第8話(修正版) 二人の関係

 陽紗ようしゃを訪ねたことで、宮中での暮らしについて、具体的に考えられるようになった。


 わたしは想像の中で、宮中の景色に翠玲すいれいを置いてみる。


 正直言って、違和感しかない。翠玲が醸し出す天衣無縫の空気は、厳粛な宮中とはまるで違うものだ。


 あえて避けていた物事も、思い浮かぶようになった。


 もしも翠玲が本当に東宮妃になったら——。


 当然ながら、翠玲は皇太子のものになるのだ。わたしは翠玲が皇太子の寝所に呼ばれる場面まで想像してしまい、胸が締め付けられた。


 わたしもずいぶん弱い人間になったものだ。自分ではない誰かのことで頭がいっぱいになるなんて。昔のわたしなら考えもしなかった。


 師父の命を受けて安家に赴き、翠玲に出会って一年あまり。わたしと翠玲の間には深い絆が生まれた。わたしたちは主従であり、友であり、そして特別な関係にもなった。


 翠玲を東宮妃にすることがわたしの任務だったはずだが、もはやその任務には懐疑的だ。


 だから翠玲から「幸せになれるか?」と聞かれたときも、即答できなかった。


 どうすれば東宮妃選抜から逃れられるか。正直、そんなことばかり考えている。安家と宮中を裏切る行為になるかもしれないのに。


 そして、わたしは美友みゆのことを思い出した。


 美友は、同じ策子の一族で、妹分だった。わたしが翠玲の侍女となることに、美友は最後まで反対していた。


「あいつは魔女だ!」

 美友は翠玲のことを、そんな厳しい言葉でなじった。


「そんなことはない」と反論するわたしのことを、美友は「夷狄いてきの魔女に心を奪われ、自分を見失っている」と嘲笑あざわらった。


 いまにして思えば、美友の言葉は間違っていない。わたしは確かに翠玲に心を奪われた。


 だが、それでも構わない。

 わたしは、翠玲に振り回されている自分が嫌いではない。わたしにも人間らしさが残っていたのだと、嬉しくもあった。


  ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎


 その日、わたしは朝から宮城に赴く準備をしていた。陽紗のもとで侍女の修行をするためだ。それを聞いた翠玲が騒いだ。


雨雨ゆいゆいだけ出かけてずるい。わたしも一緒に行く」

 翠玲は倫安に着いてから、ずっと屋敷に足どめされている。気持ちはわかるが、承諾できない。


「翠玲、宮中に赴くのは、いずれ正式な挨拶が終わってからにしましょう」

 わたしがそう言うと、翠玲がむくれた。

「じゃあ、街に遊びにいく」


「それもだめです。近々わたしが連れて行きますから。今日は我慢してください」

「えー、そんなぁ。嫌だ嫌だ嫌だ……」

 気軽に出歩いてもらっては困る。あの宦官のような油断のできない相手が網を張っているのだ。


「今日は曹先生が来て、宮中の礼儀について講義してくれるそうです」

じいの講義なんて、それこそ退屈すぎて気が遠くなる」

「翠玲、こっそり逃げ出したら駄目ですよ」

 わたしは可琳かりんに加えて侍女四人を翠玲の世話と監視に貼り付け、さらに屋敷の警護も増強した。


 そんなやり取りがあったので、わたしが出かける段になっても、翠玲はまだぐずぐず言っている。

「雨雨と離れるのは嫌だ。さみしい」


「翠玲と離れるのは、わたしもさみしいですよ」

「雨雨、お出かけ前の口付けをしてくれ」


 翠玲の願いに応え、わたしは翠玲を抱きしめ、口付けをする。そのうちに愛おしさが込み上げ、深くむさぼるように唇を求め合った。


 部屋でそんな風にむつみ合っていると、侍女のひとりがわたしを呼びにきた。


小雨しょううさま。馬車の用意ができました——。あっ、すみません! お邪魔でしたか?」


「お邪魔じゃないわよ。大丈夫」

