしいよな」

 高瀬は、缶コーヒーを飲み干しながら、そうこぼす。たしかにそうだ。

『なんで、こんなコトやっちまったんだろ』

 俺はコトが終わった後の、そんな「空しさ」「虚脱感」がイヤだった。

「男なんて終わっちゃえばシラケちゃうけど、それでもまだ愛しいなら、本当に愛してるんだろうな。いつまで続くのかわかんないけど、そんな女に出会えたら、その時は結婚してもいいよ」

 今度は、そう言ってボヤく。

「なに寝ぼけた事ぬかしてんだよ。お前ら、まだまだ甘いよ。じゃ、『究極の選択』だ。超ブスと、最高に気持ちいいオナニーをする方法があったとする。たとえば、この世にその超ブスと二人っきりになったとして、どっちかを選ばなくちゃならない。お前らなら、どっちを取る?」

「最高に気持ちいいオナニー!」

 俺と高瀬は、口を揃えてそう答えた。

「はーっ! だろうな、お前たちなら。俺はどんなにブスでも、実際にヤルほうがいいもんな」

 コイツなら、きっとそちらを選ぶだろうと思っていたが…

「でもさ、同じ意見は持てても、まったく同じものを見てるか・見えているかは、チョット疑問だよな」

 俺はタバコをフカしながら、そう語り始める。

「たとえば、みんなが『赤』というものだって、本当におんなじ『赤』が見えてるとは限らないだろ。目の悪い奴ならボヤッとした『赤』だろうし…もしかしたら、生まれた時から『赤』って教え込まれたから、それが『赤』だと思ってるだけで、ほかの人間にしたら、俺の言うところの『黒』かもしれないし…」

「なにワケのわかんねーこと、言ってんだよ」

 土井は空缶を捨てながら、そう言って俺の言葉をさえぎった。コイツにとっては、そんな細かい事は、どうでもよい事だったが…

「ボケた人間に何が見えてるのか、見てみたいよ」

 俺の話を受けて高瀬が、空缶にタバコの灰を落としながら、ポツリとつぶやく。


(彼からは度々たびたび、同居していた「死んだおばあちゃん」の、ボケている時の言動を聞かされていたが…話の端々はしばしに「おばあちゃん子」だった事をうかがわせ、案外コイツは「優しいヤツ」だという事が推察できた。もっとも、じゃなけりゃハナから『ツキアイを持とう』なんて、思わせないだろう。そういう意味じゃ「土井」だって、実のところ…女にだけはダラシが無いが…「熱い正義漢」な面もある。たとえば、こんな事があった。混雑しているコンビニのレジで、「お客様は神様だろ!」と店員にからんでいる、タチの悪い客がいた時の事だ。「おい貧乏神! いんや、疫病神かな? 後ろにもたくさん、他の神様たちが並んでんだよ。いつまでもクダ巻いてんじゃねーぞ」。そうスゴんで、その場に居合わせた『八百万やおよろずの神々』の「満場の拍手の喝采」を浴びたことがあった)。


「そうそうそれと、女の快感っての、いっぺん味わってみたいよな。男が体験したら、死んじまうほど気持ちイイって話だぜ」

 高瀬の振ったそんな話題に…

「あと、お産の痛みだろ。男が経験すると、死んじまうくらい痛いっての」

 土井も、そういう話ならノッてくる。

「けっきょく、究極はいっしょなのさ」

 俺が後を受ける。

「熱すぎるものと、冷たすぎるものを触った時、一瞬それが熱いのか冷たいのか、わかんないだろ」

 土井は「はあ?」といった顔をするが、かまわず続ける。

「快感と痛みの感覚も、それと同じさ。究極まで行くと、区別がつかなくなるんだよ、きっと」

 高瀬は、少しはマジメに俺の話を聞いているようだ。

「つまり、死んじまうほど気持ちイイ女の快感を味わったことのない女が、死んじまうほど痛いお産をすると、ほんとに死んじまうことがあるってことだ」

 俺は、前々から持っていた持論を述べる。

「だから女は、男みたいに最初っから快感を味わえないのさ、死なないようにさ」

 俺がそこまで言うと…

「な〜るほど!」

 土井と高瀬はハモる。どうやら、納得してくれたようだ。


「気持ち良くなきゃ、わざわざそんな事をしてまで子供作ったりしないから、神様が気持ち良くしてくれたんだってさ」


 俺は、あの晩…と言うか、あの早朝、あのに話したセリフを思い出していた。

「女は、死ぬほど痛いお産をしなきゃならないかわりに、死ぬほど気持ちイイ快感を与えてもらったってわけさ」

 俺は結論めいた言葉を吐いて…

「そう考えると、神様もまんざら悪い奴じゃないよな」

 彼女に言ったのと同じ文句で、最後をしめる。


「でも女には、男の気持ちなんてわかんねーんだろうな。終わった後の、あのどうしようもない虚脱感。お互い、絶対にわかりあえないんだろうな。同じ人間なのに、どうしてこうも違うんだろ。同じ快感・同じ気持ちを共有できれば、少しは離婚や失恋も減るんだろうな」

 高瀬はそうボヤきながら、道ばたにタバコを投げ捨て立ち上がる。俺たち二人は土井を残し、予備校の方を目指して、ダラダラと歩き始めるが…

『こいつら、まったく無責任だよな』

 俺は自分のことを棚に上げて、そう思った。

 俺はコイツらが相手にした「あのの友達」から、彼女についての情報を得ようとしたのだが…しかし二人とも、ヤル事だけヤッときながら、電話番号はおろか、フル・ネームすら聞いていないのだった。でも「一夜かぎりの恋」なら、お互いそれも仕方ないことだ。


(もっとも、いったん事を起こしてしまったら、それ以前まで時間を巻き戻しでもしない限り、完全に責任を取ることなど不可能だ。だから俺は、やたらと「責任が」「責任が」と語る奴が大嫌いだった。そんなに「責任」が怖いのだったら、何もしないで、黙って目をつむって、家で寝ていればいいのだ)。


『ま、いいか』

 特定の相手がいなかった俺はただ、一番ヤレる確率が高そうだったから、彼女の所在を確かめようとしただけだ。


 その後、俺たちは、けっきょく予備校の講義はシケて、俺と土井、高瀬の三人に、もう一人加えて、両親が留守にしている予備校のダチの家に上がり込んで、麻雀を始める。でも俺は、トランプ、マージャン、花札にサイコロ、そういった類いのものには、ぜんぜん興味が湧かなかった。だからルールも知らなかったし、おぼえる気もなかった。だいたい俺たちは、そういう世代ではなかったと思うのだが…。

『今どきマージャンなんて!』

 俺はそう思っていた。退屈は嫌いだけど、ヒマつぶし的なものじゃ熱くなれなかった。

『そんなことができたからって、それがなんだっていうんだよ?』

 指先で器用にペンを回したり、ジッポーのオイル・ライターさばき等のお遊びを、わざわざ練習してまで習得しようなんて奴らの気が知れなかった。そんな事をするくらいなら、何も考えないでボーッとしていたほうが、よっぽどマシだと思っていた。


(俺の古い友人の中には、モデル・ガンにガン・ベルト。早撃ちの練習をしている奴もいたけど…まあ、役者でも目指すっていうんなら話は別だ。なにしろ「すべては芸のため」。なんでも「こやし」になるんだから、良い世界だ)。


『その日・その時・その場が楽しければなんて奴ほど、案外ぜんぜん楽しんじゃいないんだよ。悪い奴らじゃないんだけど、感性の鈍いバカばっかりで、けっこう退屈』

 それで俺はポツンと独り、離れた所でボーッとしていた。でも、頭の中をカラッポにしていたわけではない。俺は、ある事を考えていた。



        ※       ※       

 


「よし!」

 俺は一人、小声でそう掛け声をかけて立ち上がる。昨日きのう・今日と予備校にも顔を出さず、まっすぐにそのファミレスにむかった俺は、駐車場のむこうに見えるレンタル・ビデオ屋に入って行く人影を確認すると、モーニング・セットの代金を支払い…もう昼に近い時間だったが…その店にむかう。

『!』

 彼女はCDコーナーで、何かを探しているようだ。一心不乱にのぞき込んでいる。

「何をお探しでしょうか?」

 俺は右横に並びかけながら、声をかける。

『アレッ?』

 こっちを振り向いた彼女は、そんな表情を見せるが、視線を正面に戻しながら…

「あなたは何を探してるの?」ときた。

「僕は君を探しにきたのさ」

 たまたま目にとまったCDを手に取りながら、わざと気取ってそう言えば…

「バーカ」と「オウム返し」に返ってきた。

「その『バーカ』ってのが、口ぐせなんだな」

 重ねて俺がそう言えば…

「大きなお世話!」と、そんな調子で、やがて…

「あたしんまで、ついて来る気じゃないでしょうね?」

 俺は黙って、彼女の後ろを歩いていた。

「冷てーな。せっかく再会できたっていうのに…せめて名前くらい教えろよ!」

「あけみ! アンタは?」

「モトハル」

 そういうわけで俺たちは、その近所の小さな公園のベンチにいた。昼前のこの時間。園内には母子連れが二組と、老人が数人いるくらいだが…初夏の明るい太陽の光りの下で見る「あけみ」は、数年前までは、満面のニキビヅラだった浅黒い俺とは違って、純白の綺麗な肌をしていた。

「ところでアンタ、何してる人?」

「ワタクシ?」

 俺がフザケた調子でそう言いながら、自分で自分を指さすと、あけみはコクンとうなずく。

「なんに見える?」

 さらに、トボケた素振りでそう問えば…

「学生」

 即答で返ってきた。

「どうして?」

「無責任そうだもん、すべてにおいて」

「そうかい?」

 まあ図星ズボシなので、反論の余地はない。

「でも、そんなにアタマ良さそうじゃないから、無試験・受付順で入れる専門学校ってトコかな」

 たしかに「予備校」なんて、先着順ではいれる「専門学校」みたいなもんだが…実のところ、これでも一応「浪人」という立場に、多少は引け目を感じていたし、先ざきに不安を持っていたことも確かだ。

「それに軽そうだし…働いてるとしても、アルバイターってとこね」


(「フリーのアルバイター」が転じて『フリーター』。でもまだ、そんな言葉は誕生していなかった)。


 あけみは、そう続けるが…

『うーん』

 俺は、このまえ行った居酒屋で、「今さら学生なんてね!」と、酔って声高こわだかに話しをしていた俺よりチョット年上の、OLっぽい女がいたことを思い出していた。

『どうする?』

『身分をあかすべきか、ウソをつくべきか?』

『もしあかすなら、いつ・どのタイミングで?』

 俺は、そう考えはじめていた。

「金持ちのボンボンで、遊び人」

 そこで、ひとまず間をもたすために、そう言ってみた。

「ウッソー! 遊び人かもしれないけど、ボンボンってのはウソでしょ?」

「そういう自分こそ、何してんだよ?」

 この前の初めての出会いで、以前の仕事は話題にのぼったが…いま現在、彼女が何をしているのかは、聞いていなかったはずだ。

「OL」

「ウソばっか!」

「お互いさまでしょ!」

「ホントはしがない浪人の身さ」

 俺はそこで、突然アッサリ、真実を告げた。

『なんだか、そんな気分だったから?』

 そうでもない。俺は案外、嘘をつくのが苦手だったし、見栄を張るのも嫌いだった。「根は正直だから」なんて理由ではない。

「ウソをつき始めたら、ウソで固めていかなくてはならない」

「いったんミエを張ったら、張り続けていかなくてはならない」

 そんなのが面倒だったからだ。


(だいたい俺は、すぐバレるような嘘をつく連中の気が知れなかった。バカのクセに、ウソをつくからいけないのだが…中には考えるより先に、嘘が口をついて出てしまうクズもいる)。


 そして俺に興味の無い女の、この後の反応はたいていが…

「ちゃんと勉強してる?」

 あるいは…

「予備校いかなくちゃ!」

 多かれ少なかれ、そんなリアクションが返ってくるはずだった。しかし…

「かーっこイイー!」

「へ?」

 俺は、そんな彼女の反応にビックリした。

「何もしてないってことは、これから何でもできるってことじゃない」

「?…」

 そんなふうに考えたことは、一度もなかった。

「夢を持ちなさいよ!」

「はあ…」

 逆に、勇気づけられてしまった。

『ヘンな女』

 俺はそう思ったが、そう言われてみれば、そうかもしれない。

「俺は大きな挫折感を味わったことがない」

 まだ本気で何かをしたことが無いのだから、当たり前だ。

「自分に何がしかの適正があるのか? 何にむいているのか? わからない」

 試したことが無いのだから、わかるはずもないが…でもまだ、時間はたっぷりあったし、『何でもできる』『何者にでもなれる』。漠然とだが、そんな気がしてきた。

「もしかしたら、とんでもない才能を秘めているかもしれない」

「世間知らず」と言われるかもしれないが…実際その通りだが…俺にはまだ、「若さ」という武器があった。


(でももしかしたら、ただの「馬鹿さ」かもしれないが…)。

「こんど飲みに行こうぜ?」

「未成年のクセに」

「自分だってそうだろ?」

 両親と一緒に住んでいる俺は、とりあえずベルの番号だけを教え、頃合いを見計らって家に帰る。

 俺は「ポケット・ベル」を、小学生の頃に親から持たされて以来、所持し続けていた。「まだそんな物があるのか?」なんて言われそうだが…しかし、よくよく考えてみれば、「小学生の頃」って言ったって、まだたかだか6〜7年しかたっていないわけだ。実際、いとこの病院勤務の検査技師さんは、「宅直」の日の急な呼び出し用に、今でもポケベルを持たされている。


