一章:七、刺客と方士

 警邏の兵士と当直の官吏以外は寝静まる夜だ。


 昼間は鮮やかだった芍薬の小道も今は闇一色に染まっている。



 俺は茂みに隠れながら溜息を吐いた。

 傍の煬烏よううが牙を剥いて笑う。その更に隣には燕雙えんそうがいた。


「あんたよく兄弟を餌にできるな!」

「本人は快諾したぞ? これが最善だ。下手人は三兄を狙ったのだから」


「何で燕雙殿下を……」

「女官や高官を相手する妓女と遊ぶと、知らなくていいことも聞くからさ。死んでほしがる奴はいるだろうね」

 燕雙の瞳が月光を薄く反射した。


「あの夜、ここで月娘と会うはずだったんだ。急に宴が入って伝える間もなかった。たぶん、犯人は待ちぼうけしてる彼女を俺だと思っただろう。男物の服だったから」

 その横顔に憂いが見えて、俺は口を噤んだ。


「犯人は焦っていることだろう。同じ状況を作れば釣れる。昼のうちに三兄は懲りずにまた今夜女官と逢引すると触れ回っておいたからな」

 煬烏が指を鳴らすと、髪に簪を挿し朱の薄衣を纏った女官が現れた。


「女官まで巻き込む気ですか」

「まさか」

 紅を引いた女官の顔には覚えがあった。


小窩しょうか!?」

「小窩です」

 彼は慇懃に一礼する。燕雙が眉を下げた。

「やめろと言ったんだけどね」

「下手人を捕らえるためなら私の命など安いものです」

「雲嵐はどう足掻いても女人には見えぬからなあ」

 俺が謝る必要はないと思って黙っていた。



 燕雙と小窩は茂みを抜け、花垣に沿って歩き出した。 


「本当に釣れますかね」

「釣れねば困る。犯人の当たりはついたが物証がない故、現場を抑えたい」

「殿下なら拷問で吐かせるかと思いましたよ」

「良い案を聞いた」

 煬烏は暗がりだと口元を隠さずに笑う。


 俺の肋に硬いものが当たった。煬烏が鞘に収めた柳葉刀を押し付けていた。

「剣術なんてできませんよ」

「万一のためだ」

 俺は仕方なく受け取った。


 ふたりは花垣を右往左往している。

 燕雙が一方的に喋り、小窩は声でバレないよう頷くだけだ。これほど不毛な逢引もない。帰って眠つまた方がマシだ。


 燕雙がこっちを向いて囁いた。

「話の種が尽きそうだ」

「もっと頑張れよ、遊び人!」

 俺は声を押し殺して叫んだとき、茂みの奥で何かが閃いた。



 頭上を風が掠め、背後の木が震撼した。

 口に入った土を吐き出して顔を上げると、木の幹には矢が突き刺さっていた。


「燕雙殿下、小窩!」

 俺は刀を握って、花垣を飛び越えた。


「失礼!」

 鞘を被せたまま横薙ぎに振った刀がふたりを吹っ飛ばす。

 小窩が燕雙を庇いながら地面に突っ伏した瞬間、芍薬の花が弾けた。


 舞い散る花弁の先、花垣に楕円の穴がある。矢が駆けた後だ。

「向こうだ!」

 燕雙が身を起こすより早く、小窩は薄衣を脱ぎ捨てて立ち上がった。


 茂みがざわつく。逃げようってか。俺は再び駆け出した。


 小窩は俺の後ろにぴったりついて来る。全くの無表情で抜いた簪を握っていた。案外怖い奴だ。

「あちらです」

 小窩が指した方の茂みが僅かに揺れた。俺は足を早める。

「逃すかよ!」


 鞘を外そうとしたが枝葉に引っかかって外れない。足音が遠ざかる。

「くそ、殴った方が早え!」


 俺は刀を投げ捨て、跳躍の勢いで花垣を蹴破った。

 闇に同化する黒い覆面の男が振り返った。男は驚きつつ弓を構える。


 俺は弓を持つ男の右腕を掴んだ。思いきり引き、差し出された顎に肘を打ち込む。くぐもった呻きが漏れた。


 背後の小窩が簪を振り上げた。男は身を捩って俺の腕を払う。簪の先端が宙を切った。



 男が茂みに飛び込んで逃げる。

「くそっ」

 追おうとした俺と小窩は同時に襟を引かれてひっくり返った。


「もうひとりいる!」

 俺たちを引き倒した燕雙が鋭く叫んだ。

 弓を引き絞る音。これじゃ狙い撃ちだ。


 風を切る音が響き、俺は思わず目を閉じる。

 弓矢より重厚な金属の音が聞こえた。


「私が使った方が早かったな」

 目を開けると、抜き身の刀に血を浴びた煬烏がいた。

「殿下……」

「方力より暴力、か」

 煬烏は俺を見下ろして口角を上げた。

「一太刀浴びせたが逃げられた。血の跡を辿るぞ」  



 俺と煬烏は小道を駆け抜ける。遅れて燕雙と小窩がついて来たようだ。

