二章:六、宵の戯言
夜の都は更に絢爛になった。
青楼や酒房の前で停まる馬車の灯も混じり、空の星よりも明るい。
大通りを土煙と妓女と酔客が隙間なく埋め尽くす。都は建物ではなく人間が形作っているのだと思った。
客引きの男に聞いた贋作絵師の根城を探していると、
「
「宴の場っていうより飲み食いと寝泊まりの場ですね。下宿に近いです。元は地方商人が仲買に使った倉庫で、今でも行商がよく使いますよ」
「方士にしては世俗に詳しいな」
今日は煬烏の言葉にキレがない。
「どうかしたんですか?」
「扇を忘れてきたのだ」
煬烏は神妙に俯いた。俺は大して気にしてない振りをする。
「高級な扇なんか持ってたら怪しまれるからちょうどいいですよ」
煬烏の唇から狼のような牙が覗いた。
少し歩くと、桃源客桟の看板が目に入った。
石造の壁に桃花を模した赤提灯が揺れている。
煬烏の覇気のなさは気掛かりだが、気にしていられる状況でもない。
戸を押して入ると、喧騒で全てがぶっ飛んだ。
「そっちの箱は俺の荷物じゃない! あっちの……馬鹿、だからって手放すな!」
奥の階段から降ってきた木箱が俺の横を掠めて壁にめり込む。あと三歩右にずれていたら壁にめり込んでいたのは俺だ。
「おい、俺の荷物は無事だろうな!」
「だから、そっちの箱が私の物だ! ちゃんと署名があるだろう!」
言い争う商人を押し退けて、酒瓶を提げた女将が降りてくる。
「どっちだっていいよ、同じ日にふたりも塩商人が来るなんて部屋が満杯だ!」
女将は棒立ちの俺たちを見て、猛将のように声を張り上げた。
「突っ立ってないで手を貸しておあげよ、商人のよしみじゃないか!」
「俺が?」
口を開けた俺の肩を煬烏が叩いた。
「手を貸してやれ。商人どうし困ったときはお互い様だろう」
くそったれ。俺はやけくそで袖を捲り上げる。
「クソ旦那のお達しだ。手伝ってやるよ。どの箱をどこに運ぶって?」
商人が同時に言った。
「ありがたい。その箱だ」
「だから、そっちは俺のだって言ってるだろ!」
「同時に喋んな!」
木箱を引きずり上げながら見ると、煬烏は扇のことも忘れて笑っている。しょぼくれていられるよりマシだ。
埃まみれで戻ると、女将がまた鋭く言った。
「あんたら、飯かい、酒かい? 顔色が悪いね、飯にしときな!」
女将は嵐のように去っていった。
客桟の一階は食堂に、二階は宿坊になっている。食堂はほぼ満席で、異国の言葉や既に呂律の回らない怒声が飛び交っていた。
空いているところを見つけて座ると、さっきの塩商人に取り囲まれた。
「先程は助かった。一杯奢ろう。そちらの旦那にも」
「俺の荷物とあんたの荷物は混じってないだろうな!」
煬烏は衣の袖で口元を抑えて言った。
「礼なら人探しを手伝ってくれまいか。
勢いに流されてすっかり本題を忘れていた。煬烏はそれを見透かしたように俺の脇腹を小突く。
片方の商人が辺りを見回した。
「先生ならあそこにいるが絵を頼むのは無理だぜ」
「何故?」
「箸も握れないからな」
商人が指した方を見ると、机に油ぎった髪を広げて倒れた男がいた。
まさかもう天罰が起こったのか。
俺が息を呑むと、真っ赤な顔で男が身を起こした。
「俺は宮廷にも出入りしてた画家なんだぞ! それが何だ馬鹿野郎。ちょっと酒を拝借したくらいでえ!」
夏赦らしき男がまた机に倒れ込む。
「酔い潰れてるだけかよ!」
「話を聞くのは無理であろうな」
煬烏は肩を竦めた。これじゃ無駄足だ。せめて奴が殺されないように見張るしかない。
俺たちが夏赦に注視しつつ、商人の奢りの酒を飲んでいると、女将が大皿の魚を運んできた。
香辛料や葱を一緒くたに乗せて赤い垂れで味をつけた庶民の料理だった。魚はいかつい顔で白目を剥いていて空恐ろしい。
宮廷料理しか口にしたことがないであろう煬烏は箸を片手に戸惑っていた。
「旦那、食わないのかい?」
商人は豚の炙り焼きを串から食いちぎっている。
煬烏は俺に囁いた。
「これは誠にひとが食せるものなのか?」
腐っても皇子だ、仕方ない。俺は皿を引き寄せる。
「毒見しますよ。俺が食って平気なら……」
魚を解して口に含んだ瞬間噎せ返った。馬鹿みたいに辛い。他の奴らは平気で食べている。どういう喉と胃をしてるんだ。
酒で流し込もうとしてまた噎せると、煬烏が口を開けて笑う。奴は商人たちの視線に気づいて口元を隠した。
片方の男が俺に不思議そうな目を向ける。俺は小声で言った。
「歯並びを気にしてる」
もう片方の男が止める間も無く煬烏に歩み寄った。
