一章:五、盗みと嫉み
大路に並ぶ官吏たちを、咎人を取り調べる刑部の役人がひとりずつ見聞する。
「あの一列で最後だ。彼らの中に失踪者がいなければ、文官は誰も死んでいないことになるぞ」
軽く言いやがる。
浅葱色の補服は政の中枢たる六部の文官の証。死体についていたのは確かに同じ布地だ。
「誰かが補服を盗んで死体に着せたってことはないですよね」
「さあな。私は六部との関わりが浅い。末端の皇子は名誉欲の強い官吏に相手にされんのだ」
煬烏は肩を竦めた。
暗にお前が確かめて来いと言っているのだろう。俺は仕方なく腰を上げた。
「そういえば、
「あの後卒倒した。ああ、
ろくな皇子がいやしない。
俺は当てもないが宮殿の廊下へ踏み出した。
少し進んだとき、庭の隅で啜り泣きの声が聞こえた。
見ると、薄桃色の衣の女官が蹲って泣いている。俺は庭に降りて歩み寄った。
「大丈夫か?」
女官は腫れた大きな目で俺を見た。まだ若い。十三、四で後宮に入りたてだろう。
「何があったんだ」
「今朝、女官のひとりが逃げ出したの」
色素の薄い髪を編んだ少女は小さな声で答えた。死体騒動で騒ついている間にそんなことがあったのか。
女官といってもピンからキリまで。皇妃になれる希望のある名家の娘ならともかく、市井で見出された下級女官なら結婚もできずに一生を終える。
逃げたくもなるだろう。
「その娘の部屋を片付けてたら、女官長に叱られて……」
「酷いな。女官が逃げたのはお前の責任じゃないだろ」
「ううん、その娘の服とか簪とかをこっそりもらったのが見つかったの」
「自業自得じゃねえか!」
思わず声を張り上げると、少女が立ち上がった。
「だって、勿体ないし、片付けろって言ったらもらっていいのかなって思うじゃない!」
「思わねえよ」
「あたしの手癖が悪いのみんな知ってるもん!妓楼の下働きしてたとき、偶々後宮に拾われるまでスリ紛いのことして生きてたの!」
「開き直んな」
「あたしは悪くない、貧乏が悪いの!」
「どう見てもお前が悪いだろ!」
少女は顔を拭って溜息をついた。
「皇子様の側近にはわかんないよ」
「俺のこと知ってんのか?」
「
野郎、女官にまで広めてたのか。
俺はあることが浮かんで思って少女を見た。
「お前の名前は?」
「
「お前の盗癖は皆知ってるって言ってたよな。三品の文官の捕服を盗めって頼まれたことないか?」
「あるよ」
こいつは盗人だが俺にとっては女神だ。何かわかるかもしれない。
「そいつは誰だ?」
「女官の
見境のない野郎だ。
「それで? 彼女は今何処に?」
「今日逃げた女官がその娘だよ。ほら、補子を忘れてったの」
杓児が補服に縫い付ける刺繍飾りを差し出す。
男にしては小さい死体。文官に失踪者はなし。消えた女官。燕雙の愛人。
たちまち刑部が登緋を捕縛した。
炎の方術使い相手に兵士たちは厳重な装備で赴いたが、彼女は暴れなかったらしい。
「潔白は天命が証明してくださると信じているらしいぞ。健気なことだ」
煬烏は扇で口元を隠す。
黒帷子の兵士たちが砂塵を巻き上げながら、宮殿を堂々と横切るのが見えた。
「殿下、登緋が真犯人とは思ってないでしょう」
俺の問いに煬烏が頷く。
「勿論。三兄の愛人を焼き殺していては都が火の海になるぞ。それより」
煬烏は扇の先で俺の肘を小突いた。
「何ですか」
「兵士がほざいておったぞ。『文官じゃなかった。方士の予言は出鱈目じゃないか』とな。何とか言い包めたが」
俺は肘をさすって呻く。出鱈目はその通りだ。
状況は一進一退。死体の身元はわかったが、犯人も動機も依然不明のままだ。
「また噂をすれば、だ」
寝着を着崩した燕雙が、髪も結わずに歩いてきた。背後には侍従の
「やあ、寝ている間に大変だったらしいね」
