ぼくの好きな隣のお姉さん

陽咲乃

ぼくの好きな隣のお姉さん

 ぼくが通っている中学校に、新しい先生が赴任してきた。

 彼女の名まえは大崎おおさき美保みほ。二十七才、独身。中二のぼくより十三歳年上。長い髪をアップにして、キリリとした表情で挨拶をしている。


「綺麗だけど、なんか怖そうだね」

 クラスの女子たちがひそひそと話す声が聞こえてきた。


 大崎先生は、つんとすました顔で講堂の壇上を降りた。彼女の耳が赤くなっていることに気づいたのは、おそらくぼくだけだろう。

 楽しい学校生活になりそうだと、にやける口元に力を入れた。


 ぼくの名まえは瀬尾せお弘樹ひろき。両親は七年前に離婚し、以来、父とは音信不通だ。ぼくにとっては面白い父だったが、あまりいい夫ではなかったのだろう。離婚してから母は見違えるほど明るくなった。


 専業主婦だった母は元看護師なので、再就職先はすぐに見つかった。やっぱり手に職があるのは強い!


 さっそく新しい町に引っ越し、「心機一転頑張るぞ」「おおー」と二人で拳を上げた。


 古いマンションだが、部屋は畳敷きで広かった。角部屋なので、隣にだけ引っ越しの挨拶をすることにした。

 日曜日の朝、少し遅めの時間にチャイムを鳴らして待っていると、「……はい」とインターフォンから寝ぼけたような声が聞こえた。


 母は気まずそうな表情を浮かべ、

「あの、お休みのところ申し訳ありません。お隣に引っ越してきたので、ご挨拶をと思ったのですが、もしあれでしたら出直しますので――」

「あ、いえっ、すみません。今、行きます」

 部屋の住人は、慌ててインターフォンを切った。


 母とぼくは目を合わせて苦笑する。

(悪いことしちゃったね)


 ガチャリと鍵を外す音が聞こえ、ドアが開いた。

 上下グレーのスウェットを着た女の人が、ボサボサの髪を撫でつけながら顔を出した。


「お休みのところすみません。隣に越してきた瀬尾と申します。こっちは息子の弘樹です。騒がしいこともあるかと思いますが、今後ともよろしくお願いします。こちら、よろしければどうぞ」


 母が綺麗な包装紙に包まれたお菓子を差し出すと「ご丁寧にありがとうございます。ここのお菓子、わたし大好きなんです」と女の人は嬉しそうに笑った。


 母たちは、しばらくお菓子の話で盛り上がっていた。

 やがて、退屈そうに見えたのだろう。女の人がぼくに話しかけた。


「弘樹くんは何年生?」

「二年生」

「そっかぁ。お姉さんは大崎美保といいます。よろしくね。美保姉ちゃんって呼んでくれると嬉しいんだけど、どうかなあ?」

「うん……美保姉ちゃん」

「くっ、かわ」

「え?」

「うふ。なんでもないよ~。わたしは近くの大学で先生になる勉強をしてるの」


 それを聞いた母の目が輝いた。


「もしかして国立の? すごい! 優秀なんですねぇ。わたしは看護師なんですが、来週からこの町の総合病院に勤務しますので、何かあれば声を掛けてください」


「はい、ありがとうございます。でも、看護師さんだったら夜勤とかで家を空けることも多いんじゃないですか?」


「そうなんですよ。まあ、この子も大きくなってきたことだし、留守番くらいできると言ってくれてるので……」


 母が心配そうにぼくを見た。


「じゃあ、困ったことがあったらいつでも美保姉ちゃんを頼っていいからね。弘樹くん」


「まあ、ありがとうございます! よかったね、弘樹」

「うん」


 こうして美保姉ちゃんとぼくたちは知り合い、何度か顔を合わせるうちに、すっかり仲良くなった。

 

 美保姉ちゃんは優しくていい人なのだが、少しおかしな性癖があった。

 疲れているときに、ぼくの匂いを嗅ぎたがるのだ。

 

 特に先生になってからはすごかった。よほどストレスが溜まっていたのだろう。よれよれの状態でうちに来ては、ぼくの頭をがしっと掴んですんすんと匂いを嗅ぐ。やめてよと言ってもなかなか離してくれない。


「お母さん、どうにかしてよ!」


 母に助けを求めても、

「いつもお世話になってるんだから、それくらいいいじゃない。思う存分吸わせてやりなさい」

「猫吸いじゃないんだから! これ、セクハラっていうんじゃないの?」


 そう言いながらも、ぼくが本気で嫌がっていないことに母は気づいていた。


 ◇


 美保姉ちゃんの部屋はいつも散らかっている。料理も下手だし、酔っ払って玄関先で寝ていることもある。おまけに小学生男児の匂いを嗅ぐ変態だ。


 だけど、隣の部屋のドアは、いつもぼくに向かって開け放たれていた。

 寂しいときや泣きたいとき、美保姉ちゃんはいつもそばにいてくれたし、一日の出来事の報告も母より美保姉ちゃんにすることが多かった。


 ぼくは母に教わって掃除や洗濯の仕方を覚え、やがて簡単な料理なら作れるようになった。もともと器用な性質たちだったのだろう。今では美保姉ちゃんの家の片づけもぼくがやっている。

