一章:二、因と縁
「何言ってんだてめえ……」
俺は目の前の男が誰かも忘れて呟いた。
「殿下、ご無事ですか!」
衛兵たちが皇太子に駆け寄る。侍従に伴われて楼閣から降りた
「大丈夫。桃の実だったし……偶然降ってきたんだよ。誰も悪くないから……」
煬烏は鷹揚に頷いた。
「お優しい。天子の器ですな。設営の者は後で叱っておきましょう。ともあれ、
衛兵が当惑気味に俺を眺めた。煬烏は俺の肩を何度も叩いて笑う。
「彼劫の儀ですらも見出せなかった稀代の方術、まさに雲を得た龍。必ずや役立つことでしょう。樊氏。是非御子息を私の侍従として宮廷にお招きしたい」
急に呼びかけられた親父は目を白黒させた。俺もたぶん同じ顔をしていた。
親父は顎髭を何度も触り、言葉を絞り出した。
「願ってもないことで……ですが、あれは」
「それは有難い!」
煬烏は食い気味に答え、扇で手を打った。
「兄上、お喜びください。貴方の恩人が宮廷に来てくれるとか!」
天鸞はまだ震えながら頷いた。
この男は声の大きさで場を支配する術を心得ている。そういう奴は大抵死ぬほど性格が悪い。
煬烏は俺の腰帯を掴んだ。
「では、参ろう。方士たちを迎える馬車は備えてあるが、話があるのでお前は私と乗れ」
「殿下、俺は……」
「何を狼狽える。第五皇子の侍従だぞ。堂々とせよ」
周囲の奴らは犬のように引きずられる俺を呆然と眺めていた。親父は目を伏せ、
俺は何が何だかわからない。
屏風の前を通るとき、鹿膠の壺が倒れ、桃木の枝から黒い汁が滴るのが見えた。
林を抜けると、豪奢な軒車が待ち構えていた。
軸木に雲海をあしらい、天鵞絨の幌は鳳凰が刺繍されている。一目で皇族の馬車だとわかった。
従者が輿を開くと、煬烏は俺を荷物のように押し込み、後から戸を塞ぐように座った。
間も無く御者が馬に鞭打ち、馬が走り出す。
窓の向こうを桃木が河のように流れた。
何もかもが高速で進んだ。
「さて、」
煬烏の指が窓の覆いを下ろし、馬車の中が闇に包まれた。
「どう思った?」
「何が……」
煬烏は扇で口元を隠した。
「お前に真実を見通す方力はない。当然俺にもない。では、どういう仕掛けだと思う?」
俺は言葉を失った。皇太子に飛びかかった桃の実は偶然じゃない。仕掛けがある。
それを見通さなければ、俺の未来はこの車内より暗くなる。それだけはわかった。
俺は苦し紛れに捻り出す。
「桃は落ちたんじゃなく横から飛んできた。風を切る音を聞いたし、じゃなきゃ、楼閣の屋根に弾かれる」
「では?」
「誰かが飛ばした?」
「どうやって?」
煬烏は続きを待っている。
車内に白檀の香と、膠の匂いが漂っていた。
煬烏に話しかけられたときもそうだ。
膠は絵画の顔料を接着するのに使う。あの屏風にも使われていたはずだ。
俺が馬車に乗る前、鹿膠の壺は空だった。絵は描き終わったのに何に使う?
「枝……」
俺の呟きに煬烏が目を瞬かせた。
「桃木に鹿膠がついてた。細い枝を繋ぎ合わせるのに使ったんだ」
「何のため?」
「膠で紙は止められても木は無理だ。そのうち葉が戻る力で剥がれる。籠状に繋いだ枝に桃の実を乗せれば、剥がれた瞬間、反動で実がぶっ飛ぶ。投石機みたいに」
「では、誰が?」
彼の袍服の袖に乾いた膠がこびりついていた。黒服だから気づかれなかったのだろう。
俺は手の平を差し出して煬烏を指した。
「重畳」
俺は安堵で息を吐き、我に返った。
「そんなことできますか?」
「弓術の覚えがあればできる。仕損じれば別の策を講じる。私は幾らでもあの楼閣に細工できるからな」
彼は喉を鳴らして笑った。
「だが、浅い」
煬烏は扇で俺の手の平を打った。儀式で裂いた傷が開いて、思わず呻く。
「最も大切なのは『何故?』だ」
俺は傷口を抑えながら唸った。くそ野郎。
「見当がつくか?」
「憂さ晴らしですか」
「私は兄を敬っている」
嘘をつけよ。
「わからんか。では、誰が得をした?」
俺は首を横に振る。煬烏は俺を指した。
「どこが?」
「私の近侍の座を得たではないか」
俺は口を大きく開けた。
得をしたのはこいつだ。自分で放火して消火するような真似をしてでも、宮廷に俺を呼ぶ必要があった。だから、このくらい言っても斬首されないだろう。
「それは、損失です」
「抜かしおって」