(実のところ、「ポケット・ベル」のサービスが終了したのは、21世紀になってしばらく経った頃。それまでは存在していたことになる)。


 それに俺は、大の「電話嫌い」。見知った人間ならともかく…むこうの顔が見えないのが、最大のネックだが…きっとテレビ電話でも、初対面の相手とは、うまく話せないだろう。


(だから「電話」以前に、要は「気が合うかどうか」なのかもしれない)。


「俺も、まだまだ若いよな」

 俺は家に帰る途中、「あけみ」に似ている女性ボーカルの写真が載っている雑誌を買った。俺はその写真を見て…ヌードどころか、水着でもないのに…独りで励んでいる自分に、(自分で)感心していたわけだ。でも、身分を白状した後の「あけみ」の態度からすれば…

「まあまあ脈ありかな?」

 そんな期待が残った再会だった。



        ※       ※       



「なんだよ! 人がたまにマジメに授業出てりゃ…」


 その日、俺は珍しく予備校の講義に出ていた。震えるベルを止めて、番号を見る。

『知らねーな」

 番号の入れ間違いというのは、結構あるものだ。土井から聞いた話だが、深夜、「ベルに番号入ってたんですけど」といって、知らない女から電話がかかってきた奴がいる。その後どうなったかは知らないが、とにかくそれで、待ち合わせの約束をしたそうだ。そういう仲を『ベルダチ』あるいは『ベル友』と言う。


(最近の『メル友』などとにたようなものだろうが…今のメール機能では、そういった『幸運なハプニング』ほ起こりっこないだろう)。


 俺は休み時間、予備校の中にある公衆電話から、ベルに入っていた番号にかけてみる。

「モトハル? あたし」

「アタシって誰だよ?」

「あ・け・み」

「ああー」

「元気?」

「ああ。で、どっからかけてんだよ?」

うち

「なんだよ。電話持ってないって言ってたじゃないか」

 番号を見れば、それが固定電話の物なのは一目瞭然だったが…

「そんなこと、言ったっけ?」

「ああ」

「ケータイ電話は持ってないって言ったけど、電話が無いとは言ってないわよ」

「そうだっけ?」

「女房はいるのに、彼女はいません…って言う男みたいなものよ」

「まあいいよ。なんだよ?」


 翌々日。俺は土井に借りたバイクの後ろにあけみを乗せて、郊外にある動物園に行った。

 俺は「中型二輪免許」は持っていたが。バイクは原チャリしか持っていなかったので、土井のアメリカン・タイプ風のバイクを借りたのだ。


(「中型」とは、今で言う「普通二輪」のことだ)。


「図書館行って、勉強してくるからさ」

 教習所に行く金のなかった俺は、高校三年の夏休み、そう言っては家を出て、セッセと運転免許試験場に通って、バイクの免許を取った。


(一学期の「球技大会」の日に早退して「原付免許」を取った俺は、空き地でコイツで練習しては、試験場に向かったワケだ)。


 Vツインのエンジンのマフラーを交換してある400ccの排気音は、かなりウルさい。


(俺の通っていた公立校は、都合の良い意味で「放任」だったし…どちらにしろ高三にもなれば、免許取得は黙認だった)。


「あたしって…動物に好かれるのよ!」

 半キャップをかぶった俺の耳元で、あけみは叫ぶ。

「ふーん」

「よく、オス犬にからまれるの!」

「はあ〜?」

「おいで・おいでなんてすると、寄ってきて…あたしの足に抱きついてさ…そのうち興奮してきて、腰振りだすの!」

「キャハハ! なにか…オスを引き寄せる匂いでも…出してるんじゃねーの?」

 俺は叫び返す。やがて…

『ここに来るのは、何年ぶりだろう?』

 平日ということもあり、人影はまばらだった。それに年季の入った施設は、さびれた感じだったが…俺は、そんなところが気に入った。

 だいたい俺は、人混みでゴッタ返している所は大嫌いだった。それに、自主性も理由も無く流行ハヤリを追いかけるようなタイプでもなかったし、「最先端で最新」といって、エラそうな顔をしている連中も、ちょっと遠慮したかった。「懐古趣味」というワケではないが、もともと「うらぶれた感じ」「落ちぶれた雰囲気」「さびれた空気」が好きな人間だった。

『「び」や「び」の世界?』

 俺は案外、『日本人』なのかもしれない。


「コイツら、このへんに捨てられた犬なんだろうな」

 俺たちは、自由に触れる仔犬が放された柵の中にいた。おびえた顔をした犬ばかりだった。なかには、それがナゼなのかわからなかったが、ブルブルと震えている犬もいる。

「このあたりは、イヌやネコを捨てていく奴が大勢いるんだってさ」

「かわいそう」

 あけみは、子犬を抱いては、撫でたり頬ずりしたりしている。

「かわいいよ。アナタもダッコしてあげたら?」

「連休明けとかには、たくさん死ぬんだってよ。みんなに触られまくって、『ストレス死』ってやつだな」

 俺がそう言うと、あけみは黙ってソイツを放した。


(最後のオチは、「トラやライオンのエサになる」という都市伝説だったが…そんなあけみの姿を見ていると、さすがの俺でも、そこまでは言えなかった)。


 それから俺たちは、動物たちの入れられたオリやカゴを見て回った。そんな時、俺が口にしていた話題は…

「新聞か何かの投書に出てたな、芸能人のオバチャンのボランティアに対する批判が…」

『金持ちのする奉仕活動ボランティアなんて、信用がおけない』って内容だった。

「どうもその意見によると、どっかの駅前あたりで募金をつのってる怪しげな連中のほうが、マシってことになるらしい。あんなのこそ、金がどこに行っちまうのかわからないのにな」

 だいたい、その日の自分の食い扶持もままならないような奴の方が、よっぽどウソ臭い。

「まだ世間を知らない、中学生の女の子だったからな。金持ちに対して批判的だし、世の中の『仕組み』がわかってないんだろうな」

 アメリカあたりでも、何かで金持ちになり、有名になった後、次に奴らが求めるものは、社会的『地位』や『名声』だ。そのために奴らは、寄付やボランティアに熱心になる。まるでそれが、『義務』でもあるかのように。

「でも、黙ってても税金で持っていかれるんだったら、誰かのためになるんだから、決して悪いことじゃないよな」

 俺がガキの頃からあるその動物園は、幾度か経営危機に陥り、そのたびに経営者が替わったそうだが、いまだに存続していた。

「ウォルト・ディズニーやアルフレッド・ノーベルは、まだマシだよな。みんなに夢を売ったり寄付したりしてるんだから。マイケルも、自分の家の庭に遊園地つくって、ひとりでセコく遊んでないで、みんなにタダで開放すればいいんだよ」

「でも、うらやましいじゃない、自分の庭に遊園地があるなんて。ディズニー・ランドって、貸し切りできるのかしら?」

「営業時間外なら、できるみたいな話、聞いたことあるけど…」

「いくらくらい、かかるんだろ?」

「んー千万単位らしいぜ」

「やっぱそうか。そうよね…」

 そこで俺は、「ガッカリそうなあけみを元気づける」というつもりじゃないが…

「もし俺が本当の金持ちになれたら、遊園地と動物園と水族館を経営するんだ」

 なんだか急に気分が高揚して、大きく出た。

「もうかんないよ、そんなの」

 当然のことながら、あけみはそう返してくるけど…

「だから、『本当の金持ち』って言ったろ。採算抜きのボランティアさ。ディズニー・ランドなんて目じゃないぜ。なんたって、観客よりぬいぐるみの数のほうが多いんだから。働く方も、そこで働くことが楽しくてしょうがないって感じで、いつも心からニコニコしてるんだ」


(実際、TDLが開業した時に、「お金なんかいらないから働きたい」と語る同級生の女子がいた)。


「わあーっ、それってイイかもしんない。早くお金持ちになってよ」

とまあ、人には聞かせられないような会話を交わしていた「バカップル」だが……高瀬が本屋で遭遇した同世代のカップルに、こんなのがいたそうだ。

 バイク雑誌を開いていたバカヅラの男と、アホヅラな連れの女。

男∶俺もハーレー買おうかな。

女∶あんた、バイクの免許持ってないでしょ。無免で捕まったらどうすんのよ?

男∶だってハーレーだぜ。

女∶あっ、そうか!


(つまり、「ハーレー様に乗ってれば、ケーサツだって止めっこない」って意味らしい)。


 俺たちは、そこまでではないだろうが、『その投書の中学生の女の子とは、変わらないレベルだな』と、後で思った次第だ。


「こっち、こっち」

 ひと通り園内を一周した後、あけみに手まねきされて向かった木陰のベンチ。

「なるほどな」

 ポツンとひとつだけ空いていた、据え付けのコンクリート製テーブルの横には、犯人不明の巨大な山盛りのウンコ。

「う〜ん?」

 仕方なく、陽当たりの良すぎる売店前の広場のイスに、腰を降ろす。

「なに食べる?」

 あけみは、食欲ありげに訊いてくるが…

「水族館で、水槽のサカナを見て「うまそうだな」ってつぶやくオッサンを見たことがあるけどさ…」

 ウマそうに「焼き鳥」をほおばるあけみを見て唖然。

『このオンナ、あんがい肉食系?』

 鳥カゴを出たすぐ後で「鶏肉」なんて、食う気になれなかった俺は、「焼きソバ」に「おにぎり」で昼飯ひるメシ

 食後、幼児向けの遊園地で、乗り物や観覧車に乗ってから、そこを後にする。



        ※       ※       



 動物園から戻った、夜も早い時間。俺たちは、俺があけみを待ち伏せしたファミレスで、お茶していた。

「男の人ってさ、あたしが『別れよう』っていうと、かならず『どうして?』っていうの」

「まー、そう言われたんじゃ、しょうがないよな」

「でしょ!」

「でもさ、何の前ぶれも無く、いきなりそんなこと言われりゃ、そう訊くしかないだろ」

「だから、前もって言っとくことにしてるの」

『それほどの女かよ?』

 俺は腹の中で、そう思ったけど…

『?』

 そのファミレスを出て、俺が駐輪場の方へ向かおうとすると、あけみは左側から俺の腕を取り…

「ひとりじゃ寂しい夜だって、あるでしょ」

 まっすぐ俺の方を見上げて、そう言ってきた。

『なるほどな』

 俺は彼女がナゼ、さっきの話をしたのかわかった。とりあえず俺は、「今晩の相手」としては認められたようだ。

『!』

 俺は組んだ腕を引かれるように、あけみの棲家すみかがあるであろう反対方向へ向けて歩き出した。バイクはそのファミレスに置き去りだか、24時間営業の店だから大丈夫だろう。

『?』

 玄関のドアを開けると…まず目に入ったのは…フトンの掛かっていないコタツの上に、小さな花瓶に花が一本してあった。

「なんか、もの悲しい風景だな」

 俺はあけみの部屋に入るなり、そう感想を述べた。でも確かに、そんな光景だった。

「毎年かならずこの日には、お花を上げることにしてるの」

「どうして?」

「今日は、お父さんの命日なの」

「…」

「あたしのお父さんは、競輪選手だったの。でも、あたしが小さい頃、競技中の事故で死んじゃったの」

 自転車競技では、踏み込むばかりでなく、引き上げる力も得るため、足をトウ・クリップで固定する。ブレーキも無く…おまけに、競技用の自転車は、「ピスト」と呼ばれる後輪直結タイプ…足がペダルに固定されている『競輪』は、転倒した際、自転車もろとも転がっていくので、とても危険だ。スピードだって、かなりのもの。死人が出る話も、聞いたことがある。

「ひとりじゃ寂しい夜だって、あるでしょ」

 俺は、ついさっきの、あけみの言葉を思い出す。

『なるほどな』

 でも…

『ちょっと重すぎるぜ』

 俺は多少後悔したが…

『しょうがね〜な』

 腹を決め、あけみと並んでテレビを正面に見るコタツに腰を下ろし、いつも観ているというドラマを観はじめる。

「荷物は、ためこまないようにしてるんだ」

 そう言うあけみの部屋は、俺が想像するような「女の部屋」と違って、いたって質素だった。

「なに食べる?」

 よく頼んでいるという店から出前してもらった店屋物てんやもので夕食を済ませ、テレビを見たりしながら時間が過ぎてゆく。本当なら、もう帰らなくてはならない時間だった。でも、彼女を独り残していく気にもなれない。

