タバコと彼女、僕


「今の家はどこ?」


 彼女はその言葉に、少し固まりながらもある方向を指さして答えた。


「送ってくよ」


 僕は指を指された方角へ歩き出す。戸惑ったようなほんの少しの時間を空けて、彼女の足音がついてきた。


 何を言えばいいのかわからなかった。過去に見た現在の自分が何を言っていたのか記憶を探るけれど、大したことは思い出せないし、大したことを言っているとも思えなかった。

 結局僕は、いつかのタイムトラベラーの真似をした。好きな食べ物、好きな遊び、朝と昼と夜どれが好きか。ぽつりぽつりと話して、彼女もそれに答えて。ぼーっとした、ほんのりと赤い夢見心地な表情はいつの間にか隣にあって、淡い電灯と月明かりが照らす中、僕は彼女が足を進めるのに合わせて二人並んで歩いていた。

 風は少し肌寒く、けれど容赦もせず吹き続け、波の音は遠ざかり、彼女の、僕らの足は止まった。いつの間にか目の前には、少し古びた二階建てのアパートがあった。


 ちらりと横を盗み見る。小さな頭がそこにあって、下を向いた、風に吹かれる髪の隙間から見える幼い横顔は、それに似合わないアルコールと悲痛な色を浮かばせていた。

 思わず口を開く。


「次はいつ飛ばされそう?」


 僕は尋ねながら記憶を辿る。確かタイムトラベラーは。


「明日」


 そう答えたんだっけ。そして。


「嫌だな……」


 そう、小さな声で言ったんだっけ。


 頭は変に静かだった。凪いだ海のようだった。

 僕は慎重に、慎重に。彼女の独り言だろう、小さな声を拾い上げる。


「僕も嫌だ。せっかく会えたのに」


 タイムトラベラーに。


 どうしても、小さな声になってしまった。


 本当なんだ。あなたに会えたことは、本当に、本当に嬉しいんだ。泣きそうになるほど。あなたに教えてもらったんだ。ひとりじゃないと思えることを。夕暮れのあの日。それで僕は救われたんだ。


 けれど、そうだ。わかっている。あなたはさまざまな時を生きるタイムトラベラー。僕はさまざまな時を見る能力者。そして、それ以前に他人だ。


 僕にはあなたが必要だった。

 そして、あなたにはタイムトラベラーが必要なんだ。


 だから。


「僕はタイムトラベラーだ。君もそう。だからひとりじゃないよ」


 だから、大丈夫だよ。


 彼女の顔は見れなかった。代わりにくすんだアパートを見つめていた。耳のそばで風が鳴った。風の運んだ波の音が、耳鳴りみたいに遠くで聞こえた。しばらくずっと、そればかりが響いていた。

 それに誘われるように「じゃ、早く帰りな」なんて、おざなりな言葉をようやくこぼした。古びたアパートから目を逸らし、僕は彼女を見る。彼女も僕を見る。


 その幼い赤ら顔を、僕は想い返して生きるのだろう。


 どちらも何も言えないから、できないから、またタイムトラベラーの真似をする。


「じゃあね」


 片手を上げて、身を翻す。来た道を辿る。海の方角へと。その途中。


「またね」


 なんて、甘やかな言葉が聞こえたような気がしたけれど、きっと気のせいだ。僕はそれに返す言葉を持っていない。


 来た道を辿る。実を言えば、僕の家はもう少し、あの堤防沿いを歩いたところにある。波の音はもうすぐそこにある。あの破壊音。肌寒い風が髪の毛を撫でた。少し弱まったように感じる。目の前には無表情な堤防。

 体の力が全部抜けてしまったかのように、ざらついた石壁を抱きしめるようにしてもたれかかった。しばらくそうして、ずっと、ずっと、暗闇から迫る薄ら白い波を見つめていてもよかったのだけれど、たまらない気持ちになった。どうしようもない。


 僕は背負っていたリュックの奥の方、忘れ去られたようにしてそこにあるタバコの箱を手に取った。角のあたりなんかが潰れていた。

 手にしたのはいつぶりだろう。一ヶ月かな。もっと前だったかもしれない。

 未だ慣れない仕草でタバコを取り出し口にくわえ、同様にリュックから取り出したライターで火をつける。白い煙はかろうじて目に映る程度で、風に吹かれてすぐ夜に紛れていった。


 このなんとも言えない味は美味しいとも思わないし、今後思うこともないのだろう。


 気まぐれな風に翻弄され、静かに靡いたりすぐに消えたり。ゆらりゆらりとタバコの先の小さな灯りから、かすかな白は視界に映る。

 肺に煙を吸い込む。どうやらやり方は覚えていたようで、咳き込むことなく吐き出された。


 白い煙は視界映る。こんな僕でも呼吸はしている。そんなことが目にみえる。

 大体タバコを手に取る時と同様、なんだか全てが億劫で。ただタバコは咥えたまま、暗い海を眺めていた。


 嘘をついた罪悪感。彼女を救えた満足感。色々混ざっているのかもしれない。けれどそれらを全てを飲み込む喪失感が胸にある。心に大きな虚がある。


 タイムトラベラーにまつわる記憶を、僕は想い返して生きてきた。夕日とタイムトラベラー。夜の海と女の子。過去とも現在とも未来とも言えるその人。



 それはもう、恋なんて、そんな言葉を冠せるほどに。



 ほんの少しの電灯と月明かり。風は吹いて潮の匂いを運んでくる。夜の海を背景に、記憶の中の彼女と白い煙はふらりふらりと揺れている。


 タイムトラベラーの人生を想い返す。僕のこれからの人生を想像する。そこに僕と彼女がいる。


 なんて。



 都合のいい「未来」は存在しない。



 タバコは不味いし白い煙はずいぶん儚い。けれど僕はタバコを吸った。肺を煙で満たしていく。息を吐く。


 生きているのが目に見える。

 彼女の言葉が頭にある。


 そうでなきゃあ、やってられない、なんて。そんなことを思いながら。


 ふらり、ふらりと。揺れる煙を眺めている。

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タイムトラベラー ヨカ @Kyuukeizyo

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