扇子の先が嘴のように二の腕を抉り、俺はまた呻いた。
小石と泥を跳ね上げていた馬車が、急に滑らかに走り出した。
「頃合いか」
煬烏が窓の覆いを跳ね上げた。
夕刻を迎えた空の裾に、西陽よりも紅い広大な宮殿が聳えていた。
白亜の大路が夕陽を反射して燦然と輝く。ひとびとの服装は絵画で見た天上人のように豪奢だった。
俺は息を呑む。
「王宮は?」
「初めてです」
煬烏が満足気に頷いた。
大門が開かれ、馬車が止まる。
路の左右で沢山の侍従が一斉に礼をした。
馬車を降りた煬烏にひとりの宦官が歩み寄る。
「お帰りなさいませ。天劫の儀は如何でしたか」
煬烏は先程と別人のように眉を下げた。
「才気ある方士を見つけた。お前たちの役にも立ってくれるだろう。急ですまないが、夕餉をふたり分用意してくれないか」
端の女官が慌てて手を振った。
「私どもにお気遣いなどなさらないでください」
「助かる。彼に宮を案内するから、急がずとも善い」
微笑む煬烏に、女官は頰を赤らめた。
「誰だよ……」
呟いた俺に向けられた奴の顔は、安心するほど悪人面だった。
煬烏は俺を連れて宮殿の最北へ向かった。
豪華な黄釉の瓦や赤壁は素通りし、寝殿の間に隠れたうら寂しい道を進んでいく。
「どこへ向かってるんです?」
「贔屓廟だ。祭事以外は閉ざされているが、神儀に関わる方士になら見せてもよかろう」
現れたのは、堅牢で陰鬱な黒壁の廟だった。柱の土台には龍頭の亀の細工が施されていた。
煬烏が守衛と言葉を交わすと、悲鳴のような音を立てて戸が開いた。
中は息が詰まりそうな埃と、釉薬と、焦げた蝋の匂いで満ちていた。
煬烏は守衛から渡された燭台を俺に押しつけて持たせる。彼は唐突に言った。
「熇王国の名の由来を知っているか?」
「熇熇然と燃える炎の如く繁栄が続くようにと……」
「浅い」
扇が宙を切った。俺を小突こうとしたが暗さで目測を誤ったらしい。
「近う寄れ」
「燭台を落として廟を燃やしてもいいなら」
煬烏は肩を竦めて、言葉を続けた。
「熇の字は、本来ふたつに分けられる。即ち『災』と『禍』だ」
「何でそんな不吉な……」
「此国は呪いの上に成り立っているからな」
暗闇に慣れた目に、観音開きの扉が浮き上がる。
煬烏は両手を上げ、勢いよく扉を開いた。その奥に四つの鈍い輝きがあった。
「これは……」
「皇族のみが知る四の呪物。右から禍斗の燭、攫猿の鏡、巴蛇の鼎、神仙の剣。個々の解説は後にしよう。まずは、此らの成り立ちだ」
煤けた四つの金具が燭台の火を鈍く反射した。
「千年前、我らが祖は僅か三百の兵で暗愚の暴君から玉座を簒奪し、国を拓いた。その多くは彼に仕えた四人の方士による功績だ。国祖はその方術を恐れた。国を覆す力の矛先が己に向いたら如何。国祖は四人を誅殺したのだ」
俺は目を見開く。
「方士は建国から皇帝を支えて……」
「歴史は勝者が塗り替えるものだ。しかし、四人の方士は死の寸前、己が呪いを込めた焼こうと斬ろうと壊れぬ呪物を遺した。それが此らだ。予言によれば、建国から千年でこの四つに纏わる呪いが宮廷を襲うと。丁度今だ」
俺は何か言おうとしたが声が出なかった。
煬烏が扉を閉めると、空気の重苦しさが少し軽くなったような気がした。
「俺に……何をしろと?」
「今、父上は病に臥せっている。間も無く後継争いが起こるのは自明。その際に災禍が降るのだろう。兄弟も方士も術中の範囲。だが、方術を持たぬ方士ならば?」
「何か起こったら、俺が解決しろってことですか?」
煬烏は鋭い犬歯を覗かせた。
「無理ですよ……」
俺の無能は自分が一番知っていた。とてもじゃないが、より悪いことになるに決まってる。
「残念だ。恩人が下手人とわかれば兄上は哀しむだろう」
俺は理解できずに片眉を上げた。煬烏は俺を指す。
「誰が得をするか、よく考えろ。方力を持たぬ方士が宮廷に入り込むため、皇太子を罠にかけた。皆そう思う。お前を呼んでも私に得はないのだからな」
くそったれ。俺に選択肢はない訳だ。
「やるか?」
俺は仕方なく頷く。廟の扉の隙間から夜闇が忍び出してきた。
行き先は幾らでも暗くなる。果てなんてものはない。
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