『俺もバカだよな。せっかくのチャンスなのに』

 俺はそう思ったが、そんな気にもなれないでいた。

「…?」

 やがて、観ていたテレビ番組が終わると…俺の左隣りに座っていたあけみは、唇を求めてくる。

「いいのかよ?」

「いいの。どうせあたしなんて、大した女じゃないし…」

「そんな言い方するなよ」

「いいの」

 俺たちは、そうしてしばらく抱き合っていたが…

「お父さんに見られてるようで、そんな気になれないよ」

 俺は、妙にかしこまった言い方をする。

「じゃ、午前〇を回ったら…」

「うん」

 俺は、軽くうなずく。

「シャワーでも浴びてくる?」

 俺は無言でうなずいて、立ち上がる。


 俺があけみのアパートを出たのは、もう夜明け近かった。



2.香水パヒューム



「最近の炭酸飲料って、炭酸弱いのかな?」

 幼い頃の俺は、ゲップをすると鼻にツーンと来るのがイヤで、炭酸系の飲物は大嫌いだった記憶があるのだが…

『それとも、俺が大人になったせい?』

 男はアソコから違う物が出るようになると、ションベンを途中で止められるようになる…はずだ。


(女はどうなのか知らないが、「第二次性徴せいちょう」前の男の子は、出はじめたら出っぱなしだ)。


 なんでも、「小」の時と、違う物が出る時とでは、回路が切り替わるんだそうだ。


(たしかに子供の頃でも、「オチンチン」が硬くなった直後は、オシッコの出が悪くなった憶えがある)。


 きっと小便が止められるようになるのは、おそらくそんなところが理由なのだろう。

『そう言えば、「ヘソのゴマ」を取って腹が痛くならなくなったのは、いつごろからだろう?』

「シャックリ」だってそうだ。昔は今より頻繁に発生して、なかなか止まらなかったものだが…


(「一晩止まらないと死んでしまう」なんて『流言蜚語りゅうげんひご』におびえて、不安になったものだ)。


 おそらく、「横隔膜おうかくまく」が成長して…もしかして、単に老化して…硬くなったからだろう。近頃ではシャックリなんやて、炭酸を飲んだひと口目に出るくらいだ。

『きっと、なにごとにも「適齢期」というものがあるんだ』

 俺は、そう思っていた。


(早くにおぼえた女は、「生殖器系のトラブルを抱えやすい」という統計があるそうだか、一方で、「処女は早逝そうせいする」と言われているそうだ。なるほど、「女性のカラダは子供を産んで、はじめて完成する」と語る医学者もいるくらいだ)。


「ゲプ〜!」

 俺は今日も、裕美あけみの部屋で「ドクター・ペッパー」を飲みながら、「昼のサスペンス劇場」を見ていた。


(「裕美」と書いて「あけみ」と読む。どちら・・・のかは聞いてなかったが、「おじいちゃんが付けてくれた」んだそうだ)。


 最初は、「よくそんなクスリ臭いの飲めるわね」と言っていた彼女だったが、最近ではちゃんと買い置きしておいてくれる。


(「Dr・Pepper」の歴史的背景を述べれば…まだ19世紀だった頃。アメリカ南西部の…テキサス州だ…地元のドラッグ・ストアーにおいて、健康飲料として売り出された物に起源を持つらしい。俺と同世代。「ファースト・フレディー」と呼ばれた、ルイジアナ出身のオートバイ・レースの天才ライダーは、俺と同じく「DP」が大好物で…欧州の『世界選手権』遠征中。プライベート・タイムは自身のモーター・ホームにこもって、「ドクター・ペッパー」を飲みながら、本国から送られてきたテレビ番組のビデオ録画を観ては、くつろいでいたと云う。それに俺には、特にこちら「KANTO関東 Region地方」では、ほとんど知られていない、その類似商品「ミスター・ピブ」…『黄色の缶に、茶色っぽい黒文字』だったような憶えがある…を中学生チューボーの頃に、「ダサい玉」県で飲んで、『マッズ〜!』と思った記憶が残っている)。


「また残酷なヤツ見てるの〜?」

 あけみは決まって、ケンカやコロシなどの暴力シーンになると、目をおおう。

「いいんだよ。ニホンなんて平和な国にいるんだから、ちょっとアブナイものでも見て、免疫つけといたほうが…ノホホンとしてたら、かえってヤバイだろ」

『銃声聞いて、ポツンと突っ立っているのは日本人くらい』なんて言われるけど、それも仕方ない。

「銃声ってのは、テレビでやってるようなハデな音とは、ぜんぜん違うんだ。22口径くらいじゃバクチクみたいな音だから、聴いたことがないとわかんないんだよ」

 もっとも今のところ、俺の知識なんて、実体験のともなわない『耳学問』ばかりだけど…

「へえ〜、そうなの!」

 あけみは素直に、反応してくれた。


「あたしバカだから」

 いつも正直そうに、そう言うあけみだが…

『馬鹿でも素直なら結構だ!』


(『パンチ』だか『プレイ・ボーイ』だかに載っていた、「銀座のナンバーワン・ホステス」のインタビュー記事。「聞き上手になるのがコツ」なんだそうだが…『ナルホド納得!』。だいたい、そんな店に来るオトコは、誰かにグチをこぼしたり・話を聞いてもらいたくて来るのだ)。


 特別「美人」ともいえない彼女の魅力は、そんなところにあるのだろうが…

「お客が勝手に指名替えしただけなのに、あたしが客を取ったって騒ぐ子がいてさ」

 そんなふうに、ボヤいていた事がある。

「飲み屋で働いてる子なんて、気が強い子が多くて…」

 たしかに、そのくらいじゃなきゃ、長くは勤まらないんだろうけど…

「この仕事…あたしに向いてないのは、わかってるんだ」

 あけみはポツリと、そう言うけど…

『そうでもないぜ』

 同僚との「勢力争い」は苦手だろうが、先に挙げたような理由で…

『客受けは悪くないはずだ』

 俺には、そう思えたが…あけみは、そう語った後で、考え込むように黙ってしまった事があった。


「でも…どういう育ちしたの?」

 あけみは、俺のそんな思想(というより、単なる意見だが)や、嗜好(といっても、血しぶきが飛び散るようなリアルな物じゃないのだが)に、不満げだが…

「俺んは、しつけはけっこう厳しかったんだぜ。それに俺はもともと、歯を磨いて、パジャマを着て、ちゃんとフトンに入らないと寝つけない子供だったんだ」

 俺がいま語ったことは、冗談ではない。実際、そんな子供だった。

「でも、あるときフト思ったんだよ。フトンをかぶらなくちゃ寝られないようじゃ、大したことないよなって」

 思い返してみる。

『だいたい、あまりに規則正しく育て過ぎるのは、よくないよな』

 俺は、自分の生い立ちを振り返って、そんな考えを持つようになった。ナゼって…

『だって、イザという時や、厳しい状況になった時、そんなにひ弱な心身じゃ、生きのびられないだろ』

 それに…

「まったく殴られること無く成長するのも問題だな。暴力に対して、妙に臆病になっちゃってさ」

 俺は、親にだって手を上げられること無く、育っていた。

「限度をわきまえてた方が、かえって安全かもしれないだろ。カッとなって、我を忘れて、気がついたら相手を殴り殺してた…なんてコトになるかもしれないし」

 もちろん、その逆…自分が、永遠に目が覚めない状態になる可能性だって、ありえるわけだ。


(高校の頃に読んだ、映画化もされた某有名作家の青春小説に…「ヤクザと喧嘩するなら、一番強そうな奴にむかって行け」と書いてあった。なんでもベテランは、「痛いが、急所をハズして済ませてくれる」からだそうで…「ケンカ慣れ」していないチンピラは、無我夢中になって見境いが無くなるから、かえってアブナイんだそうだ)。


「あたし、残酷なのキラーイ」

 もちろん俺だって、現実世界で、そんなヤバい場面に出くわす事を望んでいるワケじゃない。

「でもさ、だいたいケンカなんてするヤツは、ハケ口を肉体的苦痛として、違う場所に求めてるんだろうな」

 俺はわかりもしないくせに、結論めいたことを口にして、その場をしめる。


(ちなみに、俺たち『3バカ三人組トリオ』の口グセに、「医者と弁護士と教師の子供には、ロクなのがいない」というものがあるが…土井は医者の息子で、高瀬の家は弁護士、そして俺の両親は教師だ)。


 俺はその番組が終わると、リモコンであちこちチャンネルをかえていた。俺は幼い頃から、自称…『昭和』初期生まれの「戦中派」までは使っていたであろう、古くさい言葉で表現すれば…「物臭ものぐさ太郎」だった。子供のクセに、『手元ですべてを動かせるリモコンが欲しい』と思っていたくらいのガキだった。

『!』

 交響曲をやっている番組があった。

「モーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク』の第1楽章「アレグロ」が聴きたいな〜』

 俺がわざとらしく、あけみに聞こえるように、そうつぶやくと…

「何、それ?」

『思った通り』の反応が返ってきたので…

「『アイネ・クライネ』は、何だか知らないけど…」


(あと知恵だけど…「アイネ=ひとつの」「クライネ=小さな」という事だ)。


「『ナハト・ムジーク』は英語に直せば『ナイト・ミュージック』…つまり、『夜の音楽』って意味なんだ」

「知ったかぶり」して、そう答える。

「そんなの知らな〜い」

 あけみは、そう言うが…

「そんなことないさ。人間20年もやってれば…」

 アメリカの独立記念日『7月4日ジュライ・フォース』の日に誕生日をむかえたあけみは、俺よりひとつ年上のハタチだ。バースデイ・プレゼントに何がいいかハッキリしない彼女に、俺はまだ何も贈っていなかった。

「絶対どこかで聴いたことがあるはずだよ」

 と言って俺は…

「タン・タ・タ〜ン・タ・タタタタ・タン!」

 その出だしを、口ずさむと…

「あっ! それなら知ってる!」

 あけみは素直に感嘆してくれる。

「ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトの曲は、なんて言うか…ドラマを感じるんだよ。ドラマチックなんだ。もっとも、それくらいしか知らないけど…クラッシックはむずかしいんだよ」

 なんでも、「日本人には聴こえない」というか、感じられない『音』があるそうだ。たとえばジャパニーズは、虫のに風流を感じ…俳人「芭蕉」先生の『しずかさや 岩にしみ入るセミの声』や『古池や カワズ飛びこむ水の音』などの句にある通り…音の中に「静けさ」を見出すが、アイツらにとっては「虫の鳴き声」なんて、ただの雑音でしかないそうだ。

『ヤツらにとっての「静寂」は、まさに無音状態?』


(最近の売れっ子作家「片岡」さんのエッセイに、ジューク・ボックスで「無音のレコード」を聴く黒人男性の話があった)。


 きっと日本人のクセに、国際コンクールで入賞できる連中は、欧米人と同じ聴覚を持っているか、あるいはまた、本家を酔わせるような…案外、和洋折衷な…音色が出せるんだろう。


「勉強しなくちゃ、理解できないんだ」

 あけみの反応で調子にのった俺は、エラそうに講釈をたれるが、するとあけみは…

「じゃ、勉強すれば?」

 と、ごもっともな意見を返してくる。

 俺は幼稚園の頃、いやいやピアノ教室に通わされた。大切な日曜の半分が、「やりたくもない事」でつぶれてしまうのが、とても腹立たしかった。そのせいか、まったくモノにならず、一年ほどで親もあきらめたようだ。そして、それが原因かどうかはわからないが、音楽の成績だけは…「5段階評価」で…万年「3」で、いまだに楽譜すら読めなかった。


(それで高校の『芸術』の授業は、「美術」の方を選択したわけだ)。


「そういうモンでもないんだな。作曲家になろうと思ったら…勘違いしてるヤツって多いけど、勉強したからって、イイもん創れるとは限らないだろ」

 そこでかさず、生まれつき「素直」じゃない俺は…

『芸術とは何ぞや?』

 あけみの「正論」に対抗するため、あらたな「命題」を提議する。

「どうしてよ?」

 予想通り、怪訝な表情を見せるあけみに向かって俺は…

「音楽なんて、いつ素晴らしいメロディーが浮かぶかわかんないだろ。有名な映画音楽を創った作曲家なんて、楽譜書けないから、いつもお付きの人がついてて、その人が口ずさんだメロディーを書きとめてるんだそうだぜ」

 もっとも音楽に限らず…作家から、お笑い芸人に至るまで…アイデアを必要とする業界にいている人間は、いつ良い考えが思いつくかわからないから、「寝る時も、枕元に紙とエンピツを置いておく」などといった事は、よく聞く話だ。

「そういうものは、生まれ持ったモノなんだよ、きっと」

 そろそろネタのつきてきた俺は、結論めいたセリフを吐いて、この場をシメる。

「へ理屈ばっか!」

 あけみは、そう不満を漏らす。

 しかし…家で取っている新聞。俺が見るものと言えば、まず『テレビ番組欄』は当然として…


(これは、正統的には「巻末」だが、そんなクセのせいか俺は、ナゼか本屋で雑誌を「パラ見」する時、「右開きなら左から・左開きなら右から」。後ろからページをる習慣がある)。


 あとは、後日になって、「当たっていたかどうかを判定するため」に確認する『今日の運勢』と…


(結局そんなものは、「どうとでも取れる言い回しをしているだけに過ぎない」ことに気づいてからは、興味が薄れたけど)。


 そして前にも例を挙げた、『人生相談』コーナー。

 そこに、いつだったか? 先の「ボランティア」に関する投稿をした女子中学生より、数年年上であろう女子高生の進路相談に、こんなモノがあった。なんでも、「考古学者になりたいのだが、家族に反対されている」んだそうだ。だが…悪いが声を大にして、ひと言、言ってやりたい!

