一章:八、雨と煙
殿の前は武装した衛兵が並び、彼らの槍や朴刀が檻のように連なっていた。
「開けよ」
床上の木炭のような死体に、血か埋み火かわからない赤が燻っていた。
焦げた脂の匂いが鼻から喉に流れてえずきそうになる。
ふたつの焼死体の片方には大量の紙束が、もう片方には折れた弓と何本もの矢が投げつけたように乗っかっていた。
何より異常なのは、宦官の衣の死体は両腕が、武官の衣の方には両脚がなかった。
「どうなってんだ……」
こいつらが女官殺しと
煬烏が扇を広げて煙を払った。
「見よ」
俺は視線を上げる。死体がもたれかかる屏風に、炭で書いたと思しき二文字があった。
「禍斗……」
本当に呪いなら、俺には太刀打ちできない。
狻猊殿を出ると、針のような雨が降り出した。
侍従が傘を広げて、煬烏と俺を廊下まで導く。頭が痛くてひどくだるかった。
煬烏は扇を広げ、暗雲を見上げた。
「宦官に調べさせたところ、王景と道貫は巷の人買いと組んで端金を稼いでいたらしい。王景に見受けの話を反故にされた妓女が、それを三兄に告げ口したと裏が取れた。動機になると思ったのだがな」
「ふたりは死にましたよ」
煬烏は肩を竦めた。
「だが、二者を殺した者はいる。見つけるのはお前の仕事だ」
「俺には、無理です……」
堪えていた泣き言が漏れる。煬烏が睥睨するように俺を見た。俺の中で何かが弾けた。
「何故俺なんです? 有能な方士なら山ほどいる。事情を説明すれば喜んで協力しただろう。無能の方士は薪にすらならない!」
詰め寄った俺に煬烏が向けた目は軽蔑ではなかった。この男にあるとは思えない、同情に似た何かだった。
「お前を選んだのは、私と同じだからだ」
「何処が……」
「持たざる者は持てる者に並ぶところから始まる。頭を回し、手足を使い、皆が並ぶ台にしがみつかなくては同じ景色を見ることもない。私はそうしてきた。お前であれば私と同じ目でこの宮廷を見られると思ったからだ」
煬烏は扇を下ろして言った。
「
皇子とは思えない鋭い歯が覗いた。細い雨が軒を打ち、涙のように滴る。
諦めていい段階はとうに過ぎた。無能は足掻くしかない。
俺が顔を上げると、煬烏は静かに微笑した。
「……最初に女官を殺したのはあのふたりだ。ふたりを殺したのは別の奴。合っていますか」
「恐らくな」
「女官の死体を焼いたのは
「死体の身元を示すためではないな。態々書と武器を置いた」
「じゃあ、何故人相がわからなくなるまで焼いたんだ……」
「あれらの特徴は焼かれていることだけか?」
煬烏が今度こそ俺を睥睨した。やっぱりくそ野郎だ。
「手足がなかった」
「左様」
俺は痛む頭を回す。
女官の腹を抉ったのは死因と凶器をわからなくするためだ。じゃあ、手足は?
呪いだと思わせるため、悲惨な死体を作った?
それはない。
禍斗の文字を記すということは、呪いが炎に纏わると知っているはずだ。
焼死の方に意味がある。死体の身元を隠す必要がないなら何故焼いた。
「もうひとつ……か?」
煬烏が片眉を上げた。
「焦げていれば誰が殺されたかわからない。奪った手足を使って偽装すればもうひとつ焼死体を作れる。それが狙いじゃ……」
「浅い」
扇の先が俺の肘を抉った。久しぶりの痛みだ。
「手足だけでは死人に見えん。それに、二者から奪ったものだとすぐわかる。死体に手足がなかったことは周知だ。第一、誰が得をする?」
「犯人は焼身自殺したことにして逃げるつもりとか……」
「厳戒態勢の中、何処に逃げると?」
頭を抱える俺を余所に、煬烏は廊下の朱塗りの柵に手をやった。
「方士の呪いなら、事件には方術が使われているであろうな」
「登緋が犯人な訳は……」
方士はまだ他にいる。俺は頭から手を離した。
「殿下、貴方の権力を借りたい」
「瑣末な第五皇子でよければ」
煬烏は眉を下げた。白々しい。
「記録を見たい。歴代宮廷に仕えた方士の記録を」
書庫を守る衛兵は煬烏を見るなり扉を開けた。
入った途端、墨の香りと膨大な書の背表紙が押し寄せる。
「昔はよく訪れたものだ。書しか友がおらぬ故」
「今は他にいらっしゃるんですか」
扇が飛ぶと思ったが、煬烏は眦を歪めて俺を指した。攻撃の方がまだマシだ。
煬烏は書棚の間を進み、最奥で足を止める。
「ここに」