「気にするなよ。ほら、俺なんか上下で四本しかない!」
男が指で自分の口を押し開けると、汚れた歯が上下二本ずつ赤ん坊のようにくっついていた。煬烏は目を丸くし、馬鹿みたいに笑った。
夜が深まり、客桟は更に賑わった。
辛い料理を酒で流し込んだせいで胃が重い。
嫌な嗚咽が聞こえ、青白い顔をした夏赦が女将に怒鳴られながら二階へ上がっていくのが見えた。
「俺たちも上がりますか。監視しないと」
煬烏は頷いて席を立つ。
俺たちは女将に金を払って二階に向かった。
酔客の調子外れな歌声が追いかけてくる。
酒に對して當に歌うべし、人生幾何ぞ。ここにぴったりな詩だ。
幸い夏赦の隣の部屋がとれた。
えずく声が止んだと思ったら高いびきが聞こえる。
俺は赤い暖簾で区切られた部屋に入った。簡素な寝台が二つ並ぶだけの粗末な部屋だ。
奥の寝台に座った煬烏は窓の外を眺めていた。
「何かありましたか?」
「……中庭が見えるのだな」
歩み寄ると、四角く区切られた中庭が確かに見えた。松の木を植えた庭は赤提灯と酔客の立てる熱気がぼんやりと燈を濁らせていた。
煬烏の横顔は感傷に浸るようだった。俺が何と言おうか迷っている間に、奴は寝台の横の燭台を取り、息で火を吹き消した。
暗い部屋で硬い寝台に横たわると、下からまた歌声が聞こえた。
幽思忘れ難し。何を以てか憂ひを解かむ。惟だ杜康有るのみ。
枕で耳を塞いで寝ようとしたとき、煬烏の声が聞こえた。
「雲嵐」
「寝られませんか?」
「いや……」
暗闇で奴の姿はろくに見えなかった。
「お前は全て片付いた後どうするつもりだ」
「……殿下次第ですよ。方術のない俺を雇う意味があるかどうかです」
「そうか」
煬烏はしばらく黙ってから言った。
「お前は方術がないことをどう思っている」
「そりゃ無能よりはあった方がいいですよ。でも、なくてよかった気もします」
俺は天井を仰いだ。下から皿の割れる音と怒声が聞こえる。
「俺のお袋は方術のせいで死んだんです」
俺は言う気のなかったことを口走った。
「俺のお袋は動物の声が聞こえる方術を持っていました。宮廷では重宝がられてたそうです。あるとき、俺が森で道に迷って、お袋が探しに来てくれました。鳥の声を聞きながら探して、俺を見つけた途端、崖から足を滑らせて死んだ。誰が見てもわかる崖で」
俺は沈黙を消すように、音を立てて体勢を変える。
「方術に頼りすぎるな。お袋が最後に俺に教えたことです」
嘲りのひとつでも返るかと思ったが、煬烏は静かに言った。
「大切なことを教わったな」
奴が俺に背を向けたのがわかった。
浅い眠りから目覚めると、煬烏がいなかった。
辺りはまだ暗い。
俺は飛び起きて部屋を出た。
部屋をひとつずつ見て回ったが、酔い潰れた商人たちが寝ているだけだ。俺は階段を降りる。一階の食堂も無人だ。
予言は煬烏に関して触れていなかったが、災いの真っ只中だ。何かあるかわからない。
中庭に人影があった。
「殿下!」
月明かりしかない真っ暗な庭で、煬烏は籐の椅子に腰掛けていた。
「探しましたよ!」
「探したのか」
煬烏は俺を見て驚いた顔をした。当たり前だろと怒鳴りつけたかったが、寝静まる客たちを思い出してやめた。
煬烏は夜闇より暗い髪を払って笑った。
「宮殿では私が何処へ行こうと誰も気にせんのでな」
そう言われると何も言えない。俺は溜息をついた。
「何してたんですか」
「都が見えるかと思ったがここからでは見えなんだ。この庭の提灯が燈籠のようで、祭りを思い出した」
煬烏は針のような松木を見上げて遠い目をする。
「昔、祭りの日に母が私を都に連れ出したのだ。許されぬこと故後で折檻を食らったようだが。あの夜もはぐれた私を母が探しに来た」
俺は黙って聞いていた。雲から月光が差し、藍色に染まった中庭は何処からも隔絶された別世界のようだった。
「戻るか」
「はい」
煬烏が椅子を引く音がやけに響いた。
真っ暗な階段を上がり、部屋に戻る。寝台に横たわると、隣の煬烏が言った。
「雲嵐、お前の母君の話を誰かにしたことは?」
「……ありません」
「なら、私も話そうか。誰にも言うなよ」
衣擦れの音が響いた。
「我が母も方士だったのだ。方士が天子と情を交わすは禁忌。それ故排斥された。私に方術は受け継がれなかったがな」
俺が呆気に取られている間に、煬烏は背を向けて眠り出した。
翌朝、夏赦が死体で見つかった。
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