「残念だけど、『考古学者 募集』なんて求人、ないよ!」


(『案外、的を得たアドバイスだ』と思うのは、俺だけだろうか?)。


 だいいち、本気でなりたいなら…

『遺跡発掘のバイトくらい、したことあんの?』

 だいたい、本当に好きなら…

『そんな事で誰かに相談する前に、誰かに言われなくたって、「損得抜き」で、とっくにサッサと、何かやってるはずだろ』

 たとえば単なる願望だけで、安易に「芸術家になりたい」的なことを語る奴もいるけど…そんな連中に、訊いてみたい事がある。

「アンタ、何か表現したいモノがあるの?」

 写真やカメラ、歌うのが好きな奴・楽器を奏でたり、絵を描くのが上手い奴・手先が器用で物を作る事や、文章を書く事が得意な奴。もちろん、スポーツや学問などなど…その他、さまざま・もろもろ。

 特に、そんな特殊技能を要求される世界では、「損得抜き」で始めた奴のその中で、「真の才能のある者」だけが『自然淘汰』され、それで食っていけるようになるワケだ。


(市井しせいの、「天体好き」が彗星を発見したり・「化石好き」が恐竜の骨を見つけたりするのが、その最たる典型的な例証になるだろう)。


『インディアナ・ジョーンズの観すぎじゃねーの?』

 俺からすれば、ただの「オタク?」。


(その闘い方が、『あしたのジョー』のモデルになったとされる元プロ・ボクサーのコメディアン「たこ八郎」氏をモジッたのだろう、『リカちゃん人形』を抱えた「キモいロン毛」姿でテレビ画面に登場した、俺たちと同世代の元祖『オタク』…「たく八郎」さん。『OTAKU』は、後の時代に、英語の辞書にも載るコトバになった)。


 きっと、俺が『人生相談コーナー』が「お気に入り」なのは、皮肉屋シニカルな俺の「ツッコミどころ盛りだくさん」だからなのだろう。


(なかには深刻シリアスなものもあるけど…概して、どいつもこいつも、自分への肯定・賛同を求めているだけだ)。


 ちなみに俺自身は、『就職情報誌に求人が載るような職業に就きたい』と思ったことは、一度もない。

「『南極観測の越冬隊員 募集』なんてのがあったら、サイコーなんだけど」

 あいにく一度も、見たことも聞いたことも無い。でも、そんなふうに思うには…おそらく子供の頃、映画館での二本立てロードショーの合間の、白黒モノクロニュース映像。そこに映し出された、除雪車ラトラックに乗った隊員の姿や、(『一度やってみたい』と思いつつ、未だ実現していない)「バター掛けゴハン」。今でも鮮明に記憶に残っているが…

「あれが、原体験になっているんだろうか?」


(「ビデオ」なんて物が無かった時代の『一期一会いちごいちえ』。特にテレビは、『これを逃したら、次は無い』。そんな思いが強かった。だからそのぶん…「次回予告」まで…本気で真剣に、見入っていたものだ。それで今でも、「予告編好き」なんだろう)。


 それに俺は、子供ガキの頃から、「パニック事態欲求ほっきゅう」とでも呼べばよいのか? 「尋常ならざる状況に陥ること」に、憧れにも近い感情を抱いていた。

「強烈な台風が来るから、家じゅうの窓に、外からクギで板を打ち付けて、中に立て籠もる」

 そんな展開になるマンガを、何度か(数は定かではないが)見て、そんな状況になる事を、密かに期待していたものだ。


(もちろん、そんな事を、誰かに語ったことは無い。と言うより、そんな話題を交わす機会が、今まで無かっただけだが…話しついでに、偶然フト、思い出したわけだ)。


 俺はチョットのあいだ、その音楽番組を見ていたが…知らない楽章に移り、おまけに映し出された映像が退屈だったので、サッサとチャンネルを変える。

「居候なんだから、ちょっとは手伝いなさいよ」

 あけみは、なかなかのキレイ好きだった。今日は「模様変えだ」と言って、なかば大掃除をしている。

「なにしろ面倒メンド臭がり屋だから、ちょっとした事ができないんだよな。そのかわり…」

 と言いながら立ち上がり…

「いったんフンギリつけてやりだすと、トコトンだけどね」

 俺は、何をやるにしても、「キッカケ」や「大義名分」となるような理由を必要とする人間だった。

「ちょっと、やめてよ〜!」

 でも最近、唯一の例外ができた。それは、あけみとの「交わり」だ。

「ヤダって言ってるの…に」

 俺は掃除機掛けをするあけみを、後ろから羽交い絞めにしてコトを始めた。


「ゲプ〜!」

 窓から吹き込む風は、妙に爽やかだ。俺はあけみとの1ラウンドを終えた後で、ふたたびドクター・ペッパーを飲んでいた。

「ふう〜!」

 俺はもう、トリコになっていた。あけみとの「目合まぐわい」は「CALL&RESPONCE」。呼べば返ってくる。つまり、「感度がイイ」ってことだ。

「あたしの中学の時からの友達にさ…」

 引っ越し前のように、乱雑にらかった部屋で、俺たちはタオル・ケット一枚羽織っただけで話しをしていた。


(「明るい所での『交接』を嫌がる女」が『多勢たぜい無勢ぶぜい』だった時代。基本、「灯りを消す」が、『交尾のはじまり』の合図だったけど…俺たちにも、そのくらいの「恥じらい」はあった)。


「ピーマンが大嫌いな子がいたの。それがスゴイのよ。『あなたのお弁当にはピーマンが入ってる』って言い当てるの。お弁当箱に入って、ちゃんと包んであるのによ。本人だって、中身が何か知らないんだから。でも開けてみると、ホントに入ってるの。匂いでわかるんですって。ピーマンなんて、そんなに臭わないでしょ?」

 俺の右腕を枕がわりにしたアケミは、こちらを向きながら意見を求めてくる。

「うん。匂いが無いってことはないけど、そんなにクサかないよな」

 俺は、オフクロに言わせれば、幼い頃から「ニオイ」に敏感な子供だったという。


(俺の母親は、『甲状腺こうじょうせん』か何かに持病を持っており、その病気のせいなのか、それとも薬の副作用によるものなのか、今では嗅覚がかなり弱っていた。目が見えなくなるよりは、他の感覚を失った方がまだマシだろうが…「ガス漏れ」があっても、わからないかもしれない)。


 そんな俺は、あるとき突然ひらめいた。

「味や臭いに嫌悪感を抱くのは、きっとそれが毒だからなのだろう」ということだ。


(本来『無色・透明・無味・無臭』の、家庭用「都市ガス」や「プロパン・ガス」に、あえて…いわく「腐ったタマネギ臭」を付加しているのは、ガス爆発やガス中毒などの、大事に至らないためなんだそうだ)。


 それからすると…たとえば「ウンコ」だ。人間はウンコの臭いや見かけに、不快感を覚えるようにできている。

「じゃなけりゃ…」

 もしそれが、「食欲」をそそるような物だったら、『大腸菌』なんかがウジャウジャしてる危険な物を食ってしまう人間だって、現われることだろう。


(通常、「味わった」ことなんて無いだろうが…なにごとにも、例外はある。ごく少数だろうけど、「特殊な趣味スカトロ」の人だって存在するんだろう)。


『なるほどな!』

 わりと最近のことだが、それは俺が自分で見つけた『大発見』だ。


(後の時代になると、『食物アレルギー』なんてものが、発見・解明・認知されるようになったけど…だからきっと、「本能的な好き嫌い」だってあるのだろう。たとえば、小学の時。他のクラスに、牛乳が飲めない同級生がいた。「アルコールを分解する酵素を持たないので、酒が飲めない」奴と同種だったのだろうが…担任の中年女教師が、洗面所に彼を連れて行き、吐きながらでも無理やり牛乳を飲ませている現場に出くわした。もともと俺は、そのオンナ教師が大嫌いだったが…「教育者ヅラ」して、『タチの悪い伝道師か、性悪な魔女』。俺の目には、そんな風に映ったものだ。ちなみにその彼は、学年イチの高身長で、長じてからは野球部のピッチャー。聞くところによると、現役で私立の一流大学に合格したものの、あえて一浪して、日本で一番有名な国立の最高学府に進学したそうだ。「ザマー見ろ、糞ババあ!」が俺の、心底からの感想だ)。


「でもさ、お前のニオイって、なんか違うんだよな」

 普通で嗅覚で知覚する匂いと違って、何て言うのだろう?

「本能に、直接うったえかけるとでも言うか…」

 疲れていたりで気分がダウンしている時には、ホッとするし…イライラしている時でも、とっても落ち着くし…バリバリの時は、その気にさせてくれる。

「これが、フェロモンってモノなのかな?」

 小さい頃から、独自の匂いを人間というのもいる。また、中年以降に発生する『オヤジ臭さ』や、老人が放つ、同種で独特の『加齢臭』。あるいは、個人差もあるだろうし、その種類にもよるだろうが…持病による固有の『生臭さ』。さらに、強い薬を服用している人や、「クスリ漬け」と呼んでもいいくらいの人物が発散する、動物的でない化学的な特殊な体臭。でも案外、本人や、身近にいる家族などは慣れ切って、忘れてしまっているものだ。


(犬を飼っている人間が…「人間の1億倍の『嗅覚』を持つ」と言われるイヌとは正反対に…「いぬしゅう」に鈍感になってしまっていたりするように)。


 そして何かの拍子に、フッと気づくのだ。


(女房と三人娘が、同時期に『生理』になった時の「強烈な臭い」を嘆くオッサンの話を、たまたま立ち聞きした事があるけど…そんな環境下に置かれた事のない俺には、『それが、どんなニオイなのか?』。想像もつかない)。


 何かでこんな話を、聞いたか読んだことがある。

 香水の『調合ブレンド』を職にしている人の、談話だったはずだ。そんな仕事をしているくらいだから、もちろん「匂い」には敏感な人だったのだろうが…たまたま、昔の知人と電車で乗り合わせたそうだ。

『この人、ニオイが変わったな』と、その場はそれで別れたそうだが、間もなく訃報を聞いたという。

『あれが「死臭」だったんだ』

 その時、そう思ったそうだが…多くの人に、『嫌悪の念』を抱かせる「臭い」というものは、たしかにある。

 でもアケミのそれは、不快なものではないし、香水などのように作られた物でもない。

 それは、『郷愁』にもにたものを持っていて、妙に安堵感を与えてくれる。深呼吸をして、胸いっぱいに吸い込みたくなるようなものだ。

 そして…男の俺に言わせれば…そういった良いものを持っているのは、女性に多いように思う。


(男でも、女に対して、そういったものを持っているのかもしれないが、俺は男だから感知できないのだろう。たとえば、「ワキガの人間は、自分がワキガであることに気づかない」そうだし、「ワキガ同士は、お互いがそうであることに気がつかない」と言われるように)。


 たぶん、口臭や体臭などにも「におい」の相性というものがあって、同種のものを持つ者同士は、それに気づかなかったり、好みに合わない場合は、それを敏感にキャッチし、マイナスの反応を示すことになるんだろう。


(たとえば香水だ。本人はそれを塗りつけているくらいだから、良い気分なのだろうけど…『クセーんだよスメリング!』…自分の趣味に合わない「悪臭」にまとわりつかれることほど、迷惑な話はない。だから俺は、香水パーヒュームなんて物は、使わないことにしている)。


 でも、自分が『気にくわない』と感じたからって、それがすべての人に共通に当てはまるというわけでもなく、中には正反対の傾向を示し、好みの感情を抱く人だっているはずだ。


(かつて欧州のどこかの国に、売れない作家がいたそうだ。もっともそれが本業ではなく、働かなくても食っていけるような家柄の紳士。ただし十人並みのルックス。しかし、いつも美女をはべらせていたと云う。それも、金ばかりにものを言わせたワケでもなく…そんな女たち曰く「あの人は、とても良い匂いがする」んだそうだ)。


「匂い」や「臭い」の『香り』の感覚というのは、案外あいまいで、個人差が激しいと、俺はそう思っている。


(なんでも人間には、いくつかのニオイのパターンがあるそうで…俺が聞いたところによると、二つのまったく正反対の説があって…「女は、父親と同じ匂いを持つオスに惚れる」という話と、一部のオンナたちがあつ信奉しんぼうする『外婚がいこん思想』に代表されるように、血が濃くなり過ぎるのを防ぐためだろう。「お父さんのパンツと一緒に洗濯しないで!」。俺が思うに、たぶん本能的に…避ける傾向があるという説だ。個人的には、後者の意見を支持している俺だが…理由は「ウンコ」の自説と同様、単純明快『近親相姦』を回避するためだろう)。


「とくに『アソコ』の匂いが、大好きだよ」

 俺がそう言いながら、アケミの股関に顔を突っ込もうとすると…

「バカ! 変態!」

 アケミはそう叫んで、二人で入っていたベッドから滑り出して、シャワーを浴びに行く。

「ふう〜!」

 今日も、一緒にいられる時間は終わりに近づいていた。でも…

「さてと!」

 俺は、彼女の部屋で過ごした後は…と言うより、アケミと「メイク・ラブ」した後は…妙にスッキリした気分になる。気力も充実して、今までの自分からは想像もできないくらいに、テキパキとしていた。


(俺は、「アタマ」が冴えている時・「気分」絶好調な時、鼻腔の奥の、脳ミソの入口あたり…だと思う…に、フッと心地好い香りを感じる事がある。たぶんそれは、みずからの体内で合成されている物だ)。


「受験のための勉強」はする気になれなかったけど、家に帰ると本ばかり読んでいた。



       ※       ※       



「ありゃドーピングだよ。体質が合うヤツが三本も飲めば、出なくなっても立つっていうぜ」

 土井は、「夏カゼ」をひいた高瀬が飲んでいるという、薬局でしか手に入らない市販の「ドリンク剤」について、そう語っていた。

「たぶん、覚醒剤みたいなモンだな。クスリが効いてる間は、カラダがカッカときて絶好調だけど、切れるとドッと疲れが出るもんな」


 予備校は、『夏を制する者は、受験を制す』のスローガンを掲げ、「夏休み」に入っていた。「自習室」は開いていたが、空いている席は少なかったりするので、今日は公立の図書館に来ていた。家に言ってある回数はかなりのものだが、実際にここに来るのは、ほんの数えられるほどだった。

