この本命チョコは、渡せない

アレセイア

渡せないチョコレート

 2月14日――私は白い息を吐きながらチョコを手にする。


 どうせ分かっている。

 この本命チョコは彼に渡せない。

 去年の今日も勇気が出せず、彼に渡すことができなかった。

 彼との距離感が壊れるのが怖くて、また明日、と無理やり笑って。

 ――理由は、分かり切っている。私が臆病だったから。


 今も臆病な私は、今年も性懲りもなくチョコレートを作る。

 彼を想って作るチョコレートだ。手を抜かない方が難しい。一つ一つの工程を大事にし、想いを込めて丁寧に、丁寧に作ったチョコレートだ。

 それを手にして、私は正面に向き直る。


 心が挫けそうになる。

 胸から込み上げる想いが苦しくて切ない。

 訳が分からなくて、泣きそうになる。

 でも、このままだと私は臆病なまま――だから。

「一生懸命……っ、作りました……っ」

 一歩、勇気を振り絞って前を見て言葉を絞り出す。

 彼に対する想いを、振り返りながら。


 彼との出会いは、入学式の日だった。

 私はその日体調が悪くて、頑張って入学式の中で耐えていたけど辛くて。

 もうダメ、と思ったとき、一人の女の先輩が声をかけてくれたのだ。すぐに保健室まで連れて言ってくれて――そこに彼はいた。

 生徒会の手伝いをしていたという彼。一つ上の先輩だった。

 保健室の鍵を開けて待っていた彼を私が見上げると、助けてくれた女の先輩は苦笑した。

『こいつが君の体調不良を見抜いてね。だから礼はこいつに』

『あ、ありがとうございます……』

『気にしなさんな、後輩。おかげで式をサボれるんだから』

 私の言葉を彼は気負いもせずに手を振りながら言う。だけどその一方でてきぱきと保健室を開け、ベッドを整え、換気をしてくれて。

 生徒会の仕事があるから、と離れた女の先輩に代わって付きっ切りで傍にいてくれた。彼は本を取り出してから、気にすんな、サボりのついでだ、と笑っていて。

 その後、彼は保険教諭に引き継ぐまで傍にいてくれた。

『変な奴だろう? けど、そういう奴なんだよ、あいつは』

 保険教諭ですらおかしそうにそう評していて、私は自然と彼が気になっていた。


 彼との再会は早かった。それは入学式の一週間後の放課後。

 その日は昼から分厚い雲がかかり、今にも雨が降りそうだった。私も早く帰ろうと思ったけど、先生に手伝いをお願いされて断り切れずに引き受けて。

『あ……』

 昇降口に辿り着いたときには雨が降り出していた。雨足が増す外の景色に憂鬱になりながらため息をついていると、ふと昇降口から声が聞こえてきた。

『悪いな、傘貸してくれて』

『気にすんな、どうせ置き傘していたんだし』

『お前は五本も学校に置き傘してんのかよ』

『そこも気にしない方向で』

『お調子者め……さんきゅな、借りは返すから』

『気にしなさんな』

 その言い方は聞き覚えがあって視線を向けると、そこには傘を差して立ち去る生徒と、見覚えのある先輩が立っていた。彼はすぐに私に気づいて振り返り、お、と眉を吊り上げた。

