第2話

***




 馬車が止まったかと思うと、挨拶の声が聞こえてきた。


 ごきげんようと何とはなしによそよそしく言うのは、二人の男だった。


 片方は馭者の声だと分かるが、もう片方は分からない。


 気になって幌を少し開いて覗き込んでみると、窓のある石塔があり、物見台が備わっており、要するに、砦であり、町への人の出入りを管理する関所だった。


 関所には防具を纏って刃を上向きに槍を地面に突き立てている番人がおり、馭者が挨拶を交わしたのは、彼だったようだ。


 ぼくはふと番人と目が合いそうになり、慌てて幌を閉じた。特にやましいことはないが、関心を持たれると面倒になる気がした。馭者に迷惑をかけたくなかった。


「どちらよりおいでで?」


「ホワイトランドから。エトムント様の使いで」


「そうでしたか。ご苦労様です。では、通行税をお願いします」


「はいはい」


 気乗りしない風に返事すると、馭者はポケットを探って金銭を取り出し、必要となる分だけを勘定すると、手渡した。


 番人は受け取った金銭を勘定すると、「確かに」、と言って、腰より下げている袋に入れた。


「どうぞ、お通りください」


「ありがとう」


 通関の手続きが一通り済んでしまうと、砦のトンネルに下りている鉄格子が上がり、馬車がゆっくりと進んでいく。


 こうして、ぼくはふるさとの町を出て、初めてよその町へと来たことになる。


 ホワイトランド。ぼくのふるさとの名だ。ぼくが生まれ、過ごした町だ。お父さんとお母さんがいて……。


 今は、だが、もういないのだ。







「坊主」


 そう呼ばれ、ぼくは「はい」と返事する。


 馭者が、幌を手でめくりあげ、中にいるぼくを覗き込んでいる。生え際が後退して薄いが他はまだ残っている短い髪。鼻の下に蓄えたひげ。おじさんだった。


 タバコ臭いと思ったが、彼は一服しているようだ。片手の指にタバコを挟んでおり、先端からうっすらと紫煙が上がっている。


「着いたぞ」


 外へ出てみろと暗に言われた気がして、ぼくは馭者が上げてくれている幌の隙間をくぐるようにして、いよいよ馬車の荷台を出る。


 町の一角に馬車はあった。何の建物かは分からないが、その車止めの屋根の下に止まっている。


 茜色の夕空が、段々と薄暗くなっていく。夜が近い。


 何か独特のにおいがすると思ったが、旅路に疲れた馬が、桶に入った乾草を食べているにおいらしかった。


「まぁ、座れよ」


 前板にあぐらをかいている馭者が、彼の隣のスペースに目配せし、そう促す。ぼくは素直に従って腰を下ろす。


「そういえば、お前さん、名前は何て言うんだ?」


「フリッツ」


「そうか」


 馭者はぼくより目線を外し、物思うようにしょんぼりと俯く。その指に挟まれたタバコの先の灰が、段々長くなっていく。


「おじさんは?」


「おれは、ルーカスっていうんだ」


 彼はそう答えると、指でトントンと叩いて灰を落とした。


 しかし、ルーカスという彼の名前は、初めて聞いた気がする。彼の好意で馬車に乗せてもらったというのに、何だか変だ。最初に尋ねなかったのだろうか。


「なぁ、お前さん」


 馭者はもごもごと何だか言いにくそうだった。


 ぼくは怪訝に思い、首を傾げた。


「その、何と言えばいいのか分からないが」


 そこまで言い淀むと、ルーカスは、覚悟を決めたように、ぼくと再び目を合わせた。


「もう、大丈夫なのか?」


「大丈夫って?」


「だから、つまり、お前さんのことだよ。家を失くしたんだろう? まだたった10歳だろう?」


「……」


 肯定する代わりに、今度はぼくがしょんぼりと俯いて、宙ぶらりんの足を前後に揺らした。


「親戚とか、いないのか? 叔父とか、叔母とか」


「分かんない」


「そうか」、とルーカスは目を反省するように伏せる。「つまらないことを聞いて悪かった」


「でも、はっきりしてることはあるんだ」


「はっきりしてること?」


 きょとんとしてルーカスが、ぼくを見る。


「うん。とにかく、旅をすること。きっとぼくは、そういう定めのもとに生まれたんだと思う。一所に留まっていないで、この世の中を広く巡るんだ」


「そうするにしたって、お前さん、お金はあるのか? 先立つものは金だぜ」


「お金は……」


 ぼくは、肩にかけていた革のバッグを漁ると、財布を取り出して、彼に見せた。


 彼は、関所を通る時のようにぼくの財布にあるだけのお金を勘定した。


 その後、何ともいえない渋面を浮かべたルーカスは、いったい何を思ったのだろうか。


 子供のぼくには、知る由もないのだった。




 得意先に荷下ろしして、新たに売買出来るものがあれば買ってホワイトランドへと持ち帰る予定だとルーカスは言い、トイレのために馬車を離れた。


 一人になったぼくに構う素振りもなく、馬は乾草をムシャムシャとんでいる。


 気が付けば、もう日暮れが近い。辺りは薄暗くなっている。


 今夜は、どうすればいいのだろう。心当てに出来るものはなかった。


 さっきのルーカスの顔を思い出す。ぼくの財布を見た時のあの渋い顔だ。思うに、ぼくはやはり、すかんぴんなのだろう。だが、ぼくの持ち金はこの財布に入っているものが全てだ。すかんぴんであり、流れ者のホームレスなのだった。


 目の前に暗闇が広がる。夜のではない。暗澹として混濁し、ぼくを飲み込もうとする困苦の暗闇だ。ぼくを飲み込んで、迷わせる。その中では、何も見えないし、何も聞こえない。ただ途方に暮れ、激しい悲哀と無力感に苛まれるばかりだ。


 一日を無事に乗り越えることさえ、ぼくにしてみれば困難を伴うことだった。


 お金がない。だけど、必要だ。絶対に必要だ。


 では、働くか? だけど、ぼくは何も出来ない。誰かと商談することも出来なければ、何か人の役に立つものを作る技術もない。労働するということを真剣に考えるには、ぼくは余りにも世間知らずで、幼かった。


 今夜のご飯に、お風呂、そして寝床。そういった生活を構成する要素をどうやって確保するべきか。


 ルーカスはトイレに行った。じき帰ってくると思う。あるいは、ぼくは置き去りにされたのだろうか。


 馬は、おいしそうともまずそうとも言えない無表情で、乾草を延々、咀嚼している。


 ぼくは何となく、人間であることが、悔やまれてくるという気がして、悲しかった。




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