第五章 五
御帳台を出ると、女房の一人がこう告げた。
「阿黎さまより言付かっております」
平たい鍵を渡され、台の裏側へ案内された。
ある場所に止まると、女房は床に膝をつき、繋ぎ目を二度叩いた。すると板が僅かに浮かび、爪を引っかけると、一定の長さに切られたそれが剥がれる。他の女房と協力して、下にあるものを持ち上げた。
出てきたのは、紐で括られた大きな箱。床にずっしりと置かれると、そこには二段の引き出しがついていることに気づいた。漆塗りの、立派な調度品である。
どうぞお受け取りください、と一礼し、速やかに板を戻して女房たちは下がって行った。
引き出しにはそれぞれ、小さな錠前がかけられている。
これは、と無憂が呟くと、阿嵐は手にしていた二つの鍵のうち一つを彼女に与えた。
「うちが代々引き継いでいる家宝だ」
屈むと、阿嵐は迷わず上の段にある錠前に触れ、鍵を差し込んだ。
かちり、と音を立て、外れた錠前を丁寧に床に置き、慎重に引き出しを引いた。
無憂はその中身を見て、やけに横長い箱の形に納得した。
深い青の柄巻に、蓮の花を模した鍔、鞘は真っ白な地に吼える龍が描かれている。真ん中の部分には帯執と、重く佩緒が巻かれていた。かなりの年代物だが、その姿は手入れが行き届いているとわかるほど美しかった。
阿嵐は、その太刀を持ち上げて両手を添える。
「ほら、君も」
促され、無意識に呼吸を浅くして錠前を外す。
下段の引き出しから出てきたのは、先程よりも遥かに小さい、短刀だった。
鮫皮の白い柄に、梅の花を象った鍔、鞘は表面がつるりとしていて、赤黒かった。
「太刀は
太刀よりかは小さなつくりだというのに、鉄の重みが感じられ、無憂は息を飲んだ。
「肌身離さず持ち歩くといい。いざという時に扱えるよう、手解きをしておかないとな」
「懐刀といったものでしょうか。護身用に女性が使うという」
「二本とも物怪を切るために作刀されたものだ。それぞれ加護が付与されているから、戦いの際も助けになるだろう」
実戦では優雅に舞う
乱雑に振るうことのないよう、扱い方を習得しなくては。
「大切にいたします」
引き出しの奥に置かれていた袋を被せ、二人は寝所の外へ出た。
雪が無憂の黒い髪にふわりと積もる。欄干からは白く染まった東浪見家の屋敷が見渡せた。空までもが灰色に染まった無彩色の世界は、あと少しで終わりを告げようとしている。雪の季節は終わり、暖かな陽光が地面を照らし続け、雪を溶かしきった時には、若々しい緑が顔を出し、色とりどりの花が咲くことだろう。
花の名をたくさん知っているはずなのに、なぜだか始めて春を迎えるような心地がした。長い長い夢から覚め、薄暗く憂鬱な場所からようやく踏み出した、そんな気持ちだ。
「兄上……、この度はおめでとうございます」
刀を持ち帰って来た阿嵐に対して、感極まった表情で阿久留が駆け寄って来た。
「ありがとう。これまで俺のために家督の座を守ろうと尽力してくれた、お前のその気持ちに応えるためにも、これからも精進していこう」
「やはり兄上がその刀を持つのに相応しい。僕の方こそ、これからも兄上をお支えします」
阿久留はふと、透廊から長い階段を見上げた。
「僕も、父上に会って参ります」
物悲しそうな面影が、階段の上へと消えて行く。
「今のうちにたくさん話をしておいた方がいいだろう」
そっと無憂は背中を押され、二人はその場を離れた。
部屋まで送られている途中、庭を見ながら歩いていると、東対についている短い階段の所に、士憂が腰掛けているのが目に入った。
「こんなところで何をなさっているのですか、兄さま」
「……ああ、白露」
傍らには木刀が置かれている。
「さっきまでそこで素振りをしていたんだが、疲れて少し休んでいたんだ」
紐で閉じられた本を片手に、読み耽っていたようだ。それにしては何だか浮かない顔をしていた。わざわざここにいるということは、何かあったのだろうと察し、無憂は言葉をかけようとした。しかし、先に口を開いたのは士憂だった。
「それより、何を持ってるんだ?」
「……東浪見家の家宝である名刀を授かりました。本日を持って阿嵐が正式に当主に任じられたのです」
「それは……。まことにおめでとうございます」
階を上がり、きちんと角度をつけて礼をする。
「ああ。あまり、恨を詰め過ぎるなよ」
肩に刀を乗せて、阿嵐は楽な姿勢をとった。
「お気持ち痛み入ります。ですが大丈夫です」
本を抱え、士憂は背筋を伸ばす。
「やはり俺は剣を振るうよりも、こうして腰を落ち着けて静かに過ごす方が性に合っているようですから。もう、慣れないことはいたしません」
誰に似たんだか、わかりませんけどね。と、表紙を撫でる。
「白露。これから大変だろうが、どうか無理をせず、自分を大事にしろよ」
「はい、兄さま」
「ここは村よりももっと厳しい世界かもしれないが、俺はお前が選んだ道を信じるし、途中で躓こうともその自信を胸に進んで行け。お前の兄は、何があってもお前の味方でいることを忘れるな」
士憂は視線を阿嵐の方への向けた。気づいた阿嵐は、目を細めてそれを返す。
「心に留めておきます。……兄さま。見てください」
無憂が手を向けたのは、広い庭ではなく、そこに咲いている梅の木々だった。
「濃い紅色が雪に映えて、綺麗だと思いませんか」
「ああ、そうだな」
士憂は村の屋敷にあった、椿の花を思い出した。
「近づくと良い香りもするのです。兄さまは嗅いだことはありますか。時期が終わる前に、ぜひ知ってほしいのです」
無憂を見下ろすと、彼女は麗しい蜜の瞳に雪を映し、清々しい微笑を浮かべた。
「そうしたら、次は春が来ます」
この庭では、四季折々の花が植えられている。一年を通して、様々な景色を見ることが叶うのだ。
中でも特に、春は色とりどりの花が咲き乱れるという。橋を渡った先にある中島のところには、太く大きな桜の木が立っていて、そこにもきっと薄桃色の花びらが散ることだろう。無憂が村にいた頃は、桜なんて見たことがなかった。山のどこかで、もしくは町へ降りる機会があれば一目見ることはできたかもしれない。けれどもう、そんなたらればに縋る意味はなくなった。
「……春はもっと、素晴らしい景色になるだろうな」
白一色から、暖かで鮮やかな色がこの庭を包むのだ。永遠に続くかのような冬が過ぎ去ろうとしている。花は我々の傍で、そんな時の流れゆく様を見せてくれていた。梅の蕾が全て開花し、見頃を迎え、そして散れば、次の花が咲き始める。そうやって季節は移ろい、時間は進んで行く。
長い、夢を見ていた。暗く冷たい雪の下で眠ったような、深い眠りの、朧気な夢。
「桜が、一番楽しみだ」
「ええ、私も」
やっと、進めるのだ。
士憂は笑った。
「そういえば、あの桜の木のところまで行ったことはありませんでしたね」
「蕾くらいしかないだろうが。気になるか、無憂」
「はい。まだ庭は行ったことのない場所ばかりですから」
「白露、こんな寒い日に散歩か」
平気です、と無憂は袖を上げてみせる。
「普段より丈が短いですが、分厚くて、何枚も重ねられていて、暖かいのです」
けれど、一旦刀を置かなければ、と言うと、阿嵐は士憂に太刀を差し出して、
「しばらく持っていてくれないか」
「……あ、え?こんな貴重なもの」
反射的に握ってしまい、鉄の重さに驚いたのも束の間、無憂の刀も押し付けられ、士憂は戸惑った。対して本人は、悠然と階段を降りて先に行ってしまう。
「どうしてあの人はこう……」
呆れてものも言えないとはこのことだ。家宝を簡単に人に預けるなど常識外れにもほどがある。
「白露、早く行ってやれ」
ため息を混じえながら、手の甲を外に向けて振る。
同じように戸惑っていた妹は、緩く苦笑して阿嵐の後を追った。
彼女の動きに合わせて、着物が揺れる。
紅梅と薄紅色の重ねである。
「……ああ。本当に、雪に映えるな」
冷たい色ばかりを着ていたから、こんな色も似合うなんて知らなかった。
変わり行く季節。変わり行く人々。
庭にもいずれ、雪解けの道ができる。その先へ歩んで行ける希望を、彼女は教えてくれた。
もう、大丈夫だ。
有彩色の二つの背中を眺め、士憂は春の訪れを密かに望んだ。
-終-
三千世界の鵺を殺し、君と蕚で眠りたい。 犬童那々丸 @se7_sousaku
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