第12話(修正版) 梟と虎

 わたしを見た宦官が、微笑みながらゆっくり立ち上がる。その藍色の服から、覚えのある伽羅きゃらの香りが漂った。

「これはこれは。安家の天小雨てんしょううさま、ご機嫌よう」


「お前に名乗った覚えはない」

「いえいえ。先日は気付かずに失礼しました。相手が貴方なら、あの身のこなしも納得です」


「人のことを勝手に詮索するな」

「先ほどの教練も見事なご助言でしたね。さすがは策子さくしの次期当主と目される小雨さまです」


 こいつは本当に食えないやつだ。

「そういうお前は上手く役人に紛れこんでいるようだな。こんな所で木簡を拾っている玉ではないだろう?」

 宦官はそれには答えず、わたしに拝礼する。

「自己紹介がまだでしたね。徐海燕じょかいえんと申します。お見知り置きください」


海燕かいえん? つばめふくろうとは、ふざけた符牒ふちょうだ」

「ふふふ。梟なんてものは、後宮ここには存在しませんよ。ただの噂ですから」


 むろん表向きにはそうだろう。間諜かんちょうは公の存在ではない。だからこそ、こいつは愚鈍を装って宮仕えしているのだ。


 わたしは海燕に近寄ると押し殺した声で言った。

「お前、翠玲すいれいお嬢さまに手出しをしたら、ただでは済まさんぞ」

 海燕は狐じみた細い目を光らせる。そこでようやく酷薄そうな素の顔を浮かべた。

「いいねぇ、小雨さま。そのきれいな顔で、そんな風に凄まれると、ぞくぞくするよ」


「ふざけた口をきくな。舌を切り落とされたいか」

「本気で気に入ったんだけどなぁ、小雨さまのこと。わたしの良い人になってくれないかなぁ」


 わたしは海燕の靴を踏みつけ、間髪を入れず右手の掌底しょうていをその鳩尾みぞおちに叩き込む。海燕は靴を踏まれたせいで後方に逃げられず、衝撃をまともに食らった。


 普通の人間なら嘔吐して卒倒する一撃だ。海燕は咳き込んだだけで倒れず、表情も変えないのが、さすがだった。


「ふざけた口をきくなと言ったはずだ」

「くくく。骨のある女は好きなんだ。むしろ、ますます気に入ったよ」


 狂っている。

 どう痛めつけてやろうかと思案していたとき、向こうから彼を呼ぶ声がした。

「海燕」


 その声に、海燕が動きをとめる。

 海燕の肩越しに声の主を見たわたしも身構えた。


 黒色の服を着た男が近づいてくる。

 第五皇子の王秀英おうしゅうえいだ。


 海燕とわたしはほぼ同時に片膝をつくと拝礼して頭を下げた。


「構わん。顔を上げよ」

「ははっ」


 秀英が海燕を見る。

「海燕、女にちょっかいをかけているのか」

「めっそうもございません」

 海燕がかぶりを振って答えた。


 わたしは心の中でいぶかしむ。

 秀英が気まぐれに声をかけてきたのか。それとも海燕と通じているのか。声色からはどちらとも言い難い。


 秀英は今度はわたしを見た。射るような視線だ。

「女、お前は何者だ?」

「はい。安家の侍女でございます」

 わたしは短く答える。嘘はついていない。


 秀英は面高の整った顔立ちで、日焼けした浅黒い肌をしている。

「名は何という?」

「小雨でございます」


 秀英はわたしの顔をしばらく見つめた後で言った。

「ふうむ。お前とは、どこかで会った気がする」


 わたしは袖口で口元を隠すと、微笑みながら答える。

「まぁ、殿下はお上手でございますね。皆にそうおっしゃっているのでしょう」


 わたしはあえて侍女らしい反応をしてみせた。もし、秀英と海燕が通じていたら、わたしの素性などすぐにばれるだろうし、あるいは既にばれているかもしれないが。


「俺は女にそんな戯言ざれごとは言わぬ。まぁいい。海燕、ほどほどにしておけよ」

 秀英はそう言うと立ち去った。


 わたしは心臓の鼓動が早まっていた。


 禁軍の虎——。

 人は秀英のことをそう呼ぶ。


 秀英がわたしに向けた言葉が、戯言ではなく、本気だったのであれば。彼の勘は相当に冴えている。野生の動物、それこそ虎のように。


 なぜなら、わたしは秀英とは前に一度、戦場で遭遇しているからだ。


  ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎


 あれは三年前。

 北部国境付近の城が、先日のように、北方遊牧民の襲撃を受けた際のことだ。


 敵の攻勢に押され、城は成す術なく籠城に追い込まれた。

 そして三カ月間の膠着が続いた末に、城主から策子さくしに「城内の人間を逃がす手助けをしてほしい」と要請が入る。


 師父が要請を受け、わたしも師父の補佐として参戦した。


 それは酷い戦場だった。


 冬が近づき、草木が枯れた平原の向こうで、堀や土塁を潰された城が丸裸になっている。城内では食糧がなくなり、戦のための馬すら食べ尽くしていた。

 

 蓮はもちろん援軍を派遣したが、僻地のうえ地の利が悪く、城を囲む敵を蹴散らすことができない。


 師父とわたしは、城から少し離れた援軍の本陣に合流する。いくつかの選択肢を検討した末に、城へ通じる抜け穴を掘ることにした。


 人夫を動員し、本陣の幕の内から城に向かって地下道を掘る。敵に気付かれないよう、地上で陽動の攻撃を仕掛けながら、慎重にことを進めた。


 その本陣の指揮官こそが、秀英だった。


 約一カ月後、苦労して掘った抜け穴が完成する。夜陰に紛れ、城の人間が抜け穴から逃げてきた。そのときだ。


 真っ先に逃げてきたのは、女でも老人でもなく、城主だった。


 秘蔵の金品を抱えて抜け穴から現れた城主を見て、秀英が吠えた。


沐猴もっこうにして冠す」


 沐猴(猿)が冠をかぶっている——。城主が先に逃げたことを、人の振りをした猿のように下劣だと言ったのだ。


 秀英は剣を抜くと、その場で城主の首を斬り落とした。


 その場面を間近に見たわたしは、秀英の剣幕に気押された。


 そこまではまだいい。

 指揮官として成すべきを成したとも言える。彼が本当に恐ろしいのは、そこからだ。


「城を落とせ」


 秀英が本陣の軍勢に命じた。


 わたしは耳を疑った。

 秀英は怒りにまかせて、自軍の城を攻めたのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る