一章:三、色情狂と露出狂

 ろくに寝付けないまま朝を迎え、俺は煬烏よううと向き合って朝餉を囲んでいた。


「安心せよ、毒味も済ませてある」

「毒入りの方がマシですよ」



 今後を考えると憂鬱だった。

 竹編みの窓外から鳥の声と官吏たちの足音が聞こえる。長閑なもんだ。

 だが、予言によればじきに災いが起こる。しかも、四つ。とても切り抜けられると思えない。


 自分の盆を見下ろすと、一目で上品とわかる薬膳が並んでいた。

 粥には枸杞くこ大棗なつめ、干し帆立まで入っている。修行の一貫で、六歳から天劫の儀を終えるまで方士は海鮮を食えない。

 久しぶりの帆立は美味かった。結局、何があろうが腹は減る。


 煬烏は粥を口に運ぶ瞬間、僅かに顔を背けた。牙のような歯が覗く。

 貴人は歯並びでわかると言われる程だ。皇子であんな歯は珍しい。扇で口元を隠すのも、それを気にしているんだろうか。


 考えてみれば、煬烏という名前は酷い。

 烏は不吉な鳥で、煬は国祖に討たれた暴君の諡だ。礼を持たず、天に逆らう、悪虐の号。ぴったりだが、皇子につける名じゃない。

 奴もこんな性格になった原因があるんだろうか。


 思いを馳せる間に、朝鐘が鳴った。



 煬烏に連れられて庭に出ると、女官たちが錦の衣を手に行き交っていた。

 立夏も間近の宮殿は青々とした木々と花々に囲まれている。本当ならもっと晴れやかな気持ちでこの風景を眺めたはずだ。


「皆にお前の顔見せをせねばな。とはいえ、天鸞てんらん兄上は御公務。二兄は遠征、四兄は何処へやら」

「今ひとり飛ばしました?」

「三兄は……噂をすれば、だ」


 庭木の向こうから男が現れた。

 息を呑むような美青年だ。通った鼻梁と薄い唇に緩くうねった髪を垂らし、派手な衣を着流した男は言った。


「煬烏、ちょっと金貸してくれないかな!」

「何だあのクズは」

「誠に遺憾ながら彼が第三皇子・燕雙えんそうだ」

「嘘だろ……」



 の言葉を思い出す。

 第三皇子はすごい美男子だとか。天鸞も煬烏も上等な面だが、こいつは格が違う。

 燕雙は眩しい笑みで歩み寄ってきた。


「頼むよ。馴染みの妓女たちが揉めて、金でしか解決できなさそうだ」

 煬烏は素気なく返す。

「また青楼帰りですか」

「いや、仕立屋の娘の所だよ。青楼の後に寄った……彼は?」

 燕雙は初めて俺に気づいた。


はん雲嵐うんらん、昨日の儀で見出した方士です」

 俺は頭を下げる。

「雲嵐、こちらが都で噂の色狂いだ」

「酷いな」と、燕雙が笑う。

 第三皇子の噂は知っていた。とんでもない遊び人だ。都中の美女の戸籍を作るため、歓楽街の調査に熱心だと揶揄されるほどだ。


「『見たら嫁と娘を隠せ』の燕雙殿下?」

「隠しても御婦人の方が出てくるんだよ」

「皇子がそんなに遊んで大丈夫ですか」


 煬烏は扇で口元を隠した。

「口さがない者は『政にも関わらず、女にしか興味がないのか』などと謗っておるが」

「とんでもない」

 燕雙は声を上げた。

「十五までなら男もいけるよ」

「そういう問題じゃねえよ」


 煬烏が首を振る。

「我が方士は十八か。惜しいな。後三年若ければお近付きになれたものを」

「どこも惜しくないですよ」

 燕雙が少し目を泳がせた。

「悪いけど、君は若くとも……整ってはいるが少し凶相だろう。方力より暴力の方が強そうだ」

 何故勝手に巻き込まれて、面に文句までつけられたんだ。


「それより、君の方術は何だ?」

 俺が答える前に煬烏が割り込んだ。

「真実を見通す力です」

 この野郎。


 燕雙は長い睫毛を瞬かせた。

「では、助言をもらえるかい? 佳人ふたりの喧嘩をどう収めるか」

 俺は目を逸らす。

「妓楼通いを控えるべきかと」

「君の方術は本物だな」


 燕雙は笑ってから眠たげに首を回した。

「昼まで寝ようかな。方士といえば、登緋とうひが賊徒討伐から帰ったらしいよ」


 登家も方士の名家だ。彼らは陰陽五行に基づく方術を持つことが多い。確か、二年前宮廷に入ったのは長女だった。

「先達にも挨拶せねばな」

 煬烏が牙を覗かせた。恐らくまた厄介ごとの類だと予想がついた。



「登緋は炎の方術を持つ」

 先頭を歩く煬烏は、後ろの俺と燕雙を顧みずに言う。

「女性だが武人だ。長身で頑強。今日のように賊徒征伐に赴くこともある」

「恐ろしいですね」

「人馬一体で騎馬を駆る猛将だからな。幾ら三兄でも手を出さぬ」

 煬烏の横目に、燕雙は首を捻った。

「うん、そうだね。流石に馬はいけそうにない」

「騎馬ではなく将の方ですが」

「馬の方だと思ったなら長考挟むなよ」



 道の先は洗濯場だった。

