一章、禍斗の災

一章:一、犬と烏

 あの男に初めて会ったのは、七日前、天劫てんごうの儀のときだ。



 早朝、俺は古い霊廟の前にいた。

 饕餮廟は皇帝の御林の真ん中にある。

 桃の枝葉を食い破ったように陽光が射し、鷹の鳴き声が騒がしかった。

 俺はぼんやりしていたんだと思う。


雲嵐うんらん、大丈夫?」

 我に返ると、幼馴染の少女、蘇葵そきが俺の顔を覗き込んでいた。

「ああ……」

 俺が曖昧に答えると、葵は微笑んだ。


「緊張してる?」

「お前はいいよな。六歳から仙女なんて言われるほどの方力だ。儀式なんて遊びみたいなもんだろ」

「そうでもないわ。今日が運命の分かれ目だもの。でも、上手くいけば歴史に残る宮廷方士になれるのよ」

「天才は気楽でいいよな」

 俺は被りを振った。



 熇王朝の繁栄は常に方士と共にあった。

 人智を超えた異能とも呼ばれる方術を操る方士たちは、政から逆徒の暗殺までも担い、皇帝を陰から支える。

 建国からの慣しだ。父親から嫌と言うほど聞かされた。


 俺のはん家も、蘇家も、代々宮仕えの方士を出してきた名家だ。

 それが俺には憂鬱だった。


 方士家の長子は皆、六歳から修行が始まる。

 はっきり言って俺には才覚がない。親父はそれを認なかった。

 方士だった俺の母に婿入りし、その母に先立たれた今、家で親父の居場所は殆どない。

 俺が宮廷に入ることしか、自分の再評価の兆しはないと焦ってあるんだろう。

 言えた義理じゃないが、哀れだと思った。



「今日の運勢はどうだった?」

 葵がまた俺の顔を覗き込む。

「最悪だった。『三回死ぬ』ってさ」

「外れに決まってるからいいじゃない。人間は一度しか死ねないもの」

「そのくらいの凶兆ってことだろ」

 葵はくすくすと笑った。


 頭巾を纏った方士たちが霊廟に現れて、俺たちは口を噤んだ。

 儀式の始まりだ。


 霊廟には建国の神話を描いた屏風が立てられていた。不備があって描き直したのか、屏風の裏にまだ顔料と鹿膠の壺が置かれていた。

 膠の獣臭を嗅いだとき、俺は妙な懐かしさを覚えた。

「なあ、俺たちがここに来るの初めてだよな」

 葵は当然だと頷いた。俺は相当参っていたのかもしれない。



 葵が俺の袖を引いた。

「見て、皇子様たちがいらしてる」

 廟の正面に建てられた真紅の楼閣にふたりの青年がいた。


「引き抜きに来たって訳か」

 雪のような白い肌で笑みを浮かべているのは、皇太子の天鸞てんらんだ。だが、その隣の、黒尽くめで天鸞より頭ひとつ長身の男は見たことがない。



 天鸞が楼閣から身を乗り出した。

「あの、此度の儀は、いずれ宮廷を、というか、私たちを支える者と見える場として……期待している」

 声は次第に掠れた。皇太子とは思えない様だ。


 儀式を執り行う俺の父親が慌てて取り成した。

「ええ、殿下が天子として君臨なさったとき、必ずやここの者たちが手足となることでしょう!」

 天鸞は俯いた。

「ありがとう。でも、些か時期しょうそ、早々だと……」

 親父の目が飛び出そうなほど見開かれた。天鸞は石のように押し黙っている。


 気まずい沈黙を、黒尽くめの男が断ち切った。

「兄上は病に臥せる父上を深く案じているのです。先の話は程々に」

 鉄を打ったような静かな声だった。親父は身を折って礼をする。


 天鸞を兄と呼ぶなら彼も皇子なのだろう。

 俺が盗み見た瞬間、その男と視線が合った。光を吸う黒い眼が細められ、何故か寒気がした。


 葵は気楽な声で呟いた。

「仕えるから第三皇子がいいわ。すごい美男子だって」

「やめとけよ、遊び人らしいぜ」

「関係ないわ。宮廷お抱え方士は結婚を許されないのだし、見ていて楽しい方がいいわ」

「不敬だな」

 俺は軽い口調を繕い、廟に踏み入った。



 太陽が天まで昇った。

 親父の握った錫杖の石突が花崗の床を打ち、荘厳な音が響いた。


 屏風の前に置かれた巨大な鼎が水を湛えている。この水面に俺たちの命運が映る。


 方士はひとりにつき固有の方術を持つ。それは火や水など五行に基づくものの他、形には見えないものもある。

 十八歳になった方士は儀式によって己の方術を知る。それが天劫の儀だ。



 頭巾の方士が筒袖を滑らせ、匕首を差し出した。

「蘇葵」

 葵は躊躇わず左手で匕首を受け取り、右手の平に押し当てる。血の玉が雫となり、鼎の中に滴った。


 水面に一筋の赤が解けた瞬間、水が龍の如く飛び上がった。