「クスリでごまかすか、あるいはそれで、通常以上の力を引っ張り出しているワケさ」

 もちろん館内で声高こわだかに話をするわけにもいかないので、俺たちは外でダベッていた。土井は続ける。

「あんなモン、コマーシャルで流れてるみたいに『一日一本!』飲んでたら、糖尿になっちまうぜ」

 それを受けて俺は…

「でも、ほんの少しの酒は、逆に運動能力を高めるんだってな。戦国時代や特攻なんかでも、いくさの前に景気づけのさかずき飲んでから出陣や出撃しただろ」

 そう続ける。


(「恐怖心を打ち消すためじゃねーの?」。俺には、それが一番の理由のような気がするが…)。


「そう言や、この前、ソフト・ボールの試合した時も、ビール飲んでホロ酔い加減の時は調子良く勝ち進んでいたんだけど、切れはじめるとドッとダルくなってさ、決勝はボロ負けの惨敗」

 そこで高瀬が、そう口をはさむ。

 俺たち三人は、酒も煙草も女もヤッたけど…合法・非合法を問わず、薬物なんてものには興味も関心も無く、特にそういったモノに一番否定的だったのは、意外にも、あの土井だった。


(もっとも、医者の息子。そのあたりの「恐さ」は、一番理解しているのかもしれない)。


 つまりは俺たちは、自分たちの将来・未来に…少なくとも現時点においては…「希望も期待も失っていなかった」ってワケだ。


「お前の場合は、飲み過ぎなんだよ」

 俺が高瀬にそう言ったところで、最近、土井が付き合いはじめた女が登場する。地元の国立大学に通う同い年で、ツンとすました無口なオンナだ。土井はその女と目を合わせると、軽くうなずいて…

「じゃ俺は、これで…」

 と言って立ち上がる。この後これから、ここの裏山にある公園でイチャつくか、金があるなら、そこのふもとを取り巻く「連れ込み旅館ラブ・ホテル」のどこかにシケ込むのだろう。

「さて!」

 そこで俺は、腕時計をのぞきこむ。そのころ俺は、少しずつだか、受験のための勉強を始めていた。午前中は机にむかって、遅く起きたアケミが部屋の掃除や洗濯が終わった時刻を見はからって、彼女のアパートを訪れるのが日課になっていた。

「じゃ俺も」

 俺が三人に、そう告げると…

「なんだよ二人とも、もう帰っちまうのかよ?」

 後ろからそう叫ぶ高瀬を残して、俺はアケミのところに直行していた。



「だめ! イキそう!」

 アケミは噛み殺すようにそう言っては、俺の下で腰の位置を、突き立てやすい角度にもってくる。

「あ! あ! あ! あん・あん・あん…『アッ!』 あ〜ん・ん・ん…」

 俺の動きに合わせ、フェード・アウトしていくアケミのこえ。今日も、第一ラウンド終了だ。


(毎日、日課のように「朝晩かかさず」抜いていたけど…連日できるなら、「一日一回!」でも間に合うかもしれないけど…あいだに一日でも入れば、「最低二ラウンド」は必須。でも「ハタチ」前後の男女が交われば、だいたいそんなモンだろう)。


「ふう〜!」

 俺が、「嘆息」ではない満足の「溜息」を吐きながら、アケミの上から降りて仰向けになると…直後に、「余韻にひたる」でもなくムクッと起き上がったアケミは、急いでトイレに駆け込む。そして…

「はい!」

 ペットの『ドクター・ペッパー』を片手に、ふたたびベッドにモグリ込んできては…

「オシッコがまんしてるほうが、気持ちイイの」と言う。

「どうして?」

 理由は、よくわからなかったが…でもそれは、俺も同じだった。そんな時のアケミには、締め上げられて「もう辛抱タマラン」って感じだった。


(生物学的に男と女は、同じ『人類』。大きく見れば、子孫を残すことができる同じ『種』だが、細かく見れば「婦人科」なんてものがあるように、医学的には「別の生き物」と言えるくらいの「違い」があるそうだ…と、「産婦人科医」の子息の土井が語っていた。だから、いつか・どこかで、俺がエラそうに「男女の快感の差異」についての自論を展開していたように…メールフィーメイル構造の相違による「意識のズレ」なんて、理解できっこない)。


「最近、しつこいお客さんがいてさ」

 アケミは、俺に手渡したDPを奪い取っては、ゴクゴクと口飲みしながら…

「腕にアタシの名前彫ってるのよ…フリ仮名入りで。バッカみたい!」

 そんな話を始める。


「でも、わかるような気がするな。お前は、男をトリコにする女だよ」

 俺は、手戻されたドクター・ペッパーを、ひとくち口に含んでから、そんな思いを口にする。

「そんなことないって」

 アケミは謙遜(?)するが、俺は正直、そう思っていた。

「お前は、男をその気にさせる女なんだよ」

 俺は心底、そう思っていた。

「何て言うか…いろんな意味で、男を『その気』にさせるんだ。もしその男に、何がしかの才能があったら、きっとソイツはどこまでも昇っで行くんだろうな…自分の限界点まで。そういう女だよ、お前って」

 俺はボンヤリ天井を見つめながら、独り言のように、感じたままを述べていた。

「そんなことないって。アタシなんて、パッパラパーなんだから」


(どいつも・こいつも、『世界で自分が一番アタマがイイ』と思っていやがる。いまだかつて、人類の中で『究極の真理』にたどり着けた奴なんて、ただの一人もいないっていうのに…。だから、自分で自分を「バカだ」って認められる人間は、そんな連中より、よっぽど「利口リコウ」ってことだ)。


 そう返してくるアケミの顔を見詰めながら俺は…

『お前は、俺の勇気とヤル気のみなもとなんだ』

 そんなふうに思ったけど…さすがにそんなセリフ、テレ臭くて口には出せなかった。それで…

「お前といっしょにいると、何でもってわけじゃないけど、何かができそうな気がしてくるんだ」

 俺はそう言いながら、最後のドクター・ペッパーを一気に飲み干す。


 そのころ俺は、出勤するアケミを見送った後、家に戻って結構まじめに勉強していた。



       ※       ※       



 麻酔の効いた俺の頭は、ボンヤリしていた。

 はじめ動悸どうきがしてきた時は、『気分が悪くなるのでは?』という感じだった。でも続いて、モアッと何かが身体を上から下に走り抜け、意識が朦朧もうろうとして、逆に良い気分になってきた。

「座薬が効いてきたみたい。ボーッとしてきたわ」

 そんな状態になった俺は、この前アケミに会った時のことを思い出していた。アケミは夏カゼをひいており、座薬の風邪薬を使っていると言っていた。

「ボワーッとして、クスリやった時みたい」

「クスリ?」

「そう。今はやってないけど」

 アケミは悪びれずに、そう返してくる。


(もっともアケミの場合、市販の薬剤の量や飲み合わせで、軽く「トリップ」する程度だったみたいだが)。


『ま、このなら、そのくらいのことはあるか』

 俺はビックリするより、むしろ納得し…ガキの頃、夜中に家の前の空地でフラフラしながら、ビニール袋を口に当て、「アンパン」をやっている若者を目撃したのを思い出した。

 シンナーやトルエン、覚醒剤や麻薬などの劇物・薬物は、けっこう浸透している。わりと身近なところでも話を聞く。それは俺みたいな普通フツーの人間にだって、チョット手を伸ばせば届く所にあった。しかし俺みたいな、禁煙すらできない、「どっちつかず」で「意志薄弱」なやからが一回おぼえたら…きっと病みつきになって、ぜったい抜け出せなくなるだろうから、本気でも・遊び半分にでも、『試してみよう』なんて思ったことは一度も無かった。


(ミュージシャンや物書きなど、創造力を必要とする人間は、何の努力もなしに、あふれるようにアイデアが出て来るうちは良いだろう。あるいは、「産みの苦しみ」はあっても、何らかの法則にのっとって創り出せるモノ。または、知識や経験の積み重ねに従って、辛苦のもとに造り上げられるモノなら、まだ救いはある。しかし、それがいつまで続くのか、何の保証も無い。才能の枯れはじめた人間は、内なる力を求め・必要とし、「薬物などに走るか、自殺するしかないに違いない」。俺は、そんなふうに「解釈」している)。


 そして、その効き方や反応は、人によって…持って生まれた気質や、その時おかれている状況などで…マチマチのようだ。怒り出す奴、笑い出す者、泣き出す人…などなど。

『たぶんそれは、その人が酒に酔った時、どういった人間になるかを見ればわかる』

 それが、俺がわずかばかりの経験から想像したことだ。


「いくら良い医者らって…長蛇の列つくって待っていられたんりゃ…一人一人に気を配ってられないらろ」

 俺は、こぼれそうになったヨダレを手で拭う。まだ麻酔がめていない唇には、正常な感覚が戻っていなかった。ロレツも回らない。

る方らって…患者選びたいりょな。もし俺が医者になったりゃ…保険がきかなくてもいいかりゃ、てくれって奴だけ相手したいりょ」

 俺は予約を取って歯医者に行ったのに、一時間近くも待たされたことに腹を立てていた。


(オマケに、『麻酔、効き過ぎじゃねーの?』。ハラが減ってるのに、これじゃメシも食えね〜よ!)。


「でも、医者になるんらったりゃ…産科か小児科だにゃ」

「また〜。ヘンなこと考えてるんじゃない?」

「俺はマジメに言ってるんらりょ。新しい命を取り上げりゅ、幼い命を救う。なんか感動的じゃにゃい?」

「そりゃ、そうだけど…」

「そんときゃ、俺がてやるりょ」

「子供は作らないって、決めてるの」

「りょうして?」

「親子でにてるところって、あるでしょ。顔・すがた形や性格ばかりじゃなくって、結婚する年齢とか、子供のできる歳やパターンとか…生きて行く筋書きみたいなものが」

「…」

「お母さんが大変だってことは、わかってたわ。独りじゃ寂しいってことも。でも、アタシが高一のとき再婚して…アタシは家出同然に家を出ちゃったの。アイツが嫌いだったし…無理して、ガマンしてまで、学校行く気もなかったし…」

「…」

「もし子供が、アタシと同じような運命たどったら可愛そうだもの」

「反面教師ってこともあるりょ」

「何それ?」

「ようしゅるに、『ああはなりたくない』って思って、まったく反対になりゅってことしゃ」

 文字にすると、フザケた調子になってしまうけど…俺は、話が深刻になるのは嫌いだった。


(ましてや過去の出来事など、今さらどうにもならない。避けて通れることは、なるべく避けて通りたかった)。


 それで、話題を健康保険の方に持って行く。俺はまだ、父親の扶養家族だったから、保険料を支払ってもいないクセに、身のほど知らずで生意気にも、保険金や年金のことについて文句を言いはじめた。

「俺の中学んときの友達で、高校出て働いてるヤツが、嘆いてたにゃ。税金・保険・年金なんかだけで、給料の三分の一がなくなりゅって。でもしゃ、これだけペット・ブームなのに、どうして動物の医療保険ってないのかにゃ? 犬猫にゃんて、保険きかないから、注射一本何千円らりょ」

「アタシ、動物も飼わないことにしてるんだ」

 どうやらまた、地雷を踏んだようだ。

「仔犬の頃から飼っていたイヌがいたの。おっきなセント・バーナード。でも、お父さんが死んじゃって…飼いきれなくって、もらわれて行ったの」

 何かまた、マズイ雰囲気になってしまった。

「中学生の夏休みに思い立って、その知り合いの家に一人で遊びに行ったら、玄関で剥製になってて…」

 アケミは、涙こそ流さなかった…

「病気で死んじゃったんだけど、いつまでも忘れないように、そうしたって言われたけど…」

 ポツリ・ポツリと、話し続けた。

「気がついたら、灯油まいて火を着けようとしてた。まだ子供だったし、事情が事情だから、大きな騒ぎにはならなかったけど…」

 そこまで語って、押し黙ってしまう。

『何も剥製なんかにしなくたって、いいじゃないか。趣味ワリーな』

 病死が本当だったとしても…それは人間のエゴイズムやヒロイズムだ。そんなことして、イイ気になっている。

『そういう奴らは、自分の銅像や胸像作って欲しくてしょうがないんだろうな』

 そんなことを考えれば考えるほど、俺はムカついてきた。

「銅像や胸像の代わりに、剥製にしてやれば大喜びするんじゃにぇーの、そういう奴りゃは。俺は自分のデス・マスクにゃんて、作ってもらいたかないにゃ」

 イラついてきた俺は、アケミを抱き寄せ、彼女の頭に鼻を当てて深呼吸する。

「イイ匂い。この匂いをかぐと、妙に落ち着くんだりょ」

 アケミは、俺に身を任せてくる。そこで俺は、多分に『アケミの気をまぎらはせよう』という意図もあって…

「欧米人には必要だけど、日本人には不要って言われてるもにょにゃんだか知ってるきゃい?」

 アケミの頭に鼻先をはわしながら、そんな質問を投げ掛けてみる。


(もちろんアケミの返答は、想定済みだ)。


「さあ?」

 予想通りの反応リアクションが、返ってくる。

「オーデコロンにサングラス、あと『肩コリ』って単語と綿棒にゃんだってさ」

「どうして?」

「まず綿棒からいけば、奴りゃの耳アカってにょは、日本人みたいにパリパリしてにゃくて、ドロッとしてるんらって。だから耳掃除する時は、綿棒つかうんらって。でも、俺んの家系は、外人の血が入ってるにょかもにゃ。俺の弟が、そうにゃんりゃよ」