 わたしはあわてて翠玲から身を離す。

 翠玲が「むふふ」と笑って自分の唇をなめた。


 その侍女は芽衣めいという名で、屋敷から後宮に通って陽紗に仕えている。十三歳と若いが、よく気がつく働き者だ。


 わたしは屋敷の馬車で芽衣と共に宮城に向かった。


 馬車の中で、芽衣がわたしに話しかけてくる。うっとりとした口ぶりで。

「翠玲さまと小雨さまは、何だか恋人同士みたいで、素敵ですね。小雨さまは外見も男装で貴公子のようですから」


 わたしはコホンと咳払いをして話す。

「そのことなのですが。わたしはお嬢さまに男女のことを教える使命があるのです。東宮妃になった暁に、皇太子に粗相のないようにと。先ほども閨房けいぼうでの振る舞いを教えていました」

「まぁ、そうだったのですね!」


「そうなのです。だから、恋人同士みたいなどと言ってはお嬢さまに失礼ですから。口外しないようにお願いします」

「なるほど、承知しました!」


 何だか苦しい釈明になってしまった。芽衣が言いふらさなければ良いのだが。


  ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎


 宮城では陽紗が笑顔で出迎えてくれた。


「陽紗さま、ご無理をきいて頂き、ありがとうございます」

「いいのよ、小雨。これも翠玲のためだから。こちらこそ、よろしくね」


 陽紗の助言を踏まえ、きょうのわたしは胡服こふく姿だ。女性でも乗馬のときに着ることがある。男装に近く、わたしには合っていると思う。


 陽紗はわたしを連れて、改めて宮中を案内してくれた。上位のきさきである陽紗に案内してもらうのは気がひけるが、陽紗ならではの気遣いなのだろう。


 さて、そうして宮城の中央にある石畳の広場に差し掛かったときのことだ。


 広場には、後宮のほかに、太極宮と東宮も面している。広場は三つの宮をつなぐ結節点であり、憩いの場でもあった。


 その一隅に、何やら物々しい集団がいた。


 五十人くらいが集まり、隊列を組んでいる。


「陽紗さま。あれはいったい何ですか?」

「あれは後宮の女官や侍女よ。わたしの侍女も参加しているわ」


 女たちは手に槍やほこを持っている。敵を迎え撃つかのような勇ましさだ。


「何だか兵士の教練のようにも見えますね」

「まさにそうなのよ」


 陽紗がため息をつく。内侍府ないじふの命令で、昨日から始まったらしい。


 きっかけは数日前、北部の国境付近の城が、北方遊牧民の襲撃で落とされたことによる。その出来事はわたしも耳にしていた。


 北方遊牧民との衝突は今に始まった話ではないが、仁祐帝じんゆうていは事態を重くみた。そして皇族や貴族らに、気を引き締めるようにと警鐘を発した。


 内待府がそれに過敏に反応した。後宮の女性らに武器を持たせた教練をさせることを突然決めたのだという。


「それは面倒な話ですね」

 わたしは苦笑した。


 役人が、皇帝へのごますりで思いついたに違いない。女たちに急ごしらえで武器を持たせたところで、何もできないだろう。


 陽紗が打ち明ける。

「内侍府は酷いことに、わたしたちに丸投げなのよ。わたしと同じ九嬪きゅうひんの位のきさきが担当を命じられたのだけど。何をやればいいか、全然わからなくて」


 そこまで話したとき、陽紗が急に立ちどまる。そして何かに気づいたように、わたしを見た。その瞳の輝きを見た瞬間、わたしは嫌な予感がした。


「小雨。ねぇ、天の配剤とは、こういうことを言うのね」

「陽紗さま、何のことでしょう」

「うまい具合に、あなたがいるじゃないの。うん、あなたなら、あの女たちを指導できるわよね」

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