 雫を顔に受けても葵は表情を変えない。

 雫が宙に舞い、独りでに鼎の中に戻る。凪いだ水面に紅い「治」の文字が浮かんだ。


「治山治水は国の礎、水の力か」

 頭巾の道士が厳かに告げる。葵は慇懃に礼を返した。



 続いて、俺の隣の女が匕首を受け取った。

 見るのは初めてだが、こいつも名家の長女だろう。


 勝気そうな顔の女が素早く手を切ると、今度は鼎の水から靄が湧き出し、紗のような白幕が広がった。

 浮かんだ赤文字は「魄」だ。

 神官が低く呟いた。

「超越の技か」

「恐悦至極」

 女が恭しく礼をした。



 刀身の鈍い輝きが俺を指した。

 匕首の柄はふたりが握った後でも氷のように冷たかった。首筋を啄むような父の視線を感じる。


 俺は手の平に刃を押し付けた。冷たさとひりつく痛みの後、微かな熱が伝い、零れた。鼎に落ちた血の雫が水面を揺らす。

 俺は唾を呑んで待ったが、何も起こらなかった。


 血が足りないのか。

 俺は更に血を絞った。清廉な水面が濁った赤に変わり、錆の匂いを立てても、鼎は応えなかった。


 周囲から当惑の声が上がる。

 葵が不安げにこちらを見遣るのがわかった。

 俺はどうすればいいかわからず、正面を見る。

 方士は頭巾を揺らし、俺から鼎を遠ざけた。


 それで終わりだった。



 天劫の儀が終わり、廟を出た俺の背中に鈍い衝撃が走った。

 振り返ると、錫杖を握った親父が壮絶な目をしていて、ぶん殴られたとわかった。

「方術がないだと?」


 こめかみに痛みが走り、俺は思わず膝を折る。床に手をついたせいで、血と埃が混じって花崗岩を汚した。

 ぐらつく頭に親父の声が反響する。

「それでも樊家の方士か? 十八までお前を育てて、こんな仕打ちが……」


 親父が錫杖を振りかぶる。目が眩んで立ち上がれない。

 続く痛みを待ったが、衝撃は襲ってこなかった。



「そのくらいに」

 親父の背後に長い影が差していた。

 影のように髪も衣も黒い男が、親父の錫杖を片手で抑えていた。親父は青ざめて男を見る。

「殿下……」

 門楼で皇太子の隣にいた男だった。彼は微笑んで錫杖を離す。親父は発条のように腰を折り、素早く立ち去った。



 男は這いつくばる俺を見ていた。

「立てるか?」

「ああ、はい、ありがとうございます」

 俺は何とか立ち上がる。痛む頭に鳥の声と激しい陽射しが辛かった。


「災難だったな。樊家の長子に方力がないなど」

 男は扇で口元を隠した。

「お前の名は?」

「樊雲嵐と申します」

「私は第五皇子、煬烏よううだ」

 俺の怪訝な目に気づいたのか、男は目を細めた。


「聞いたことがないだろう?」

「いえ……」

「よい。その程度の者だ。皇位継承権は最下位。故に、お前のような者は放っておけなくてな。私を見ているようだ」

 言葉は優しいが、猛禽類のような眦と冷たい声が不気味だった。


「恐れ多いです。私は木端みたいな者で……」

「木端には木端の使い方がある。薪としてな」


 吊り上がった唇から獰猛な犬歯が覗いた。

 俺が問い返すより早く、煬烏は俺に顔を近づけた。

「方術が使えぬのは誠だな?」

 白檀の香りに混じって膠の脂の匂いがした。俺は狼狽えながら頷く。


 煬烏は俺から身を離すと、辺りを見渡し、声を張り上げた。

「皆の者!」

 儀式を終えた方士たちや皇太子の護衛が振り返る。

「皇太子の席に災いあり。疾く天鸞殿下を守られよ!」


 俺は事態が飲み込めず狼狽える。

 次の瞬間、ばつんと空気を切る音が響き、真紅の門楼へ何かが飛んだ。

 それは、まだ楼上にいた天鸞の横を掠め、盛大な飛沫を散らして弾けた。

 雫を頰に受けた天鸞が悲鳴をあげて崩れ落ちる。



「曲者か!」

「殿下をお守りしろ! 下を走査せよ!」

 衛兵たちの喧騒を横目に、煬烏は喉を鳴らした。

「桃木の実で暗殺ができるものか」

 俺は目を凝らす。楼閣の手摺に潰れた青い桃がべったりと貼り付いていた。


「これは……どういう……」

 問いかけた俺の肩を煬烏が掴んで引き寄せる。奴は信じられないことを言った。



「この危機は樊家の方士、雲嵐が言い当てたのです! 彼は確かに告げました。『己には真実を見通す力がある』と!」



 死肉を啄む烏のような目が、俺を見て歪んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る