(「縄文人」系はドロッとしており、「北方」系はパリッとしている…という説があるようだ)。


「ふーん」

「必要にゃいって言えびゃ、サングラスなんかもそうだよにゃ。奴らは瞳の色が薄いきゃら、必需品にゃんだにょ。眼の色が濃い東洋人には、不要なにょさ。スキーの時くらいだにゃ、『雪目ゆきめ』ににゃらないために」

 俺は、サングラスをかけると、暗すぎて景色が良く見えなくなるから嫌いだった。でも…

「昔は俺もそうだったな」

 かなり年上の俺の従兄イトコは、誰の葬式の時だったか、こんなふうに語っていた。

「でもな、歳を取るにつれ、陽射しに耐えられなくなってきてな。今じゃ、晴れの日にクルマを運転する時には、必要なこともあるな」

 いつか俺にも、そんな日が来るのかもしれない。

「じゃ肩コリは? アタシだめなのよね、肩こっちゃって」

「欧米人は『いかり肩』だかりゃ、肩こらにゃいんだってしゃ。『肩コリ』って言葉すら、にゃいらしい」

 なんでも、慢性の「肩コリ」の原因というのは、自分の腕の重さにたえられないからだという。

「だから『にゃで肩』の人間は、肩コリににゃりやすいんらって」

「へー」

「でもそのことに関しちゃ、日本はストレス社会だからって説もあるけどにゃ。日本に来た外人が、肩がコルようににゃったとか、視力が落ちたにゃんて話もあるしにゃ。日本っていうにょは、そういう生活環境社会にゃんだろうにゃ」

 遠くを見る必要の無い国土や環境。

『近視眼的になるのも、仕方ないよな』

 ついでに、そこから頭痛・肩コリ・腰痛を誘発していると、俺はそう信じていた。

「じゃ最後に、オーデコロンは?」

「奴りゃもともと肉食だから、体臭や口臭には不利だりょ。だからかえって、そういったことには結構気をつかっているんだよ」

 香水なんて、そのために造られたものだ。

「日本も、奈良や平安の昔とかには、香をたいたり『匂い袋』を身につけたりしたみたいだけど…風呂が大好きな現代ニッポン人には、必要ないのさ」

 だいたい、自分が好きな匂いだからって、誰もが好むとでも思ってるんだろうか? 「臭い」をプンプン撒き散らしてるなんて、迷惑な連中だ。

「特に、お前には…」

 俺はそう言って、やっと感覚の戻ってきた唇で、アケミにキスをする。


(「性器接吻オーラル・セックス」なんて行為は、衛生的になった近・現代になってから行なわれるようになった営みらしい。だいたい「お産」の時にバイ菌に感染し、母体が産後に絶命するなんて、わりと最近の時代まで、珍しくもなかったみたいだし…世界の各地には、まだそんな場所も残っているのだろう。最近、「病気が恐くて、とてもそんな気になれなかった」という、未開の地を訪れ、地元の有力者に気に入られ、「娘を夜のお供に」と言われた日本人の旅行記を、読んだばかりだ)。


「アタシも虫歯あるんだ。早いトコ、歯医者さん、行かなくちゃ」

「でもさ、これからはたとえば奥歯だって、金とか銀なんて流行らないよな。カネがかかっても、やっぱ白い歯がいいよ。だいたい東洋人ってのは、歯に無関心だからな」

 欧米人は、けっこう敏感だ。カルシウムが多い食生活をしているから、歯はもともと丈夫だし、歯並びには神経質だ。


(「土質に関係がある」なんて話を、聞いたことを思い出した。それに、「耕地が少ない土地で、同じ場所を繰り返し使っていると、土壌のカルシウム分が減っていく」なんて話も)。


「奴らは宗教的に、八重歯は『吸血鬼』や『悪魔の象徴』として忌み嫌ってるんだよ。だからみんな、幼いうちに矯正するんだよ」

「ホントー」

 アケミは、右の上に八重歯がある。左の方は、本来おもてに出るはずの八重歯が内側に出てしまい、チョットだけ頭をのぞかせていた。見たことはなかったけど、舌先で上アゴの内側を撫でると、それとわかる突起がある。全体的に歯並びは、あまり良くなかったけど…ほかよりチョット大きめの上の前歯二本は、きれいに並んでいた。

「でも俺は、このビーバーちゃんみたいな前歯と、八重歯が大好きだよ」

 そう言って俺は、アケミの前歯と八重歯を集中的になめまわした。


「アゲマンの女」というのは、いるものだ。俺にとっては、彼女が正にそうだった。

 俺はもともと、本だけはよく読んでいたせいか、そのための勉強はまったくしなくても、予備校で行なわれいる模擬試験で、「現代国語」だけは成績上位者として発表される数十人の中に、チョクチョク顔を出していた。

 そして近頃は、ほかの科目も少しずつ上向いてきていた。




3.knifeナイフ



 ドアには鍵がかかっていた。呼び鈴を押しても、誰も出てこない。真冬の北風が、アパートの西側二階、まだ日陰の屋外通路を吹き抜ける。俺は合鍵を使って、中に入る。

『…』

 飲みかけのカップが置いてあったり…ついさっきまで、そこにいたという雰囲気が残っていた。アケミは、ちょっと買物にでも行っているのだろう。俺は部屋に上がって、いつもの場所…テレビの正面に腰を降ろす。コタツの中にも、まだぬくもりが残っていた。

『?』

 テーブルの上には、書きかけの白い名刺の束が置いてあった。俺は、一番上の一枚を取り上げる。アケミの「グー」を握ったような手つきで書き上げる丸文字で、「キャサリン」という名前と、電話番号が印刷されてあるだけ。店の名前などは、入っていない。

「ふん!」

 俺がその名刺を元に戻したところで、アケミがコンビニ袋を片手にブラ提げて帰ってくる。テーブルの上の、出しっぱなしの名刺に気づいて、一瞬「シマッタ!」という表情を見せるが、すぐにそれを取り繕うように…

「ドクター・ペッパー切らしちゃってさ。いま買ってきたの。飲む?」

と、台所からチラッとこちらをうかがうようにして言う。

「寒いトコ歩いてきたばかりだから、今はいらない」

 俺はそう返事する。

「じゃ、あったかい物いれようか?」

「ああ」

 ヘンにしらばっくれるのも何だと思い俺は、アケミが湯気の立ったマグ・カップを持ってきてくれたところで…

「この『キャサリン』ってのは誰だよ?」と、軽い調子で尋ねる。

「ヘヘー、アタシ」

「アメリカ在住の中国人みたいだな。奴ら、自分の気に入った横文字の名前なのって、それで呼び合うんだってさ」

 なんでも、店での名前が横文字で統一されているんだそうで、良い「源氏名」(?)が思い浮かばなかったアケミは、店長がつけてくれたんだそうだ。


(でも『あんがいイイとこツイてる』と思えるのだ)。


「もうすぐ、そのお店ともお別れ」

「どうして?」

「お店、かわることにしたの」

「ふーん」

「今度はアナタでも来られるようなお店だから、来てよ」

 台所に戻りながら、アケミはそう言った。年も改まり、入試ももう目前の時期だった。

「いつから?」

「今月いっぱいで今のお店やめて、来月から」

「辞めてすぐ働くのかよ?」

「そう」

 台所から戻ってきた彼女は、そう返事しながらコタツの右側に入る。

「少しユックリすればいいのに」

 結果はともかく、『試験が済んだら、一緒に旅行でも』。そんなアイデアが、チラッと頭をよぎる。

「そうも言ってられないでしょ。引越しもするし」

「引越し?」

「そう。心機一転するの」

「いつ?」

「仕事とあわせて。だから敷金とか礼金とか、けっこうかかるでしょ」

「手伝おうか?」

「バーカ。もうすぐ本場でしょ。だいたい今どき、手間を考えたら業者に頼んだ方が、よっぽどいいわ」

「たしかに」

 荷物の量は大したことはなさそうだが、俺はまだ車の免許を持っていなかった。

「でも、いつそんなこと決めたんだよ?」

「アンタと知り合って、アンタがマジメに勉強しはじめた頃かな」

「はあ〜? それとこれと、どういう関係があるんだよ?」

 何だかよくわからなかったが、俺はとりあえず、アケミが次に働く店の名前を訊いた。

「今度は、下の名前は本名で出るからさ」

 アケミはそう言った。

「ところでさ、ひとつお願いがあるんだけど」

 俺は、アケミの方に身を乗り出しながら言う。

「なに?」

「船乗りやギャンブラーってのはさ、お守りに女房や恋人の『あそこの毛』を持ってるんだってさ。だから…」

「だから何よ?」

「受験のお守りに、陰毛一本くんない?」

 アケミは「バーカ」と言ったが、俺は彼女を押し倒すと、ロングのスカートに顔を突っ込んだ。




       ※       ※       



「電話の工事が遅れちゃってさ。この時期、多くなるでしょ、引越しとか。だからまだなの」

 土井の携帯ケータイに電話をかけてきたアケミは、そう言った。

『ふん!』

 固定電話は、かつてはその権利を手に入れるだけでも大変だったそうだ。でも今では、『バブルではじけたゴルフ会員権みたいなもんだろ』と、俺は思っていたけど…アケミは、母親名義の電話を放棄するつもりはなさそうだった。ケータイだって、「そのうちね」と言っては、かたくなに拒んでいたが…もっとも俺にしたところで、持っていないのだから強くは言えなかった。

「場所は、チョットわかりずらいの。電話はいったら、ベル入れるから」

 月末に、そんな電話でのやり取りがあった後、俺はもう一週間近く彼女に会っていない。

『少しは、俺の身にもなってくれよ。たまってると、夜も眠れないよ』

 実際、寝床に入っても、アケミとの出来事を思い出したり、情事を想像したりで、眠ることにすら集中できない日が続いていたし、勉強の方にも身が入らなかった。そこで…

「本番前の景気づけだ!」

 と、ばかりに…月が変わって、数日たったある日の晩。俺はアケミを驚かしてやろうと思い、土井と高瀬と連れ立って、新たに彼女が働いているであろう店に入る。

「今度は、あなたでも来られるようなお店だからさ、来てよ」

 アケミは、そう言っていたけど…でも、とてもそんな雰囲気ではなかった。店の客は、どいつもこいつも俺たちよりずっと年上そうだったし、服装や料金など、すべてにおいて、俺たち若造が出入りする所とは思えなかった。つまりは「高級」ってことだ。俺たち三人は、「おのぼりさん」にでもなった気分だった。


(もっとも、「半学生」の俺たちにしてみれば、そんなものだろう)。


 女のは、良く訓練されているせいか、まだマシだったが…ボーイたちの態度は、『ここは、お前らが来る所じゃない』とでも言いた気だった。


(でもそれは、俺がこういった場所に馴染んでいなくて、萎縮していただけかもしれない)。


「アケミって子、働いてない?」

 俺は女のの一人に尋ねる。

「えー、そんな子いないよ」

 もっとも、入店時に指名を訊かれて、「少なくとも今夜はいない」ことは、わかっていたけど。

「今月から、ここで働くって聞いたんだけど」

 確認の意味だ。

「今月は新しい子、誰も入ってないはずよ」

 そのは、そう言った。

『?』

 俺は、キツネにつままれた気分だった。そんな時…

「もう一軒はピンクなの」

「何だよ〜。そっちで働けば行くのに!」

 右奥に座る土井たちの、そんな会話が耳に入ってくる。どうやら、この店と同じ系列にある、風俗店の話をしているようだ。

「もっと稼ぎたいって子は、向こうに行ったりするのよ。アッチはさ、いま女の子が足らないみたいで、忙しいらしいわ」

「何てトコだよ?」

 俺は何気なさそうに、そう尋ねたが…心に引っかかるものがあった。



       ※       ※       



 もうとっくに、陽の落ちた時間。俺は、駅の近くの路地で、カップの日本酒をあおる。


(年齢確認の甘い、スーパーで買っておいた物だ)。


「クーッ!」

 普段は日本酒なんて…と言うより、酒なんてたまにしか飲まない俺は、チビリチビリと半分ほど飲んだところで、残りを脇のドブに流す。でも、けっこう酔いが回ってきた。

「よし!」

 俺は低く掛け声をかけ、その店に向かう。そこは、きのう聞いた「ピンク系」の店だ。俺は日本酒を飲みながら、二度ほどその店の前を素通りし、表に掲げられた料金を確認しておいた。

『今度こそは!』

 意を決した俺は、前にも後ろにも、行き交う人間がいないことを確かめて、店の前で直角に近い角度で向きを変え、店に入る。

『酒でも飲んでなくちゃ、やってらんないぜ!』

 俺はそう思っていたので、無理して日本酒を飲んだワケだ。

「ご指名はございますか?」

 ちょっとヤンキーっぽい、中年のパンチ・パーマの受付けの男は、そう尋ねる。パチンコの景品交換所と違い、お互いの顔は丸見えだ。

「えーとっ…」

 俺は奥の壁に、名札が下がっていることに気づいた。「キャサリン」という名前を探そうと思ったが、アガッてしまったせいか、日本酒のせいか、視点が定まらない。そこで…

「キャ、キャサリンさんって、います?」

 単刀直入に、聞いてみる。どちらにしろ、横文字の名前で統一されているようだ。

「しばらくお待ちいただきますが?」

 男は、時間をチェックしているのだろう、カウンターの下に視線を落としながら、そう告げてくる。

「ええ、それでいいです」

 そんなふうに答えた俺は、さらに奥にある縦長の待合室に通される。室内は暖房が効いていて、暖かい。そのうえ俺は、緊張と興奮、それに先ほど飲んだ日本酒のせいか、皮ジャンを脱いでもポカポカと暑いくらいだ。

