この人を、だまそう。

司弐紘

この人を、だまそう。

 蛍光色の藻で水面が埋め尽くされたため池。そこに浮かぶ裸のセルロイド人形。それが15のわたし。そして15のわたしは世界をなくした。


 16のわたしは新しい世界を与えられた。その世界は作り物の風景でできていた。赤外線写真で撮られたように現実感がない世界。

 わたしは、そんな風景が展示された写真展に通っていた。


 そして17のわたし。

 

 この人を、だまそう――そう決めた。


                  ◇


 はじまりはあの人。

 駅のホームでのいきなりの告白。


 周囲の視線がポップコーンのように弾ける中で突然に。


 わたしは生まれ育った町を離れ、この街の女子校に通っていたから、通学途中のホームぐらいしか機会が無かったのだろう。


 あの人は、虫かごの中の蝉みたいに必死に汗をかいていた。

 そんな様子を見て、私は笑っていたらしい。それはきっと道化師ピエロのような、自虐の笑み。


 そして私は、四角く切り揃えられた羊羹みたいに完璧な八つ当たりだとわかっていても、こう思ったのだ。


 ――この人を、だまそう。


 こうして、わたしたちの「お付き合い」は始まった。


 恋というものを俯瞰してみると、それは弾み車のようなもの。

 はじめは熱いものに触れたときのように、考えなくても勝手に身体が動く。


 あの人はメガネを曇らせて、わたしのわがままに嬉しそうに応じていた。

 苦いコーヒーを飲み干すことで、成長の達成感を味わうように。


 けれど。わたしは知っていた。この恋はすぐに終わるということを。

 この恋には終わりがある。いつまでも映画館のシートには座っていられない。


 そしてわたしは、あの人が映画に夢中になるように自分を演出する。


 どうすれば、あの人が夢中になるのかわたしは知っていたから。

 映画をリメイクするように、わたしが観た映画の役どころを変えて。


 だからわたしは、あの人が夢中になるように振る舞うことが出来た。

 心にコンシーラー塗って、ひび割れをふさいでゆけば、見えるものがある。


 夢中になれる夢とは、悪夢であるということに。


 わたしは悪夢のように甘くあの人に接した。

 華奢で何も無くなってしまったわたしの身体をごまかすように、シャワーを浴びれば溶けるような服を着て。


 そして、そんな服が溶けてしまったときが、この恋の終わり。

 わたしは使い古しのショーツだって、気付かれてしまうから。


 わたしの身体は固まりが出来たビーズクッション。

 タッチパネルが壊れたタブレット。


 どうしたって気付く。気付くはずなのに、この人は――


 この人は気付かなかった。赤信号が青に変わるように、何の躊躇いもなくわたしに許可を出し続けた。

 わたしがクジャクのように恋を唄っても。おじぎそうのように不機嫌になっても。


 この人は、決してわたしから離れようとはしなかった。

 ただ、笑うのだ。わたしの全てを飲み込む沼のように。


 必死にもがくわたしのビーズクッションを解きほぐして。

 壊れたタブレットを修理して。


 外れてしまった自転車のチェーンが、強くペダルを回せば、あるべき場所に戻っていくかのように。


 それでも、わたしはだまし続ける。

 この人とは最初から、そうだったのだから。


 この人の側にいるために。わたしはこの人をだまし続けるしかない。

 いつしか、何が本物かわからなくなる赤外線写真に映された被写体のようになってしまっても。


 だからこそ、わたしの世界は始まった。

 その世界を、この人の汗と指先が固めてゆく。


 そして、24のわたしは、指切りのように絡められた薬指をみる。

 変わらず、現実感のない白いドレスを着て。


 この人を見上げながら、わたしは改めて決めた。


 ――この人を、だまそう。


 だまし続けよう。

 そう……幾久しく。

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この人を、だまそう。 司弐紘 @gnoinori

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