 

 そんな美保姉ちゃんが、今年の春からぼくの中学に赴任してきたのだ。テンションが上がるのも当然だろう。

 昼休み、美保姉ちゃんを探していると、いきなり社会科教室に連れ込まれた。


「もう限界。吸わせて!」

「ちょ、ちょっと待って。ここじゃ見えるから、奥の部屋で」


 ぼくは美保姉ちゃんをズルズルと準備室の方へ引きずっていく。

 スーハーとぼくの頭の匂いを嗅ぐ変態さんに、

「もうっ、誰かに見られたらどうするの? 淫行教師として捕まりたいわけ?」

「ううっ、違うもん。癒されたいだけだもん」

 ぼくに叱られて、美保姉ちゃんはしゅんとする。まったくダメな大人だ。


「美保姉ちゃんのこの癖、ぼくが大きくなったら治ると思ってたのに」

「え、なんで?」

「小さい男の子限定だと思ってたから」

「そ、それじゃあ、まるでわたしが小児性愛者みたいじゃない!」

「違うの?」

「違うわよ! 弘樹くんは特別。いい匂いだし、落ち着くの。誰の匂いでもいいってわけじゃないから!」

「へえ、そうなんだ。なんでだろうね?」

 ぼくは美保姉ちゃんの目をじっと見つめた。

「なんでって……なんでかな」


 頬を赤く染め、落ち着かない様子の彼女を見て、胸が躍った。

 相手の匂いが好き。それが恋愛においてとても重要だってことは、ぼくだって知っている。

 

 だけど、美保姉ちゃんは教師だ。危険をおかすわけにはいかない。

 ぼくが高校を卒業するとき、美保姉ちゃんは三十一歳。そこからがスタートだと考えている。


 それまでに彼女に恋人ができたら――まあ、多少の不安はあるがたぶん大丈夫だろう。なにしろ、美保姉ちゃんにとってぼくは何よりも優先すべき存在なのだ。


 過去にも、彼女に恋人ができて、デートに出かけたり家に連れてきたりしていたが、ぼくはいつもさりげなく邪魔をした。


 病気の振りをして甘えたり、部屋に上がり込んで居座ったり。美保姉ちゃんは恋人がいてもぼくにばかり構うから、やつらは憤慨して去っていく。


 何度かそんなことを繰り返すうちに、美保姉ちゃんもめんどくさくなったのか、ここしばらくは彼氏ができた様子もない。もしできたとしても、全力で阻止するまでだ。


 母はそんなぼくを横目に見ながら「んでるねえ」と呆れたように言う。

「反対はしないの?」

 試しに聞いてみると、

「べつに。悪いことしてるわけじゃないし。若くても変な女を連れて来られるよりは、美保ちゃんの方がいいわ」

 ざっくりとだが、賛成してくれた。


 ◇

 

 始業式のあと、美保姉ちゃんは先生たちと飲みに行ったらしい。夕方、うちの前で鍵を片手に「開かないよー!」と叫んでいた。


「なにやってんの。ここは美保姉ちゃんのうちじゃないでしょ。お巡りさんに捕まっちゃうよ」

 

 相変わらず酒癖が悪い。酔った彼女を支えながら、部屋のドアを開けた。


「ほら、しっかりして」

 水を飲ませ、スーツの上だけ脱がせる。もちろん変なことはしない。


「弘樹く~ん。だいしゅき~」

「はいはい。ほら、横になって」

 

 ベッドに寝かせて布団をかけようとすると、ぐいっと引っ張られて布団の中に引きずり込まれた。


「いーやーだー! 一緒に寝るのぉ!」

「ちょ、美保姉ちゃん、離して」


 ぼくを抱き枕のように抱え込み、頭の匂いを嗅ぎながら眠ってしまった。まったく、タチの悪い酔っ払いだ。


 ぼくは鏡台にあったクレンジングで美保姉ちゃんの化粧を拭き取り、化粧水を浸したコットンを優しく顔にあてる。


「ぼくが大人になったら覚悟してね」

 耳元でそっとささやくと、美保姉ちゃんは身体をぶるっと震わせた。


 ぼくの身長はあと少しで美保姉ちゃんに追いつく。十八歳になるまでには追い越せるだろう。歴代の彼氏たちもそんなにでかいやつはいなかったから、身長はあまり気にしないはずだ。



 十八歳まであと四年。

 四年後、ぼくは必ず彼女を手に入れる。

 




 






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