『よっ、新入生』

『どうも、先輩。この前はありがとうございました』

『気にしなさんな』

 やはり彼はそう言ってひらひらと手を振り、私の手元を見て首を傾げた。

『……傘、忘れたのか』

『……残念ながら』

『災難だったな、新入生。ほい』

 彼は軽い口調で言いながら何かを鞄から取り出して差し出す――折り畳み傘だ。

『え……いいん、ですか?』

『おう、こういうこともあろうかと鞄には常に入れているんだ』

『……さっき、他の人にも貸していませんでしたっけ』

『見ていたんか。ま、気にしなさんな』

 からっと笑いながら彼は私に傘を押しつけようとしてくる。それを反射的に受け取りそうになり――ふと気になって訊ねる。

『先輩の傘は大丈夫なんですか?』

 その声に彼の笑顔がわずかに引きつった。一瞬の沈黙の果てに彼は笑顔を繕う。

『き、気にしなさんな』

『気にしますよ! めっちゃ雨降っているじゃないですか!』

 問答している間にも雨足が強まっている。傘なしならびしょ濡れになること必須だ。受け取れるはずがなく、傘を押し返す。

『そこまでお世話になりません。走って帰れば済む話です』

『それはこっちも同じだから、ぜひ使ってくれ』

『使えるわけないでしょう。強情ですね、先輩』

『こういう性分なんだ、気にすんな』

『気にするに決まっているでしょう』

 言い合いながら折り畳み傘を二人の間で行き来する。先輩はぐいぐいと私に折りたたみ傘を押しやり続ける――埒が明かない。

 私は思わずため息をつくと、折りたたみ傘をひったくって告げる。

『ならこうしましょう、先輩――相合傘です』

『……この小さい傘でか? それなら走って――』

『なら、私はこの傘をゴミ箱に叩き込んで一緒に走ります』

『……それはずるくないかね? キミ』

 先輩の眉尻が情けなさそうに吊り下がった。気弱になった瞬間を見逃さず、私は折りたたみ傘を軽く振りながら先輩に詰め寄る。

『私だって不本意です。けど、どちらも退く気がない以上、妥協点はここです。違いますか? 先輩』

 私の言葉に彼は視線を泳がせていたが、やがて根負けしたように深いため息をこぼした。

『……違いません』


 相合傘で帰ったこの日以来、私と先輩はよく言葉を交わすようになった。


『……げっ』

『げっ、とは何ですか、先輩。また生徒会の手伝いですか』

『……いやぁ、今日は委員会かな』

『またお人よし全開で。しょうがない人ですね』


 会うのは本当に些細なタイミング。

 委員会も部活も一緒ではない。というか、二人とも所属していない。

 それなのに……いや、それだからかもしれない。

 行く行く先でお節介を焼く彼に出会い続けた。


『……校外でも会うか……』

『本当に奇遇ですね。で、今日はどんな厄介事を?』

『厄介事言うな、この御婦人のお荷物運びを手伝っているんだ』

『……でも、先輩の家って逆方向ですよね』

『何で知っているかな、キミは……』

『雨の日に相合傘した仲じゃないですか』


 彼はいつでも自分より他人を優先した。

 困っている人を放っておけず、また弱っている人に敏感だ。

 かといって過干渉ではなく、さりげない距離感を保っている。


『……今日は手伝っていないんですね』

『まぁな。今回は手を貸すとかえって迷惑だろうから』

『それで屋上でずっと見守っているんですか。風邪、引きますよ』

『気にしなさんな』

『しょうがない人、ですね。じゃあ私もここにいることにします』

『……風邪ひくぞ』

『気にしないでください』

『……分かった、分かった。負けたよ』


 まるで自分の心を擦り減らすように、常に気を張り巡らせている彼が、何だか私は放っておけなくて。胸が締めつけられるように痛んで。

 いつの間にか、彼を見るたびに声をかけるようになって。

 彼の姿を目で探し、気にするようになっていた。


『悪いな、今回は巻き込んで』

『本当ですよ。埋め合わせはパフェの奢りでいいです』

『お前さん、ちゃっかりしているな……しょうがないな』


 他愛もないやり取りが増えてきて。

 一緒に帰ることもしばしば。トラブルは一緒に解決する。

 困っている人を放っておけない彼の周りには、優しい人がたくさんいて。

 そんな人たちと過ごす他愛もない時間が居心地よく思っていた。

 季節は巡り、夏が過ぎさり、秋を経て、冬を迎えて。

 春を目の前にした頃――私はすでに自覚していた。


(……私、こんなに先輩に惹かれていたんだ)


