第7話 嘘が多すぎる
すっかり日が暮れてしまった。
わたしは安家の屋敷にたどりつくと、奥の間にずかずかと入った。
「お嬢さま!」
あの藍色の服を着た宦官が立ち去った後、わたしは急いで帰路についた。あいつが翠玲に直接何かをするとは思えなかったが、安心はできなかった。
あいつは許さない——。
あの宦官のふざけた態度を思い出すだけで、吐き気がする。
「
翠玲が口をとがらせた。例によって着物が崩れ、すらりと細長い白い手足がむき出しになっている。
「お待たせして申し訳ありません」
「雨雨の帰りがあまりに遅いから、
見れば、可琳が色とりどりの布地を巻きつけられ、顔に紅を塗りたくられ、無言で震えていた。
可琳はわたしが「翠玲を守るように」と言いつけていたので、翠玲から逃げられなかったのだろう。
「お嬢さま、わたしの従者を
「玩具ではない。人形だ」
「同じことです!」
まったく、これだから翠玲からは目が離せないのだ。
わたしは可琳を翠玲から引きはがし、顔の紅を拭きとってやる。
買ってきた
「そうか。陽紗お姉さまは、お元気だったのだな」
「素晴らしいお方でした。お嬢さまのことを案じておられましたよ」
そんなやり取りをしていると、突然、翠玲がわたしの顔をじっと見て言った。
「雨雨、どうした? 何かあったのか」
「何もありませんよ」
「ちょっとこっちへ来い」
わたしは翠玲の椅子のそばに近づく。
翠玲が立ち上がった。
翠玲は女にしては背が高いが、わたしは翠玲よりもさらに少し高かった。
翠玲は立ったまま両手でわたしの顔をはさみ、澄んだ目でのぞきこむ。
「雨雨、何か嫌な目にあっただろう?」
「いえ、あっていません」
「お前はまた嘘をついている」
翠玲には、嘘が通じない。
これは理屈では説明できない、特殊な能力だ。翠玲は他人の嘘を見分けることができる。
ただし、翠玲はわたしに対しては、その能力をあまり使わない。何故ならわたしは嘘ばかりついているからだ。
翠玲に言わせると、わたしは嘘が多すぎて、「いちいち確認していたらきりがない」らしい。
翠玲がいきなり、わたしの着物の帯を解き始めた。わたしは抵抗せず、されるがままで、まもなく下着姿にさせられた。
「雨雨から、男の匂いがする」
「男と密会などは致しておりませぬ」
わたしはやや弁解がましく言った。
あいつは男とは言い切れない、宦官だったが。
翠玲はくくくと笑う。
「雨雨の浮気など微塵も疑っておらぬ。だって雨雨は、わたしのことが大好きだからな」
「まぁ、それは否定しませんが」
わたしは顔が赤らむのを感じる。
翠玲が下着の上から、わたしの胸を撫でた。
「あ」
思わず声が漏れた。
そこはちょうど、あの宦官に触られたところだ。
翠玲の手のぬくもりに、わたしは何だか涙が出そうになる。繰り返し、やさしく撫でられているうちに、ささくれだっていた気持ちが落ちついてきた。
「雨雨。馬鹿だな、お前は」
「馬鹿でしょうか。自分では利口な方だと思っています」
「馬鹿に決まっている。ひとりだけこっそり傷つくことはない。嫌なことがあれば、わたしに言っていいのだぞ」
翠玲はわたしの顔を再び両手ではさみ、わたしに口付けをした。まず、おでこに。それから、鼻と頬と、最後に唇に。
わたしは吐息をもらすと、ささやく。
「……子供が見ています」
可琳が部屋の隅で真っ赤になって、もじもじしていた。
「あれは人形だ」
翠玲が笑う。
「ひどいです。人形呼ばわりなんて」
そう答えながら、わたしも釣り込まれて笑った。
わたしは翠玲から身を離すと、上着を拾い上げて羽織った。
気持ちが落ち着き、頭が冷めていた。
翠玲に触られた胸は熱くなっていたが、でも大丈夫だ。いつもの調子が戻っている。
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
翌朝、わたしは夜明けの光に浮かぶ室内を眺めていた。
寝台では翠玲が健やかな寝息をたてている。わたしは寝台のそばの椅子に座り、翠玲の寝顔を見守る。扉の近くでは可琳が子犬のように丸まって寝ていた。
わたしは普段から眠ることがない。
いや、眠れないと言った方がよい。
いつの頃からだろう。わたしは眠れなくなった。
体力を回復するために横になって目をつむることはあるが、眠りに落ちることはない。
間違いなく身体には悪いと思う。寿命を縮めているのではと不安を感じることもある。
香をたいたり、枕をかえたり、安眠にきくといわれる牛の乳や漢方を飲んだり。いろいろ試してみた。だが、まったく眠くならない。
そんなわたしに、翠玲はこう指摘した。
「雨雨は戦場暮らしが長すぎて、気が抜けなくなっているんじゃないか」
そうかもしれない。
その指摘には、わたしも納得した。
翠玲はこれまでにも、何度もわたしを眠らせようとした。「一緒に寝てやるから、ちょっとは肩の力を抜け」と言って、わたしをよく布団に引っ張りこむ。
翠玲と一緒だと、心が満たされて安らぐこともあれば、むしろ気持ちが
だから、わたしは夜はひとり、こうして朝まで過ごしながら、思索にふけったり、戦略をたてたりするのが常だった。
「雨雨、いつか、お前を眠らせてやるぞ」
翠玲はそう口癖のように言うのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます