夕日とタイムトラベラー


 僕はいわゆる超能力者だ。

 未来を知ることができる。さらに言うと過去だって。

 必ずではない。たまに、ふとした拍子に、その人の一部、もしくは全ての人生を知ることができた。

 今ではそういうものだと受け入れている。でももちろん、最初からそうだったわけではない。明らかに重荷だった。嫌だったわけじゃない。でもこれが当たり前ではないのだと、人とは違うのだと、違うだけなんだと。それが理解できなかった。


 そんな小さな頃のことだった。


 僕は迷子になって、堤防沿いを歩いてた。どっちが家の方向かなんてわからなかったし、家の方を目指せばいいのかもわからなかった。五歳くらいの頃で、あまりに不明瞭だったけど、多分家出の心境だったんだと思う。

 夏は終わって、もうすぐ冬が来るくらいだった。風は冷たくて、夕日はやたらと綺麗だった。


 その女の人は堤防にもたれるようにしてタバコを吸っていた。長い髪の毛が風にゆるく靡いて、タバコの煙は空中に広がって消えた。


「迷子?」


 ぼーっとそれを見ている僕に、その人はそう声をかけた。僕は慌てて頷いた。


「そう」


 僕は多分、戸惑ったんだと思う。迷子だとわかってくれれば、大人は助けてくれるものだと思っていたから。でもその人はそうせず、ただタバコをふかすだけだった。

 やがてやっと気づいたとでもいうふうに、その人はタバコを堤防に押し付けて携帯灰皿へと入れた。僕はタバコの匂いや煙が案外好きだったから、それを少し残念に思った。


「じゃあ、助けたほうがいいわけだ」


 ね、とその人は少し首を傾げて言った。でも僕はそれにうまく答えられなくて、助けて欲しかったくせに家に帰るのも億劫で、どう答えればいいのか、何も言えなかった。

 その人はそれを見て言った。


「帰りたくないの?」


 そこまでではない気がした。その人と同じように首を傾げた。僕は帰りたくないんだろうか。頭の中にはいつもの部屋と父と母。とても近くにあるはずなのに、どこかすれ違っている情景たち。心は隙間風が吹いているみたいに、体感温度と同じくらいひんやりとしていた。

 小さな体の小さな頭の中に、漠然とした不安が渦巻いていた。でも僕は大して言葉も知らなくて、何も言えなかった。波の音ばかりが響いていた。


 そんな時に。


「私はさ、タイムトラベラーなんだ」


 その人はそう呟いた。


 顔を上げれば特別な感情を浮かばせることのない、平常そうな表情があった。それから「少し散歩をしようか」と、そんなことを言って歩き出した。僕は慌ててそれについて行った。頭の中にはタイムトラベラーという言葉がずっと浮かんでいて、その言葉は映画で見た不思議な力を使う人とイコールを結んでいた。


 その人はまず、僕によく行くお店の名前を聞いた。僕はそれに答えて、そこから家までの道がわかるか、という問いに自信はなかったけれど頷いた。


 それからタイムトラベラーは語り出した。


 時間を旅しているというよりは、飛ばされるんだと。そのタイミングはなんとなく把握できるんだと。さまざまな時間、場所にいたと。年齢は徐々に増えている気がするけれど、名前や生まれはその時々に決まっているから転生とも言えるかもしれないと。


 おとぎ話みたいに聞いていた。でもそんなおとぎ話の住人を、頭のどこかで自分と同種類の人間なんじゃないかと期待していた。


「自分は人間じゃあないのかもしれない」


 その人は言った。


「少なくとも辞書には、人間の定義に時間を旅できるなんてことは書いてない」


 でもねと、盗み見るように見上げた顔には薄い笑顔があった。


「一度タイムトラベラーにあったことがあるんだ」


 僕は転ばないように前を向いた。前を向いて、タイムトラベラーの隣を歩いた。


「昔のことだし、その時お酒も飲んでいたからほとんど記憶に残ってない。でもさ、確かに会ったんだ」


 良かったね。と、なんとなく思った覚えがある。その人が優しげな声をするから。それは素晴らしいものだったんだろうなと。だけど。


「でも、やっぱり会ってないのかもしれない」


 その人はそういうから、僕は困惑した。だって、もしそうならとても辛いことのはずだ。なのにそれは、先ほどの優しい声色だった。


「それでもいいんだ。会ってなくてもいいのかも。ただ大事なのは、そんな感触が私の中にあること」


 ひとりじゃないと思えること。


「それだけなんだけどね。救われるんだ。なんでだろう。いいんだ、って思えるんだよ。それでいいんだ、って」


 ここにいていいんだ、って。


 ずっと無言でいる僕に、「まぁ、よくわかんないだろうけど。私もよくわかんないし、そう思うのに時間かかったし」なんて言って、タイムトラベラーは笑った。

 大人の使う言葉の意味なんて、当時の僕にはとても全部はわからなかった。でもきちんと胸にしまっておいた。それが大事になることはわかっていた。


 ひとりじゃないと思えること。

 それでいいんだ、って。ここにいていいんだ、って思えること。


 よくわからなかったけれど、その人と並んで夕日の堤防沿いを歩いているこの時間、この感情が、そういうことなんじゃないかなと思った。


 今でもそう思うから、僕はこんな、些細な記憶を覚えている。


 それからはただ僕の家に向かって歩いた。知っているお店に着いて、お別れするのは悲しかったけれど、どうやら家まで送ってくれるつもりらしいことがわかった時は嬉しかった。

 好きな食べ物、好きな遊び、朝と昼と夜どれが好きか、あの雲は何に見えるか。ぽつりぽつりと質問されて、僕はそれに答えて、その人も答えて。あんなに道を彷徨っていたはずなのにいつもの道はいつもの道で、長くなりもせず家に着いた。

 さよなら、って言っても良かったけど、それは少し寂しくて聞いた。


「タバコって美味しいの?」

「美味しくないよ」


 じゃあなんでと首を傾げる。


「タバコってさ、吸って吐くでしょ。それで煙が吐き出される。呼吸するのが目に見えるんだよ。つまり、生きているのが目に見える。それってなんか、生きてるって感じがする」


 だから吸ってんの、とその人は笑った。


「ほら、早く帰りな」


 僕は頷いた。でも足は動かさず、その人を見ていた。見送るつもりだった。

 タイムトラベラーはそんな僕を不思議そうに見つめて、でもすぐに片手を上げた。


「じゃあね」


 ただ、去っていく背中を見つめていた。

 その時に見た。


 タイムトラベラーの、過去とも現在とも未来とも言える人生を。


 僕は黙ってそれを見ていた。他人の人生を見ている時、大抵名前のつけられるような、はっきりとした感情が湧くことはない。ただ圧倒される。

 その時もそうだった。圧倒された。ただただ圧倒された。でもそのうちの一場面だった。僕だと思った。僕がいた。


 僕にとっての未来。タイムトラベラーにとっての過去に。

 青年の僕と少女の彼女がいた。


 気づけばタイムトラベラーの背中はとっくに夕日の中に消えていて、僕はそのまま家に帰った。




 タイムトラベラーにとっては本当に些細なことなんだろう。きっとかけらも覚えてない。自分がタイムトラベラーだと打ち明けたのだって、僕が子供だったのと、迷子相手にどうすればいいのかわからなかったからなんだろう。


 人は忘れる生き物だ。だから僕だって全部は覚えていない。でも、タイムトラベラーにまつわるその記憶たちをずっと、ずっと。


 想い返して生きてきた。

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