 冷たい風が吹いた2月14日――。

 彼を探して見つけた先の校舎裏で、思わず私は物陰で立ち尽くしていた。見てしまった光景が信じられなく、もう一度物陰から様子を窺う。

 そこで見えたのは一人の女子が、彼にチョコレートを差し出しているところだった。

 ただの義理チョコではないのは、本人の緊張具合から伝わってくる。チョコレートも綺麗に梱包された、手作り感漂うもの。だからだろうか、先輩も真面目な顔で話している。いつになく真剣な横顔に私は息が詰まりそうになる。

(……当たり前、だよね)

 あれだけ気が利いて優しくて、しかも顔が悪いわけじゃない。惹かれる女子がいないわけないのだ。それは分かっていたつもりだった。

 だけど実際のその光景を見ると、現実を突きつけられた気分で。

 くらり、と足元が歪む。胸が締め付けられるように痛んだ。思わず胸を押さえながら吐息をこぼし、ああ、と思わず空を仰いだ。

(私も先輩のこと、こんなに好きなんだ)

 この気持ちは知っていたはずだ。だけど、ずっと目を逸らしていた。

 先輩はしょうがない人だから。そう理由をつけて、一緒にいることをしょうがないと思っていた。気にしなさんな、と笑う彼の気持ちに甘えて。

 しょうがないから。気にしなさんな。

 その言葉を免罪符にして――私は、ずっと自分の気持ちから逃げてきたんだ。


 気が付くと私はふらふらと校舎に戻っていた。

 抜け殻のように自分の鞄を手に取り、そのまま昇降口に行き――ふと、立ち止まる。丁度、そこで先輩が靴を履き替えているところだった。

 お、と気づいて彼はいつもと同じ笑顔を浮かべる。微かに私は視線を逸らす。

『今帰りか。お疲れさん』

『先輩も今日は遅い、ですね』

『ん? いつもと比べれば早い方だと思うが』

 そうだった。先輩はいつも生徒会の手伝いをして帰るのが遅い。

 それは知っていたはずなのに。

『……大丈夫か? 何か疲れている?』

 気づくと彼は心配そうな顔で近づいてきた。びくり、と身体が跳ね、勝手に後ずさってしまう。彼の表情が微かに揺れる――しまった、と唇を噛んだ。

『すみません、ちょっと……その、動揺していて』

『ああ、うん……そういう日もあるよな。俺もいろいろあったから』

 彼は苦笑いをこぼしながら頭の後ろを掻く。その言葉でふと自分の鞄を意識する――そうだ、私もチョコレート、用意したんだった。

(でも……渡せない……)

 精一杯、作ったつもりだった。日頃の感謝の気持ちを込めて丁寧に。

 それでも私は所詮素人――形も歪だし、味見したチョコは少し苦みが交じっていた。うっかり直火にかけてしまったのが良くなったのだろうか。

 まぁ、日頃の感謝だからこれでいいよね、とそのときは思っていたけど――。

(こんなチョコ……渡せないよ……)

 この気持ちに気づいてしまった瞬間、これはただの義理チョコじゃなくて、私にとっては本命チョコ。だからこそ、こんなものは渡せない。

 だから――。

(ごめんなさい、先輩――作り直すから)