燕雙は赤い目を擦って眠たげに言った。煬烏が肩を竦めた。
「この大変なときにまた朝帰りですか」
小窩が控えめに首を振る。
「殿下は昨夜だけは御公務です。来賓をもてなす宴の席が明け方までありまして」
「昨夜だけですか」
「俺が夜働いたなんてすごいことだぜ。お陰で朝まで待たせた娘に詰られたし」
「結局妓楼も行ったのかよ。どんな体力だ」
小窩が沈鬱に俯いた。
「暫く夜遊びは控えてください。凶事が二度続かぬとも限りません。ただでさえ、殿下は方士登緋との曰くで危うい立場ですから」
燕雙が整った眉を顰めた。
「登緋は、俺のせいで牢に?」
「殿下のせいではありません」
いつも軽薄な笑顔の燕雙は珍しく真顔になり、短く言った。
「面会する。牢に連れて行ってくれ」
石牢は宮殿の中とは思えないほど、陰惨で湿った空気に満ちていた。
守衛は燕雙と煬烏を見て、直ちに門を開ける。俺は小窩と後ろを歩いていたが、煬烏に前に押し出された。
水が垂れる音が響く、ひび割れた石段を降ると、錆びついた鉄格子が現れる。
闇の中でも炎のような赤毛が浮き上がって見えた。
「登緋」
厳然と座す登緋は顔も上げなかった。赤毛に包まれた頰は半日でひどくやつれて見えた。
「樊か。手助けは無用だ。私には咎もなく、恥じることもない」
「半裸で歩き回るくらいだもんな」
彼女は眉間に皺を寄せたが、憔悴した顔が少し和らいだ。
「ともかく、足掻いては無駄な疑いを生みかねん。お前も下手な真似はするな。お前は短気そうだからな」
「短気で煬烏殿下の侍従ができるかよ」
「……皇子様は皆ご無事か」
「おう。燕雙殿下は今日も朝帰りだ」
燕雙の名前が出た途端、登緋は肩を震わせた。
「……お前も方士ならば聞いただろう。四つの呪いを」
「信じてんのか」
「炎による殺人は禍斗の災に相応する。偶然とは思えん。加えて皇帝陛下は崩御間近だ。噂の通り五人の皇子のうち四人に禍が降りかかるなら……」
「今回は俺、かな」
石段の上から甘ったるい声が響いた。
「燕雙殿下!」
登緋は鉄格子にぶつかりそうな勢いで立ち上がり、乱れた髪を直し始める。俺には何も構わないくせに。
燕雙は微笑んだ。
「君の無実は知っているとも」
登緋は巨体がぶっ倒れそうなくらいよろめき、すぐ表情を引き締めた。
「今の御言葉だけで獄中の支えになります。殿下、私は無実です。私を陥れたものが……」
「俺を陥れようとしてる、だろ?」
登緋は首肯を返した。石段の上で扇を広げた煬烏と、青ざめた小窩が見下ろしていた。
牢を出ると同時に、燕雙は守衛ふたりを呼び止めた。普段からは想像できない険しい表情だった。
「登緋の尋問を禁ずる。第三皇子の命だ。勅命でない限りこれは覆らない」
守衛たちが身を強ばらせると、燕雙は笑顔に戻ってふたりの肩を叩いた。
「君たちの立場もわかるよ。刑部と俺との板挟みで辛いだろ。仕事の後は酒でも飲んでくれよ。西の銀蓮楼は美人揃いだぜ」
そう言って懐から出した金を素早く握らせる。卒ない奴だ。
煬烏が言った。
「あれぞひと垂らしよな。女にも男にもいい顔を見せてこそ。お前も見習えば聞き込みも楽になるぞ」
「ああなってほしいですか」
「否、全く」
そのとき、牢を隠すような茂みの先から視線を感じた。
俺は咄嗟に近場の石を拾って備える。枝葉の間から見えたのは、宦官と武官だった。俺と目が合うとさっと逸らす。奴らの視線は燕雙を見ていた。
小窩が押し殺した声で呟いた。
「樊氏、牢で仰ったことは本当ですか」
「何の話だ?」
「皇子に災いが訪れる、陥れようとする者がいると」
小窩の顔は紙よりも真っ白になっていた。俺は答えず首を振る。
もっと厄介なことが起こる予感がした。
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