 女官たちは皆、手に無患子ムクロジの泡をつけ、衣の裾を託し上げて項垂れている。


「何かあったのか?」

 女官たちの正面に人影がある。

「あれが登緋だ」

 煬烏が指し示す。干された布が邪魔で見えないが、かなりの長身だ。俺と変わらない。


 登緋の鋭い声が聞こえた。

「洗濯とはいえ乙女が脚を露わにするとは! 慎みを覚えよ!」

 布が風に揺れ、炎色の髪が覗く。

 赤毛の女は下肢を腰鎧と具足で固め、上は胸に綿布一枚巻いただけだった。


「上は脱いでいいのかよ!」

「何だお前は!」

 思わず叫んだ俺を、登緋が素早く睨みつけた。

 煬烏は俺を押し退けて、彼女の遠征を労ってから、燕雙にしたのと同じ紹介をした。


 登緋は大人しく聞いた後、俺に向かって無愛想に言った。

「樊家の長子か。名は聞いている」

「どうも。よろしくお願いします」

「ひとつ言っておく。私は上体を曝け出しているのではない。下肢を隠しているのだ 」

「全裸を基準に考えんなよ」

「私の炎は服を焼くから脱いでいるだけだ。他意はない。第一、裸程度で騒ぐようでは武人として……」

 途端に、登緋が想像もつかないような細い悲鳴を上げ、顔を赤らめた。


「何だよ。たまに正気に戻んのか?」

「殿下がいらっしゃるなんて……」

 俺は背後で微笑む燕雙を振り返った。

「着替えて参ります。お目汚しを失礼!」


 赤毛が炎の残像のように掠れ、登緋はすごい速さで駆け去っていった。

 唖然とする俺の肩を煬烏が叩く。

「男と見られていなかったようだな」

 燕雙がもう片方の肩に手を置いた。

「気にすることないぜ。相性の問題だ」

 今日は挑んでもない試合に負ける日らしい。



 登緋の叱責から逃れた女官たちが次々と燕雙を取り囲む。燕雙も微笑みと言葉を返していた。

「壮観だろう」

 煬烏は扇で顔をあおぎながら見物する。俺は苦笑した。

「馬鹿みたいに平和ですね」



 呪いなんか迷信じゃないかと言いかけたとき、馬桶を提げた青年が女官の群れを割った。


「皆さん、女官長が来ています。持ち場にお戻りを」

 艶のない黒髪を束ねた、平凡で野心のなさそうな侍従だった。女官たちは名残惜しげに散ると、彼は息を吐いた。


「殿下も戯れは程々に」

小窩しょうか!」

 燕雙が駆け寄った。小窩と呼ばれた男は慣れた仕草で身を退く。

「また妓女との揉め事ですか?」

「話が早い。少し金を貸してくれないか?」

「まったく」


 真逆の男ふたりがやけに親しげなのは妙だった。見透かしたように煬烏が答えた。

「小窩は三兄の乳母の子だ。幼い頃は兄弟のように育ったとか」


 小窩は淡々と仕事を進める。

「殿下、今夜の宴は来賓が来ますからお忘れなく」

「今日だっけ? まずいな、先約があるのに」

「私が言い繕っておきます。何方ですか」

「流石。助かるよ。では、五兄、樊方士。また後で」

 燕雙は軽く手を振り、小窩と共に消えた。


「兄弟、か」

 俺はふたりを見送って言った。

「ヒモ野郎と哀れな飼い主って感じだけどな」

 煬烏は扇で隠れた口を開けて哄笑した。



 ろくに働かないまま夕食の時間になった。

 机には銀の食器と杯が並んでいる。


 翡翠豆腐に清湯、豚三枚肉の薫肉、香味を振った乾焼大蝦。修行中なら絶対食えないものばかりだ。ふと親父が気になったが、親父は方士じゃないし、今頃、俺の宮仕えにあたって沢山金をもらっただろう。


「祭事以外で誰かと食事をするのはいつ以来だろうな」

 煬烏は独り言のように言う。

「さて、何か疑問に思うことは?」

 俺は迷ってから答えた。


「殿下は第五皇子ですよね。何故三皇子が弟ではなく兄と呼んだんです?」

「やはり思うか」

 煬烏は目を伏せた。


「私は末子ではない。年だけなら私が三皇子だ」

「……何故?」

「継承権最下位の意味だ。我が母は天に逆らい、礼を失した咎人だからな。私も幼い頃は殆ど軟禁されていた。後に恩赦で皇子として認められたが。五位でも貰えたのは僥倖だ」

 俺は答えに困る。煬烏がそんな俺を笑ったのが、今は助かった。


「詮索してすみませんでした」

「善し……歯のことは言わぬのだな」

 聞かなくてもわかる。歯並びに構ってくれるひともろくにいなかったんだろう。

 俺は一瞬絆されかけているのに気づき、努めて口角を上げた。

「気づきませんでした。人格のが深刻なので」

 扇が飛んで俺は呻いた。



 このまま予言など忘れて恙なく過ごしていける気がしていた。

 それが、錯覚だと気づいたのは七日後、宮廷で死体が見つかったときだ。

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