 無理やり、いつも通りの笑顔を浮かべてぽんと彼の肩を叩いた。

『気にしないでください、先輩。ね?』

『……ああ、そうだな。お前さんも気にしなさんな』

『分かっていますよ、もう』

 そう、気にしない。気にせずに前を向いて、また作り直せばいい。

 だから――。

『また明日、です』

『うん、また明日』

 いつも通り、私と彼は途中まで一緒に帰って笑って別れた。


 明日、彼の目の前に立って、本命チョコを渡すために。

 今度こそ勇気を振り絞るんだ。






   ◇◇◇


 不在着信:23件

 未読メッセージ:125件

 最新メッセージ『至急連絡ください』


   ◇◇◇





 その夜、私は必死にチョコレートを作った。

 コンビニに行っていろいろ考え、ネットでレシピを調べ、残った材料でチョコレートを作る。できるだけ丁寧に作り、温度管理にも気を配る。

 母さんも呆れながら手伝ってくれて――それでようやくできた。

 ――これが本当の正真正銘の、本命チョコ。

 これを明日、絶対に渡すんだ。深夜にそう胸に刻んで冷蔵庫に丁寧にしまう。

 そして、私は部屋に戻り、スマホを手に取って気づく――不在着信だ。

 しかも一件や二件じゃない。いろんな人から来ている。嫌な予感がしてメッセージアプリを開く。未読メッセージが多い。それの一つをタップして。

 血の気が引いた。手からスマホがこぼれ落ち。


『先輩――うそ、でしょ』


 乾いた音と共に、スマホが床を転がった。


 真夜中の病院は、静かだった。

 廊下には見知った学校のみんながいる。お人よしの彼に差し伸べられた手に助けられた人たちで、私も何度も言葉を交わした人たち。

 いつも明るく笑っている彼らは一言も喋らず、じっと何かに耐えるように静寂を保っていた。そんな中、私はただ立ち尽くし、目の前の病室の扉を見ていた。

 やがて、目の前の病室の扉が開き、一人の女性が出てくる。

 涙ぐんだ彼女は言葉にならない呻きをこぼすと、首を振って顔を押さえる。

 その嗚咽が響き渡った瞬間、私の膝からも力が抜けた。

 認めたくはない。だが、そこに集ったみんなの顔と、嗚咽が答えだ。


 彼は、死んだ。


 彼の母が涙ながらに語ったことによれば、彼は帰る途中に車に轢かれた、ということだった。飛び出した子供を庇っての事故。

『彼らしいな』

 養護教諭の小さく呟いた言葉に、誰かが同意した。私も同じだった。

 恐らく彼は危険に瀕した子供を見て迷いなく行動したのだろう。

 その結果、子供は無事助かり――彼は、死んだのだ。

 事実を知らされても尚、全員は沈黙を保っていた。私も何も言えなかった。何か言えばその事実が確定してしまう気がして。

 待っていれば病室の扉が開き、平然な顔をした彼が出て来そう――来て欲しい。

 それを願うように息を詰める。だが、病院の静寂は呪いたくなるくらい長く、いつまでも続いていた。


 気が付けば、私は家に帰っていた。

 養護教諭が気を利かせて各家に電話したのだろう、気遣うように母さんが出迎えてくれたのを覚えている。だけどまともな受け答えもできなかった。

 ただしばらくぼっとして――喉が渇いたことに気づき、腰を上げる。

 おぼつかない動きで台所の冷蔵庫に開け、ふと真ん中に丁寧に置かれた包みに気づく。それはつい数時間前に作ったチョコレートだった。

 丁寧に作った、彼のためのチョコレート。想いを込めたチョコレート。

 それを受け取ってくれる人は――もう、いない。

『……あ……』

 ぼろ、と涙がこぼれた。それを皮切りに次々と大粒の涙がこぼれて頬を伝う。

 想いを込めて作った本命チョコ。その受け取る人はもうおらず――冷たくなっている。その事実を突きつけられ、私はもう立っていられず。

 声を上げて泣くことしかできなかった。


 あの日から、丁度一年が経った。

 こうして丁寧に作ったチョコを手に、私は立っている。

 前にあるのは彼が静かに眠る場所。そこに刻まれた彼の名字を見ると、つんと鼻の奥が痛くなる。未だに彼がいなくなったとは信じたくない。

 その墓石の裏から、よっ、と何気ない仕草で出て来そうだ。

 視線を逸らしたくなる。逃げたくなる――だけど、ダメだ。

(あのとき、もし逃げなかったら)

 彼にチョコレートを渡せていたら。そんなことをずっと考えていた。

 だからこそ、今日もこうして――渡せない本命チョコを、作っていた。

 息を吸い込み、一歩、踏み出す。

「――先輩」

 声は情けないほど震えている。きっと彼が見ていたら苦笑を浮かべるはずだ。

 彼の仕方なさそうな笑顔を思い出し、涙がこぼれそうになる。それをぐっと堪えて勇気を振り絞る――前に進むために。


「私の、気持ちです」


 このチョコが絶対渡せないと知っていても。

 本命の想いを、ここで告げる。

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