第13話 十字架

 利英りえいの命令で、蓮の軍勢が、自軍の城に襲いかかった。対峙していた北方遊牧民も驚いたに違いない。


 利英は、時間をかけて積み上げたものを、最後の最後でひっくり返したのだ。三カ月間に及ぶ籠城の苦難も。われわれが二週間かけて掘った抜け穴の策も。


 炎に包まれ、燃え落ちる城を見ながら、わたしはしばし言葉を失った。

「……信じられない。何ということをするのか」


 だが、師父の捉え方は違っていた。師父はわたしに言った。

小雨しょううよ。あの利英という皇子、覚えておくがいい。うつけ者か、抜け目のない曲者か、どちらであろうな」


 わたしは師父に言い返す。

「お言葉ですが。この蛮行のどこに抜け目のなさがあるのですか?」

「確かに蛮行だ。しかし、城が敵の手にわたるのを防いだではないか。自軍の城を攻める大義名分と共に」


 わたしは師父のその指摘にうなった。

 敵の襲撃を抑えきれない城に見切りをつけたのだとすれば、確かにそれもひとつの戦術だ。


 この出来事は、わたしの心に強烈な印象を残した。先ごろ倫安に着いたときも、後宮に入ったときも、わたしは頭の片隅で、利英のことを気にしていた。


 国境の戦場で、わたしはずっと男装のまま、兜を目深にかぶっていた。利英とは言葉を交わしていない。わたしのことは気づいていないと思うが、どうだろうか。


 わたしは海燕かいえんに問いかける。


「おい、さっきの利英皇子がふくろうの飼い主なのか?」

「梟なんて後宮にはいませんよ。——と言っても、小雨さまは信じないでしょうなぁ」

「当たり前だ。まだそんなことを言うか」


 海燕が不適な笑みを浮かべて言う。

「ひとつ言えることは。わたしと小雨さまは、存外うまくやっていけるかもしれない、ということです」

「お前のような信用できないやつと、何をどううまくやっていくのか」

「敵の敵は味方、というじゃありませんか」

「敵とは、誰だ」


 そこまで話すと海燕は口をつぐみ、わざとらしく拝礼して立ち去った。


 わたしは舌打ちをした。

 海燕の態度と利英の言葉を思い返しながら、あれこれ考える。だが、推論を導くには材料が足りない。


 広場では、女たちの休憩が終わったようだ。紅花こうかの指揮で、教練が再び始まっていた。


  ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎


 倫安の夜は早い。


 日が暮れると、通りから人がいなくなる。


 夜は店の営業に制限がかかるため、娼妓のいる店など一部の区画しか賑わっていないのだ。


 わたしは、夜はなるべく翠玲すいれいと部屋でゆっくり過ごすことにしている。


 夜の街で情報収集が出来ない訳ではないが、それよりは翠玲のそばについていたかった。


 いま翠玲は、部屋で、安家から持参した小箱を次々とひっくり返している。


 翠玲にはこのうえなく好きなものがあった。


 宝石だ。


 服装には頓着がない翠玲も、宝石には執心している。服飾品というよりも、石そのものへの関心が強い。女はたいてい宝石が好きだと思うが(わたしはそうでもないが)、翠玲の入れ込み方は半端ではなかった。


 翠玲は自分が持っている宝石を一つひとつ取り出して、机に並べたり、じっと眺めたりしている。


 わたしは翠玲のそんな姿が何とも微笑ましく、宝石を眺める翠玲を、飽きずに眺めていた。


雨雨ゆいゆい、ちょっと見てくれ。ほら、この石。素晴らしいだろう」

「これは琥珀こはくですね。蝋燭の光に映えて、きれいです」


「雨雨はこの中では、どれがいいと思う?」

「この紅い血のような石ですね」


辰砂しんしゃか。うん、これも良いものだ」

緑松トルコ石もずいぶんたくさんあります」


「これとこれなら、雨雨にあげてもいいぞ。でもこっちはダメだ」

「わたしは宝石なんか要りませんよ」


「薄情なことを言うな。そうだ、雨雨。同じ石をおそろいで身につけよう」

「ふふふ、ではお嬢さまが選んでください」


 翠玲がこれほど宝石に入れ込むのには、理由がある。


 翠玲の名の「翠」の字は翡翠ひすいを、「玲」の字は玉と玉が触れ合う音を意味する。翠玲の名は、宝石そのものなのだ。


 名をつけたのは、翠玲の母親だ。掌中の珠である自分の娘を、宝石になぞらえたのだろう。


 翠玲は宝石を通じて、母親を感じている。

 わたしはそう思っている。


 その証拠に、翠玲が一番大切にしている宝石は、母親が故郷の払菻ふつりん(東ローマ帝国)から持参した品々だ。


 わたしも見せてもらったことがある(繰り返し無理矢理、見させられた)。


 それは不思議な形をしていた。

 鎖の先に、二本の棒が交差した意匠の石がついている。


 翠玲は得意げに話した。

「雨雨、これは十字架クロスというのだ。神の御子がはりつけにされた棒をかたどったものだ」

「ふうむ。漢の高祖が彭越ほうえつを処刑した時のような棒でしょうか。何だか縁起が悪いですね」


 わたしはけちをつけたが、翠玲は十字架をとても気に入っていた。いまも十字架の首飾りや耳飾りをためつすがめつしている。


「お母さまは、わたしの前で、よくこう唱えていた」

 翠玲は十字架を握りしめるとつぶやく。


「hosanna(主よ、我らに救いを)」


 わたしは翠玲を横からそっと抱きしめる。

 いじらしさと切なさを感じながら。


 翠玲が東宮妃候補になることを承諾した理由には、亡き母親が関係している。わたしはその事情を知っていた。


 さて、宝石の話には続きがある。


 翠玲がずっと切望していた、街歩きに出かけた日のことだ。

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