 芍薬が嵐のようにさざめき、俺は小道を突破した。


 篝火の明かりで橙に染まった宮殿が聳えている。黒衣の男の姿はない。煬烏が瞳を鋭くした。

「逃げおったか」

 血の跡は壁の前で途絶えていた。

「どこに消えやがった……」


 俺が辺りを見回したとき、燕雙が掠れた声で言った。

大兄兄ちゃん……」

「誰だって?」

 振り返ると、燕雙が真っ青な顔で立っている。その脇腹は赤黒い染まっていた。

 燕雙は糸が切れた人形のように倒れた。


小燕しょうえん!」

 小窩が駆け寄って抱き起こす。毒矢に当たってたんだ。

「刀を!」

 小窩は煬烏から刀を引ったくり、燕雙の脇腹を躊躇いなく抉った。赤い染みが広がり、燕雙が血を吐く。ぐじゅりと音を立てて、鏃の欠片が転げ落ちた。

 毒が回らなくてもその傷じゃ死にかねない。


 小窩は燕雙の手を握って目を閉じた。

「おい……」

 俺が何か言う前に、燕雙の抉れた脇腹が湯のように泡立つ。肉の泡が皮膚となって傷を覆い、何事もなかったように傷が消えた。

 煬烏は目を見開く。



 揺れる松明の明かりとともに忙しない足音が聞こえた。

 煬烏は駆けつけた衛兵を一瞥する。

「一衛は下手人を走査せよ。後の者は侍医を呼べ。三兄が毒矢で射られた」


 兵士たちは驚愕の顔で四方に散らばる。煬烏は倒れた燕雙を見つめていた。

 小窩は荒い息を吐いていた。水をかぶったような汗が口紅を落として顎から滴る。


 さっきのは方術だ。

 小窩、こいつも方士だったのか。



 夜が明け、空の端が文官の補服と同じ浅葱色に染まった。

 一睡もしていない頭は鉛のように重く、痛む身体に熱だけが溜まっていた。


 燕雙はまだ目覚めないらしい。

 彼の部屋まで行くと、白髪の侍医が鉗子と血濡れの包帯を桶に入れて現れた。

「咄嗟の処置がよかったのですね。毒も殆ど回らず、傷も浅く済んでいます。医術の心得がある者が?」

 俺は首を横に振った。


 部屋を後にすると、小窩が壁にもたれてへたり込んでいた。

 顔や衣は泥と口紅と血で汚れ、一目で憔悴していると分かった。



 俺が隣に座ると、小窩は視線だけを動かした。

「毒も傷も心配ないらしい。処置がよかったってさ」

 俺は一拍置いて切り出した。


「殿下の傷を治したの、方術だよな」

 小窩が小さく息を呑み、目を伏せた。

「……大昔に断絶した方士の末裔というだけです。何の因果か、私は方術が備わっていました。はん方士と比べるのも烏滸がましい、傷を癒すだけの拙いものですが」

「充分役に立った」

 小窩は力なく頷いた。


「殿下とは本当に兄弟みたいなもんなんだな。子どもの頃は愛称で呼び合ってたんだろう」

「私の方がひとつ年上で、よく『大兄』と呼びながらついてきました。身分を考えてくださいと突き放しても、次の日には来るんです。この方術も昔一度だけ殿下の傷に使いました。今日が二度目です」


 小窩は少しだけ笑い、すぐ表情を打ち消した。

「刺客は……」

「今煬烏殿下が調べさせてる。すぐ見つかる」

「昨夜の者が捕まったとして、それで終わりますか。宮廷に殿下を恨む者はもういないと言い切れますか」


 俺は小窩の瞳が空洞のように虚なことに気づいて口籠った。

 答える前に、小窩は一礼して立ち去った。



 昼になると、東の空が薄灰色に曇った。

 煬烏は雨の降りそうな窓外を眺める。


雲嵐うんらん、昨夜は杜撰ではあったが、全くの役立ずではなかった」

「光栄です」

 皮肉は意に介さないのが一番だ。


 煬烏は何度も扇を顎の下にやって、宮殿の外朝を眺めた。

「何かありましたか」

「下手人どもは躍起になっているだろう。宮廷に上がれば昨夜の傷ですぐ身元が割れるが、衛兵が門を閉じている故逃げられん」

「犯人は官吏だと確信しているんですか」

「まあ見ておけ。今日の朝、現れない官吏がいれば伝えるように命じてある」



 扉が二度叩かれ、侍従が駆けつけた。

「殿下、申し上げます!」

 片膝をつく侍従を見て、煬烏が目を細めた。

「何用か」

「先程、武官・王景おうけいと宦官の学士・童貫どうかんが……」

 来たか。腰を浮かせた俺に想像しなかった言葉が響いた。


「焼死体で見つかりました!」

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