『ふん!』

 俺のほかには、オヤジが二人、待っていた。俺は、赤い長ソファーの一番手前に腰をおろすが、キョロキョロするのも気がひけたし…まわりの情景は、良く憶えていない。

『ふ〜っ!』

 こういう場所・こういった状況で「待つ」という行為は、かなりの苦痛だった。

『まだ五分しかたってねーよ』

 さかんに腕時計を見るが、時間はなかなか過ぎないし、お呼びはいっこうにかからない。

『は〜っ!』

 やがて、先客二人はとっくにいなくなった、一時間近くもたった頃だった。

「お待たせしました」

 受付けにいた男よりは若い、でもやっぱりヤンキー風の男にうながされて、待合室を出る。その男について、廊下を行けば…

「ご指名のキャサリンさんです」

 俺は、その男が手で指し示す左の方に折れる。そこを曲がった瞬間、見慣れた顔が目に飛び込んできた。

「アッ!!!」

 俺には多少の覚悟ができていたけど、向こうは目を見張る。でも、すぐにクルリと俺に背を向け、奥へと歩き出す。薄いピンク色の、スケスケした服を着ていたと思うのだが…形は、よくおぼえていない。

「どうぞ、ごゆっくり」

 俺たちは、背後にその男の声を聞きながら、両側に個室のある廊下を先へと進む。

「…」

 無言のまま通されたのは、一番奥の、左側の部屋だった。狭い室内は、左に白いタオルの敷かれた備え付けのベッドが、かなりの面積を占め、右奥に狭いシャワー・ルーム。あとは棚とか何かがあったのだろうけど、俺はよくおぼえていない。

「…」

 アケミは奥の壁の方を向いたまま、黙ってベッドに横座りしていた。俺も、彼女の右横に座る。沈黙はしばらく続いたが、やがて彼女がゴソゴソと動き、でもこっちを見ずに…

「サービスしましょうか?」と言ってくる。

「ここがなにをする所か、よく知らないんだ」

 俺がそう返すと…

「本番はないけど」と話しはじめたところで…

「ここには、飲物ないの?」と尋ねる。事実、俺は、緊張して待っていたので(それに、乾燥して暑いくらいの室内)喉が渇いていた。

「コーラしかないけど」

 少しの間を置いて、アケミはそう言った。もちろん、お茶や水なんかだってあるのだろうが、俺の好みを良く知っている、彼女ならではの答えだった。

「いいよ、それで」

 アケミは立ち上がり、俺と顔を合わせないようにして、前を横切る。入口の左横にあった小型の冷蔵庫から、ビン入りのコーラを取り出し栓を抜く。そこでひと呼吸入れてから、意を決したというふうに深呼吸して振り返り…

「はい!」と俺の方をまっすぐ見て、紙コップに移したコーラを手渡してくれる。


「アタシもバカよね。いつかこんな日が来るんじゃないかとは、思ってたんだけど…」


「なんとかバレないうちにって、考えてたんだけど…」


「あっちのお店に行ったのね」


 アケミは俺の方は見ずに、独り言のように、ポツリポツリと語り出した。


「ホントは向こうに移る予定だったんだけど、こっちが忙しくてさ。一カ月待ってくれって言われて…」


『アケミらしいぜ』

 悪く言えば「優柔不断」なのだろうけど…俺は彼女の、そんなところが気に入っていた。


「アタシもアセッてたからさ。アンタにお店かわるなんて言っちゃったけど、どうしようと思ってたの」


『それで引越しさき教えるの、しぶってたわけだ』

 俺は黙ってコーラを飲んでいた。


「もう、おしまいね」

 アケミがそう言い終えたところで、コーラを飲み終える。そして…

「いつから、こういう仕事してたんだい?」

 俺は左隣りに、微妙な距離を置いて座るアケミの方を向いて、訊いてみる。

「アナタと、初めてカラオケ屋で出会う、ちょっと前かな。いろいろプレッシャー感じちゃっててさ。こんなこと知らない昔の職場の子たちと、気晴らしに行ってたの」

「アナタ」なんて、妙によそよそしい表現を使ってきたけど…たしかに、客と一対一のこういった職場なら、少なくともアケミの苦手な、(いつだかグチをこぼしていた)「同僚女子とのシガラミ」も感じなくて済むんだろう。


(「風俗好き」の高瀬に言わせれば、芸能人と水商売の女に、「ロクなのはいない」んだそうだ。「蒲魚カマトトぶった女優」だって、裏を返さなくとも『自己顕示欲』の臭いがプンプンするし、「飲み屋のベテラン・ホステス」なんて、『出たがり・目立ちたがりで強欲』が丸見え。女が夢想するところの「一步前に出てリードしてくれる、男らしい男」の男性の願望版、「一歩下がって包んでくれる、女らしい女」キャラは…その手の業界においては…アニメの世界にしか実在しないらしく、「風俗の方が、あんがい控え目で大人しい、性格の好い娘イイコがいる」んだそうだ。なるほど、確かにそうなのかもしれない)。


「つまり、俺と知り合った頃には、もうこの仕事してたわけだ?」

 彼女は、元気なくうなずく。

「じゃ、仕方ないじゃん」

 俺がそう言えば…

「ホントに? ホントに、そう思ってる?」

 アケミは俺の方に向き直り、上目遣いで、さぐるように訊き返してくる。

「ああ」

 でも俺は迷っていた。


(だって、仕方ないよな。こんな「キッツイ話」。「即答しろ」だなんて、それこそ無茶だろ?)。


「一生ひけめ感じて生きていくんじゃ嫌だし…」

 そう言いながら、アケミが視線をそらすと、再び沈黙が訪れ、時は流れて行く。かすかに聴こえる有線か何かのBGMが、せめてもの救いだった。やがて…

「もう時間なの」

 アケミが、そう告げてくる。

『ホッ!』

 待合室で待っていた時と違い、ここでの時間はアッという間に過ぎた。俺は再びホッとする。

「この仕事、いつまで続けるんだよ?」

 ベッドから立ち上がりながら、ブッきら棒にそう訊けば…

「移る移らないでモメたから、もうヤンなっちゃって…あたらしい子ふたり入ったから、15日で辞めるって、今日キッパリ言ったの」

『15日か』

 翌日の月曜は、受験の一発目だ。

「アナタも受験で忙しいだろうから、こっちの整理がついたら連絡しようと思ってたんだけど…」

 彼女はそう言ってから…

「悪いけど、もう時間なの」と言って立ち上がり、ドアにむかう。

「その日、仕事が終わったら…待ってるよ」

 俺は、彼女の後ろ姿にむかって、そう声をかける。俺にも『心の整理』が必要だ。アケミは戸を開き、俺をうながしながら…

「期待しないで、待ってる」

 そう言って、俺を外に送り出す。

「ここまででいいよ」

 俺は振り返りもせずに、その店を後にしたが…


「その日、仕事が終わったら…待ってるよ」


 でも、会わないことだってできる。そんな逃げ道を残しておいた自分が、情けなくもあった。



       ※       ※       



 俺は入試本番を控えていながら、悶々とした数日を送っていた。

「今さらやったって仕方ない」

 それもそうだが、もちろん一番の理由はアケミのことだ。アイツとの出来事を思い出し・考えていると、勉強どころではなかった。明るい時はまだマシなのだが、夜、布団に入ると、もうダメだった。

『見たもの』『聞いたもの』を、もう一度思い描くのは…まあ、できない事じゃない。でも、『匂い』の記憶の再生は、かなりむずかしい。『匂い』はたぶん、その粒子が嗅覚に働きかけることで知覚するものだから、その『匂いの粒子』を頭の中で再合成しなくてはならない。「手で触れる」といった感覚同様、好きな時に好きなだけ、ありのままに再現するといったことは『至難のわざ』なのだ。でも…

『アレ?』

 でも恋する人間には、時たま起こることがある。恋人の『匂い』や『ぬくもり』を…まるで、その人がそこにいるかのように…ありありと感じる瞬間が。

「寝入りばなに、お前がすぐそばにいるような錯覚を起こすんだ。お前の匂いや、ぬくもりまで感じるんだよ」

 俺は独り、闇に向かってそうつぶやいていた。


「緊張しちゃってさ。今さらジタバタしてもしょうがないし…チョット夜風にでも当たってくるからさ。先に寝ててよ」



 俺は「その日」…2月15日(日曜日)…の晩。家族にそう言い残して、家を出た。

『このクソ寒いのに夜風もないだろう』と、普通は思うだろう。しかし、幸い明日は受験初日。家族の皆も、俺が通常の精神状態ではないと勘違いしてくれ、「カゼをひかないように気をつけて」なんて言って、送り出してくれた。でももちろん、本当の理由はアケミを迎えに行くことだった。それが俺の精一杯の誠意だと思っていた。俺はコッソリと、受験票など、明日必要な受験道具を忍ばせていた。たとえ徹夜しても、試験は受けるつもりだ。


 俺は電車に乗り、例の店に向かう。

「寝入りばなに、お前がすぐそばにいるような錯覚を起こすんだ。お前の匂いや、ぬくもりまで感じるんだよ」

 俺は車窓に映る自分の顔に向かって、何度もそうつぶやいていた。俺はそれを、決め台詞セリフにするつもりだった。



       ※       ※       



 風俗店の営業は、何年か前の『風俗営業法』の改正によって、もちろん夜中の12時までと決まっている。


(その少し前。未成年の女の子が、逃げられないように両足首のアキレス腱を切られたうえでレイプされ、あげくに殺害されるという事件があった。そんな鬼畜のような犯行におよんだ犯人は、いまだ逮捕されていないようだか…それをキッカケに風営法が見直され、ディスコなども含めた風営店の営業時間に、制限が加えられるようになったワケだ)。


 早く着きすぎた俺は、寒風の中、駅のあたりをブラブラして、時の経つのを待つ。例の店は、大通りを少し入ったT字路の正面にあった。

「さぶ〜!」

 午前〇時ちょっと前。俺は右肩に受験道具の入った黒いバッグをブラ提げ、厚手の皮ジャンのポケットに両手を突っ込んで、その店が見える、近くの暗がりにいた。

 午前〇時ちょうど。店の真上で煌々こうこうと輝いていたネオンが消える。

 午前〇時ちょい過ぎ。客と思われる男たちが、次々と出て来る。

 午前〇時を回り、男たちの群れが途切れた頃。入れ替わりに今度は、店の女の子の一群が現われては、黒服の男たちの運転する送迎車に、分散して乗り込む。

『?』

 最後のクルマが走り去ると、その向こう側に隠れていた女性のシルエットがひとつ、残っている。

『!』

 店の出入口の光をバックにして、それが誰なのか、はっきり確認できなかったが、俺にはわかっていた。

『…』

 俺は無言で電柱の陰から出て、街灯のあたる路地の中央に立つ。と同時に、店の明かりが一斉に落ちる。

「コツ・コツ…コッ・コッ…」

 その人影は、最初はユックリ、そしてだんだん小走りになって近づいて来る。そして、ひとつ向こうの電柱の街灯の下で立ち止まる。

『こんなに離れてたんじゃ、決めゼリフも言えないじゃんかよ』

 俺はそう思ったが、この際、そんなことはどうでもいいことだった。

「来てくれたんだ!」

 アケミはそう叫ぶ。

「おう!」

 俺は、カラオケ・ハウス以外で大声を出したことがなかった。「ああ!」と言おうと思ったのだが、声を張り上げると「おう!」になってしまった。アケミは目の前まで駆け寄って来て、そこで立ち止まる。

「フン!」

 視線が重なり、俺がニコッとすると…

「よかった!」

 そう言って、抱きついてきた。

「人に見られるじゃねーかよ」

 俺は、土井なんかとは違うのだ。

「ウレシー!」

 そんなことはお構いなしに、アケミは俺にカラダをぶつけてくる。

「あしたは試験初日なんだぜ」

 俺がテレ隠しに、素っ気なく言うと…

「じゃ、早く帰って寝なくっちゃ」

 俺の首に腕を回したままチョット離れて、俺の顔を見つめながら、そう返してくる。

「ひでーな。ここんとこずっと、禁欲してたんだぜ」

 そう言って、顔をシカメて見せると…

「ウソばっか! オナニーくらいしてたでしょ」

 そんな恥ずかしい言葉を口にして、腰を押しつけてくる。

「はっきり言うよな」

 俺は駅の方を振り返り、アケミは俺の左腕を取る。

「スッキリしないと、試験どこじゃないんだよ」

「わかってるって!」

 アケミは俺の方に、身体をあずけてくる。俺たちは腕を組んで、駅の方角へ歩き出した。

『ふい〜!』

 これで、この後の試験結果以外、すべてが丸くおさまるはずだった。

『?』

 その時、前方右側の路地の陰から、ヌーッと人影が現われ、行く手をはばむ。暗くてよく見えなかったが、俺より少し年上と思われる、リーゼントっぽい髪型をした男だった。

「やっぱり男がいたんじゃねーかよ!」

 その男は、そう叫ぶ。アケミは一瞬ビックリしていたが…

「アンタには関係ないでしょ! 勘違いしないでよ! アンタはただのお客だって、言ったでしょ!」

 そう言い返す。

「うるせー! 見てみろよ!」

 そいつはそう怒鳴って、左の腕をまくり上げる。

「イレズミまで入れたんだぜ!」

 俺には、何と書いてあるのか見えなかったが…

『こいつが例の、イレズミ男か』

 俺は思い出した。いつだったかアケミが…

「腕にアタシの名前彫ってるのよ、バッカみたい!」

 そう言っていたのを。

「どっか行ってよ!」

 アケミが叫ぶと…

「うるせーよ! こっち来いよ! 話があるんだ!」

 ソイツも叫び返すが…そこで俺は、一瞬のことだが、いつだったか土井に聞いた話を思い出していた。

「山に登ったカップルがよ、ばったりクマに出くわしたんだってさ。それで男の方がカッコつけて『君は先に逃げろ』ってんで、女を逃したんだそうだ。でもクマってのは、目が悪くて動く物に興味を示すから、その女の方を追いかけて、男の方が助かったんだってよ。でもその女にしてみりゃ、『自分を犠牲にしてまで私を助けてくれた』って思って、幸せのうちに死んでいったんだろうな。めでたし・めでたしって話さ」