気が遠くなる量だ。俺は意を決して一冊を手に取った。
方士が持つ方術は一文字で表される。
水なら治、火なら斗。天劫の儀で示されるものだ。
探すのは傷や病に関わる「医」の文字だ。
「あった……」
医の方士が仕えた記録が幾つかある。最も多いのは
安の一族は病で片目を失った皇妃や、戦で腹を射抜かれた皇子を立ち所に直したという。
だが、二百年前を境に安姓の方士の記録はなくなる。家が断絶したのだろう。
「殿下、安という姓の人間が宮廷にいますよね」
煬烏は頷き、その名を答えた。
思った通りだ。
書庫を出たときは既に夕刻に差し掛かっていた。
燃えるような空の色はなく、薄ぼやけた雨雲が広がるだけだ。
「後は死体を焼いた場所と、犯人が逃げる経路だな……」
煬烏が言った。
「逃げたと言えば、昨夜の刺客は何処へ逃げたのだろうな」
奴らは壁の向こうに消えたようだった。恐らく、死体を焼くのに使った秘密の場所があるはずだ。
俺は激しくなった雨を睨む。
遠くで女の声が聞こえた。
「早く傘をお持ちなさい。気が利かない子だね」
女官長に小突かれた少女が、傘を広げながらこちらに向かってくる。
「殿下。こ、こちらをどうぞ」
傘を差し出したのは
「お前がまともに働くことあるんだな」
「働くよ。お金ほしいもん」
煬烏はデカい背を折り曲げながら傘に入った。
「杓児よ、昨日はすまなかったな。宮廷の凶事に気が急いていたのだ」
猫被りやがって。
「いえ、全然」
杓児が慌てて傘を振ったせいで俺に雫が飛ぶ。
「三兄のことは知っていよう」
「はい、怖いですよね。今は
俺は眉間に皺を寄せた。
「そうか。話は変わるが、最近尚食局が不当に使われたことはないか?」
尚食局は宮廷の厨房係だ。まさか竃で死体は焼かないだろうに。
「うんと、ないと思います。あそこの主席女官は厳しいから」
「では、炉炭が使われたことは?」
「炉炭?」
「移動式の暖炉だ。冬は陛下の閨にも置くだろう」
「ええと、それもしまってあります。もうすぐ夏だし。それに火坑があるから冬もあまり使わないかも」
「火坑って?」
俺は割り込んだ。
「壁とか床をくり抜いて管を通して、調理場とかからの熱を通すんだよ。宮殿がこんなに広くても充分あったかいの」
「まともなことも知ってんだな」
「あたしを何だと思ってるの」
「宮仕えの山賊」
杓児が嫌そうに口を歪めた。本当のことだ。
煬烏は目を細める。傘から殆どはみ出ているせいでびしょ濡れだ。
「斯様な雨の日は初夏でもほしいな。その管は何処を伝っているのだ?」
「確か、狻猊殿の壁を通してるはずです」
俺と煬烏は目を合わせる。
繋がった。
そのとき、雷のような悲鳴が聞こえた。
音の方角は燕雙の部屋だ。
煬烏は鋭く雨の幕を見た。
「行くぞ」
杓児の傘を跳ね除け、煬烏は悲鳴の方へ向かう。
「灼児、助かった!」
俺も煬烏の後に続いた。
悲鳴は断続している。
群がる侍従や兵士を掻き分けて部屋に踏み入ると、女官が部屋の前にへたり込んでいた。
水差しが割れ、床に落ちた真新しい包帯が水を吸って蛇のように伸びていた。
「何があった」
尋ねた煬烏に女官が縋りつく。とんでもない形相だ。
「落ち着け、何事かと問うておる」
「殿下が……燕雙様が……!」
女官は髪を振り乱して床に伏せた。
俺は水差しの破片を蹴って、煬烏と共に燕雙の部屋に入った。
寝台の上、布団が半分剥がれている。
そこには炭化した死体が横たわっていた。煙を上げ、火の粉が布団を燻らせる、死体には首から上がない。
「だよな」
俺は煬烏に視線をやった。
「行くか」
煬烏は短く答える。俺たちは戸惑う女官を置いて燕雙の部屋を出た。
煙雨で白く烟る闇の中、狻猊殿が聳えていた。
第三皇子の死体が見つかった直後、俺たちに構う者はいない。
俺と煬烏は雨に打たれながら時を待つ。
漆喰塗りの石壁の一部が傾き、扉のように開く。来た。
俺は松明を向けた。
漆を塗った木は雨の中でも燃え盛る。
急な眩しさに、現れた影は顔を手で庇った。
「第三皇子は何処だ」
俺の問いに、影が手を下ろす。
「お前が燕雙を殺すはずないよな、安小窩」
小窩は虚な目を俺たちに向けた。
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