さまよえるフリッツ

ゆう木

第1話

***




有為転変。


あらゆるものは存在すれど、常にはあらず、いずれ変わるなり、失われるなりする。


峻厳に続く世のことわりである。


一度変わってしまったものは、元に戻らないし、失われたものは、かえってこない。


あるいは、その悲哀が、ひとの生を形作っていくのかも知れない。







 その中は、あまり快いところではなかった。


 しかし、あまりの疲れと、所在のなさに由来するぼくの眠りを妨げるほどには、不快ではなかった。


 とはいえ、熟睡するにはいくぶん困難で、でこぼこの砂利道を転がる車輪が、しばしば大きめの石を踏むのだが、その時などは、ひどい突き上げ感があり、びっくりして束の間起きてしまうのだった。


 眠りの浅いおぼろげの意識で、ぼくは考えるでもなく、自分がこれからどういう風に行く・・のか――もっとはっきり言うなら、どういう風に生きていくのか――という難題に、及び腰で、ほとんど避けたいと思うという消極的姿勢で、取り組むのだった。


 ガツン。


 また車輪が大きめの石を踏む。


 突き上げられる感じ。ぼくは少しびっくりし、体が一瞬だけ跳ねるように上がり、また落ち着く。


 動物の気配がする。ぼくは分かっている。馬だった。そしてぼくの乗っているのは、馬車の、幌に覆われたその荷台なのだった。


 馬蹄が砂利道を踏んでいく音。馬が装着した輓具ハーネスの金属が互いに当たる音。たまに、馬の鼻を鳴らす音――お腹でも空いたのだろうか?


 今はどれくらいなんだろう。もう日暮れなのだろうか。まだ明るいのだろうか。荷物を積載したほこりっぽい荷台の中では、日の傾きははっきりとしないのだった。




 また、今ぼくはどこにいるんだろうということも、同じだった。ぼくは、ふるさとを、ある事情により、逐われたのだった。


 ぼくの乗る馬車は荷馬車であり、もちろん馭者がいて、馬を手懐けている。彼との偶然の出会いと彼の好意があって、ぼくは、いわば彼の馬車に相乗りさせてもらっているのだった。


 今の自分を巡る渋面を催させる諸事と、少し前に自分が見舞われ、そのせいでふるさとを出ていかざるを得なくなった災禍とを思うと、自然とぼくの眠りは安らかさを失い、ほの暗い車内へと目が開かれるのだった。


「……。」


 本当に困窮した時というのは、ため息は出ないものだ。また、考えることが山とあるのに――あるいは、山とあるからか――頭脳が硬直したように働かず、ただいたずらに茫然として、あられもない夢想に耽り、時間を空費してしまうのだった。


 馭者は見知らぬ男であり、あるいはぼくは、今拉致され、どこか蛮人の住むアジトへと連行される途中なのではないか、身を二束三文で売られ、人権を剥奪され、ひどい労働に従事させられることになるのではないか、などという疑懼があってもおかしくはないのだが、いかんせん頭が回らないので、ただ受動的に、物事が勝手に運ぶのに、力なく身を委ねるしかないのだった。


 まだ10歳でしかないぼくは、無力だった。無知だったし、無明だったし、悪い意味で無我だった。何も分からず、考える頭を持ちもせず、どうしようもなかった。


 だけど、今のままではダメだということははっきりと分かっていた。後退し、逃げ込める家もなければ、留まることの出来る仮寓もないぼくは、とにかく前へ進まないといけなかった。まったく展望のない先へ、切り抜けていかないといけないのだった。


 あるいは野垂れ死にするなりしてもおかしくなかったぼくの幼い命は、何かよく分からない、けれど確実に切実である衝動に駆り立てられて、無残に夭逝するという運命を拒み、不運で過酷ではあるけれど、れっきとした生存への希望、もしくは執念を、死守しようとしていた。




 馭者がもうじき馬車が町へ到着するだろうと予告する。淡々としたアナウンスだった。


 その声に、一抹の解放感を覚えたことをぼくは否定しない。狭苦しい荷馬車の荷台は、でこぼこ道の不快感も相まって、長居したいと思える環境では到底なかった。出来るだけ早く降りて、安気になれる居所を求めたかった。


 だが、一方で、不安感があったことも否定しない。馬車を降りるということは、ぼくの導き手、運び手が不在になってしまうということだった。かりそめではあれ、馬車の馬と馭者はぼくの先導者であり、ぼくは――ただの童子でしかないぼくは、ただ身を預けていればよかった。守られ、約束されたそういうやさしい状況から、自主自律を必要とする厳しい独自の道へ移るというのはに苦しいことだ。


 拉致されているのかも知れないという想像は妄想のようだ。幌を片手で少し開け、覗き込んで見ると、遠くに家並が見えた。空はほんのり茜色で、夕方のようだ。馭者の背中、馬のたてがみなど、見えるものを一通り見ると、幌を閉じ、服の胸部を握る。胸苦しい思いにドキドキと鼓動がする。


 この先に、何があるというのだろう。ぼくは一体、何に、誰に、招かれて旅をしているのだろう。幸せが待っているというのなら、悦ばしい思いで赴くだろう。不幸が待っているというのなら、身構えるだろう。だが、何が待っているのか、何が起こるのか、まるで分からないのだ。分かろうと欲するのは、不安からに違いない。ぼくはみずからが置かれた苦境に頭を抱えている。ぼくの生活は何の保障もない。身寄りがなく、すかんぴんで、何より右も左もわきまえられない一介の少年に過ぎなかった。


 胸の奥が今もなお、鼓動を打ち続ける。ドキドキ、ドキドキと。この鼓動は確かだった。生きているのだった。死を予感する鼓動では決してなかった。力強く、粘り強く、生への意志に満ちて、だけど、たかだか10歳の鼓動に過ぎず、不安で、頼りなく、だけど、健気に未来を志向しているのだった。


 ぼくはこれから、きっとたくさんの出来事を経験し、人々と出会い、知り合うだろう。この世に渦巻く混沌へと身を投じ、もみくちゃにされ、運命の激流に飲み込まれていく。


 だけど、生きていく。そして死ぬ。自殺にしろ、病死にしろ、死ぬ。その生の一連のプロセスを――みずからに与えられたプロセスを、しっかりと最後まで生き抜こうと思う。授けられた役割を担い、全うする。そうすれば最後には、安らかに永眠できる揺りかごが待っていると、ぼくはそう、強く信じている。




……。

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