第3話

***




 ルーカスがトイレより戻ってきた。


 残照が弱く、夜は目前だった。


 指に挟んだタバコの吸い殻を捨てて踏みにじると、ルーカスは言った。


「坊主……いや、フリッツか。今晩、どうするつもりだ」


 乾草をムシャムシャしていた馬は、すっかり満腹になったようで、おだやかに佇んでいる。


「もちろん、宿に泊まれればいいですけど、最悪、野宿でも」


「野宿? お前さん、本気で言ってるのか?」


「……。」


 何か軽率な物言いをしてしまったのか、ぼくはルーカスに睨み付けられ、悄然と口を噤んだ。きっと怒っているのではないだろう。ぼくの浅はかさに呆れているのかも知れない。


「夜は真っ暗になることは知っているだろうに。目が利かないんだから、身動きなど取れないぞ。よしんば野宿するにしても、夜警の巡回があって、必ず見つかる。そうなれば面倒だぞ」


 ぼくは何も言い返さなかった。そもそも言い返せなかったのだ。自分の思い付きが――たかが10歳に過ぎない少年の思い付きが、ぼくの何倍も甲を経ている先達の経験と知識に裏付けされた思慮に及ぶなどというのはありないのだ。


「……。」


 説教でも受けている気分だった。意識がぼんやりとし、眠たい感じがする。ぼくはじっと押し黙り、ルーカスの言うことに傾聴した。


「金だって、お前さん、ほとんど持っていないじゃないか。はした金でどうやって旅するというんだ。無茶だよ、まったく。最初にちゃんと確認しなかった俺も悪いが」


「ごめんなさい」


 ――思えば、ぼくはホワイトランドをルーカスに頼って発つ時、一体どうしたんだろう。あの時は無我夢中というべきか、意識が朦朧していたというべきか、何もかも失ったふるさとに、もう用はないと、確信し、諦観し、決別した。


 その時に偶然出会ったのが彼だったのだ。馬車に乗ってホワイトランドの一角を行く彼を目にし、その旅に随伴させて欲しいと懇願した。


 彼は当然、戸惑い、ぼくの事情を知りたがり、ぼくは返答したと思うが、どの程度まで詳細に答えられたのか、よく分からない。親も家も失った、そこで旅に出ようと思い立ったので、お供させて欲しい、と、そういう感じだろう。


 彼はでもやはり心配で疑わしいので、ぼくにあれこれと質問したに違いない。その中には、金はあるのかという質問も混じっていただろう。そしてぼくは闇雲に肯定してしまっていたのだ。ただ単に旅に出さえすればいいと思い込んでいたがために、ぼくは一心不乱で、盲目で、理性を失い、いわば一種のトランスだったのだ。


 ルーカスがやれやれという風に腕組みしている。


 ぼくは今、前と比べれば、落ち着いたと思う。あの時ほど惑乱してはいないし、狭かった視野は現況を俯瞰出来るほどには回復した。


「寒くなってきたな」


 ルーカスが言い、くしゃみする。


 春らしい日和で日中は暖かったが、日が沈むとまだ寒い。


「おれは明日ここを発つつもりだ」、と彼が言う。「この町で取引して金を稼ぎ、新しく品を仕入れることが出来れば、またホワイトランドへ戻る。なければまた他を訪ねるかも知れない」


 いずれにせよ、明日ルーカスはまた旅に出るということらしい。


別れの予感が冷たい風になってさっと心を走る。また一人ぼっちになるのだろうか。そういう漠然とした不安が頭をもたげる。


「フリッツ」、とルーカスは、暗鬱な想像に沈むぼくに呼びかける。「お前さんは、明日おれが出発するまでにどうするか決めなさい」


 どうするか……?


「この町でどうにかやっていくというのなら、おれはお前さんを信じる。この町にはおれの知り合いがいて、そいつに面倒を見てくれるよう、頼む。反対に、ふるさとへ戻るか、別の町へ移動するというのなら、おれがまた送ってやる」


 話し終えたのか、ルーカスはぼくの目の前にしゃがむと、ぼくの肩に手をポンと置いた。ごつごつした男らしい感触ではあったが、やさしい人情のこもった手付きだった。彼は信頼できる人だとぼくは思った。そしてぼくが目下信頼を寄せられるのは、彼しかいなかった。だから、彼が選択肢を寄越し、彼にまだ頼ることが出来るということが、胸苦しいほど嬉しかった。ぼくは彼との離別を覚悟していたのだ。ぼくのような身寄りのないすかんぴんに目をかけてくれる人など、この世にはいないと思っていたのだ。


 ありがとうございます、と、礼を述べるぼくは、いよいよ感極まって、涙が溢れた。込み上げてくるものが抑えられず、温かい涙が、目からどんどん零れ落ちた。


 今夜は宿に泊まることにした。夜ごはんは酒場で奢って貰い、その後宿に向かい、ベッドで寝た。ルーカスも一緒の部屋で、それぞれ別のベッドで寝たが、ぼくが寝付くよりずっと早くいびきをかいて、彼は酒場でずいぶん飲んでいた。


 彼の赤らんだ満足そうな寝顔を見て、ぼくは暖かい気持ちになった。


 幸せとはこういうものなのだろうか、と、不運と不幸の只中にいるぼくは、ふと、想像してみたりした。

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さまよえるフリッツ ゆう木 @utsuroiro

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