 そんなことを考えている自分に気づいて…

『俺も、結構いい度胸してるよな』

 そう思った。俺はアケミを後ろに押しさげ、その男の前に立ちはだかる。

「やるのかよ?」

 ソイツは叫びながら、ポケットからキラリと光る物を取り出した。

『?』

 でもそれは、「ナイフ」と言うより、釣りに使う小刀こがたなといった代物だった。

「よっつに畳んで、三枚におろしてやるぞ! サカナみてーに!」

『そう言えば…』

 どっちの太モモだったか? 「魚の刺青タトゥーを入れている」とも聞いていたことを、思い出した。きっと、釣りが趣味なんだろう。

「店に逃げこむんだ」

 俺はアケミの方を振り返るが…

『ヤベー、足が震えてるよ』

 ヒザがガクガクしている事に気づいた。でも…

『これは「武者震ムシャぶるい」だ』

 実際、さほどの恐怖心も湧いていなかった。

「アンタはどうするの?」

 彼女は、おびえた顔をしていた。

「いいから行けよ。ケーサツ呼ぶとか、あるだろ」

 右肩に提げていたバッグを、右手に持ち替える。

「このヤロー!」

 俺たちがコソコソやっているのを見て、男は叫んだ。俺は奴の方に視線を戻し、奴に向かってこう言ってやった。

「うっるせーよ! 言っとくけど、いざやるとなったら、トコトンやるぜ。先にやった方が勝ちだ。俺はシロウトだから、動かなくなるまで、テメーのこと、ブチのめすからな!」

 そこまで一気に怒鳴って、そこで一息。

『そのくらいのパワーはあるはずさ』

 そして、そう思った。

「ツッパッてると、イテーめ見るぜ!」

 奴はそう言って返すが、手元が震えている。

「おう、バーカ! 女の前でツッパらなくて、いつツッパるんだよ?」

 俺は実際、そう思っていた。自分の女と、やがていつかはできるであろう自分の子供の前で、みっともないマネだけはするまいと。こちらに明らかな非やミスがあったなら、ジタバタするより「いさぎよさ」の方が優先するけど、情けない醜態をさらすくらいなら、いっそツッパッて死んだ方がマシだ。

「早く行けよ」

 俺は小声でアケミにそう言い、彼女を後ろに押しやりながら、あえて奴ににじり寄った。ナイフの先端が、俺の皮ジャンの腹のあたりに触れる。

「やってみろよ!」

 俺はツッパる。

『この距離からじゃ、逆に致命傷にはならないだろう』

 俺はそう思った。

「フン!」

 俺たちは、にらみ合ったままだった。

「やってみろよ。俺は多少イテーのには慣れてんだ!」

 実のところ俺は、「受験生」なんて呼ばれる身分になる前まで、けっこう危険な競技をやっていて、ケガで入院を経験したこともあった。


(最近の「自堕落な生活」の原因に、「目標を見失ったから」という甘ったれた理由も一因になっていたのだろう。それで、こんな意表をついた「アブナイ展開」に、『一気に目が覚めた』気分になったのだ)。


「もーヤメテよ! 大きな声だすわよ!」

 じゅうぶん大きな声で、アケミがそう叫んだ瞬間だった。奴はナイフを振り回す。

「ツッ!」

 跳び退こうとしたのだが、後ろにピッタリくっついていたアケミが邪魔になって、思うように動けなかった俺の左手に、痛みが走る。大した得物エモノではなかったから、俺の着ていたズシリと重い、厚革の皮ジャンを切り裂けるほどではなかったが、素肌が露出していた左手の甲から、血が流れ出した。

野郎ヤロー!」

 ちょっと切られたくらいギャーギャー泣きわめくのは、アタマへの血の昇りが足らないのだ。


(もっとも「寒さ」で、はじめから感覚が麻痺マヒ気味だったのか、さほどの「痛み」は感じなかったけど)。


 俺は血を見ると、一気に興奮した。バッグを男に投げつける。

「ウオー!」

 奴がひるんだスキにつかみかかって、もみ合いになる。俺は無我夢中だった。そこまで行くと、不思議と恐怖は感じないものだ。

「ハア! ハア! ハア!」

 でも、素人シロウトのケンカなんて、きっとハタから見ていると、みっともないものだ。プロ・ボクシングの試合などと違い、すぐに腕が上がらなくなり、パンチどころではなくなる。襟首エリくびでもつかみあって、引きずり回すのがセキの山だ。そんな時だった。

『!』

 俺の左の脇腹に、激痛が走ったのは。

ツー!』

 呼吸が一瞬止まった。「痛くて声も出ない」というのは、こういうことだ。

『ヤラれた』

 そう思うと、まっすぐ立っていることができない。「痛み」の箇所に、全神経が集中する。

『イッテ〜』

 俺は左脇腹を抱えて、ヘタリこむ。「痛くてうずくまる」とは、こういうことだ。

『ヤッちまった』

 奴はそう思ったのだろう。路地を抜ける方向に、小走りな足音が消えていく。

『キモワリー』

 俺は、軽い貧血状態だった。

『でもまだ、そんなに出血してないはずだ』

 そう思った時、背後から抱き抱えられ「だいしょうぶ?」と、聞き慣れた女の声がする。

『精神的ショックのほうが大きいんだ』

 耳がよく聞こえない

「イテーよ…」

 俺は口をパクパクさせながら、そう言ったのだと思う。

「だいじょうぶ! 痛いってのは、生きてるってことよ! 死んじゃう時なんて、きっと痛くもないんだから!」

『なるほど』

 そんな言葉に元気づけられたが、極度の痛みから俺は、気持ちが悪くなって、荒い息をしていた。

「ハア・ハア・ハア…」

 やがてかすかに、パトカーか救急車のサイレンの音が聞こえてくる。



       ※       ※       



「べつに、どーってことねーよ!」

 平日の昼下がり。病院のベッドで横になった俺は、土井と高瀬に、自分の武勇伝を語っていたが…実際、たいした刃渡りの刃物でもなかったので、致命傷にはほど遠かった。左の脇腹に、「若気わかげいたり」の『青春の記念碑』が残った程度だ。

「だいたい今日は、何しに来たんだよ、お前ら?」

 六人部屋の、左側の列のまん中のベッド。

「前によ、盲腸で入院した奴のトコに、見舞いに行ったことがあるんだよ」

 土井が話し始める。

「はあ〜? 盲腸?」

「それでよ、傷口がふさがる前に、大笑いさせてやったんだよ」

「な〜るほど」

 俺は相槌を入れる。

「そしたらさ、ホントに傷口が開いちまったらしくて、血がにじんできたんだよ。あんときゃ看護婦にさんざん怒られて、追い出されちまたんだ」

「残念だったな。俺がニヒルな男でさ」

「な〜に言ってんだよ」

 高瀬がそう言ったところで…

「それじゃ、今日は帰るからね」

 食器を洗って戻ってきたオフクロは、こいつらが来たので気を利かせてくれたのか、「どうぞ、ごゆっくり」と言って、病室を出て行く。

「おい!」

 土井は高瀬に目配せをする。高瀬は立ち上がって、ドアから外の様子をうかがい、土井を手で招く。

「じゃ、俺たちも帰るよ」

「なんだよ。いま来たばかりじゃねーかよ」

「俺たちはまだ、受験のまっ最中だからな。お前はイイよな、ベッドでオネンネできて」

 土井の奴はそう言い残して、二人は立ち去ったが…それと入れ替わりに、花束を持ったアケミが入ってくる。家族にはバレバレだったから、彼女は遠慮して、ここには顔を見せていなかった。

「そういうことか」

 俺は小声でつぶやいて、起き上がろうとしたが、腹のキズが痛くて、すぐには起き上がれない。アケミは、そんな俺に駆けより…

「ダメよ! 寝てなくちゃ」と言って、それを制した。

「…」

 俺はしばらく、かたわらに立つアケミを見上げていた。

「ゴメンね、こんなことになっちゃって…」

 試験の当日の深夜に、こんなことになったのだから、今年の受験はすべてパーだった。

「別にいいさ。どうせ今の学力じゃ、たいしたトコ入れないから…もう一年勉強すれば、少しはマシな大学に入れるかもしれないだろ」

「…」

 アケミは無言だった。

「腹も切ったし、医学部でも目指そうかな?」

「…」

「でもさ、今回助かったのは、たぶんお前にもらった『お守り』のおかげなんだろうけど、今度のことで効力つかい切っちゃったろうから、もう一本くんない?」

「まだそんなこと言ってるの。そんなこと言う元気があるんなら、大丈夫ね」

 口を開いたアケミに、俺はニヤッとウインクする。

「でもひとつ注文つけるなら、ちゃんと勉強して、まずは大学に入ってよ」

「ああ、わかってるよ」

 俺はそう返事する。そして…

「ゴホン!」

 ちょっとテレ臭かったが、右手でアケミの左手を取り、周りの隣人たちには聞こえないよう小声で、でも真面目マジメに本心から、こう言った。

「お前がそばにいてくれたらさ、それで俺はじゅうぶんなんだけど…お前がいてくれれば、きっと何かできるはずさ」

「アタシは何もいらないよ、アナタがそばにいてくれたら」

 アケミはそう言って、涙を流しはじめた。

「泣くなよ。みんな見てるだろ」

 大部屋なので、俺は他人の目が気になった。でもアケミは、そんなことはお構いなしだった。

「生きているうちに流さなくって、いつ流すの?」

 そう言って、声こそ上げなかったが大粒の涙をこぼしはじめた。俺は本当に『どーってことじゃない』と思っていた。それに、湿っぽい雰囲気は大嫌いだった。そこで、おどけた調子でこう言った。

「でもさ、たまんねーよ、たまってるけど。あーセックスしてー! お前と」

 アケミは涙を流しながらも笑顔を作ろうとして、俺の手を握りしめながら言う。

「マジメにやれよ。このバーカ!」

 俺が目くばせして、カーテンを引いてもらうと…アケミは唇を重ねてきた。



[第一部 了]


追記∶ところで、「その後の俺たち三人(プラス1)の近況は?」と言うと…

「アイツ、いつの間に勉強してたんだろ?」

 さすがに「虚無主義者ニヒリスト」の、あの土井も、驚きを隠せない。なにしろ高瀬の野郎は、「本命」の有名私立大学の法学部に受かったばかりでなく、本人の第一志望、「ダメもと」で受けた一流私大の看板学部『政治経済』に合格した。

「アイツは俺たちと違って、アタマの切り替えが完璧パーペキなんだよ。俺たちがスケとシケ込んでいるあいだに、勉強ヤッテたんだろ」

 俺は、そう切り返す。


(もっとも、もともと現役でも、そのくらいの実力がある奴だった。ただ、極度の「上がり症」。きっと俺たちと交わることで、「勝負度胸」がついたのだ)。


 きっと、親のたっての希望である法曹界へは進まず、ジャーナリズムの世界を目指すのだろう。


(まあいずれにしろ、仲間内から「成り上がり」ならぬ「成功者」が出たってのは、素直に目出鯛メデタイことだ)。


 そして、そんな高瀬に触発されたのか? 俺と違い試験を受けたのに、どこにも「引っかかり」もしなかった…つまり、「辞退者が出た場合の繰り上がり『補欠合格』の通知すら無かった」という意味だ…土井の奴は進路変更。もう一年勉学に励んで、芸術系の大学に進学した。


(俺も高瀬も、その時まで知らなかったのだが…奴には幼い頃から続けているという、ピアノやバイオリンの特技があった)。


 きっと、親のたっての希望である医学界へは進まず、アーティスティックな方面にむかうのだろう。


(『一朝一夕』では身につかない、長年の研鑽けんさんを積んだ技があるってことは、うらやましいかぎりだ)。


「そして俺? 俺かい?」

 土井や高瀬と違い、何の取り柄もない俺だったが…『二浪もしてるし』との、「見栄」と「虚栄心」と「羞恥心」の入り混じった「アセリ」もあった。

「ふ〜! これで、いちおうOKオッケーだろう」

 翌春、土井ともども安堵のため息をもらした俺は、何とかソコソコ名の知れた私大の文学部の、まったく「ツブシの効かない」文芸科に入った。


(まあ俺たちは三人とも、「国公立」ってガラじゃない)。


 俺は「教師にだけはなるまい」と心に決めていたので、『教職』を取るつもりは無いし…すでに一回生の時点で『卒論』のテーマが見つかり、今からコツコツと創作活動を始めている。


(どっちにしろ、目的や目標が見つかったってことは、良いことだ)。


 別々の学校に通うようになった、土井や高瀬とは疎遠になりがちだったが、今のところ悪い方向には向かっていないし…

 堅気カタギな仕事に就いたアケミとは、飽きることなく○○な日々を送っている。


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『午前0時のシンデレラ』 高山 志行 @sikot

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