第5話 安家の姉妹

 陽紗ようしゃは遠くを見るような目で静かに話す。


翠玲すいれいとはもう何年も会っていないから。宮中に入ると聞いたときは、感慨深かったわ。いつの間にか、そんな年齢になっていたのね」


 きさきは一年に一度、後宮の外に出ることが許されている。希望すれば里帰りも出来なくはないが、安家の本拠地は倫安から馬車で何日もかかる。おいそれと帰ることはできないのだろう。


 陽紗が言葉を続ける。

「わたしと翠玲は歳が離れているから、一緒に遊んだこともほとんどなかった。あの子は今さら、わたしに会いたいとは思わないかもしれない」

「そんなことはありません。陽紗さまのことは、きっと頼りにしているはずです」

「だと良いのだけど」


 わたしはふと、気になっていたことを聞いてみた。

「そういえば、翠玲お嬢さまのお母さまのことは、ご存知ですか」

「ほとんど知らないわ。翠玲がまだ小さい頃に亡くなったから」


 翠玲の母は、拂菻ふつりんという国の都から来たと聞いている。蓮よりもずっと西方の、絹の交易路の終着点で、わたしたちとは異なる皇帝を崇める国だ。


 倫安には、あらゆる国の人が集まる。髪の色も、肌の色も、眼の色もさまざまな人がいる。そんな倫安でも、拂菻の人はめったにいない。


 拂菻、またの名を東ローマ帝国と呼ばれる国の都、コンスタンティノープルは、それほどに遠い、遥かな果ての地だった。


「翠玲の母のことで覚えていることは、ずっと西の空を眺めていたことだわ。あぁ、翠玲もそう。あの子もいつも空を眺めていたから」


 わたしと初めて会ったときも、翠玲は空の彼方を眺めていた。そのときの翠玲の横顔と、蒼玉そうぎょくのような瞳に、わたしは胸を打たれたのだ。


「ねぇ、小雨しょうう。わたしは正直に言うと、翠玲が後宮に馴染めるのか、不安もあるわ。あなたから見た翠玲はどんな人に見える?」

天女てんにょです」

 間髪を入れずに答えると、陽紗が笑った。

「あらあら、ずいぶんとお高く評価しているのね」

「天女の衣は、天衣無縫といって、縫い目が無いそうです。翠玲お嬢さまはまさに天衣無縫です。誰にも似ていない、強さと美しさの持ち主ですから」


 陽紗はわたしの手をとると言った。

「小雨、わかっていると思うけど。とても怖いところなのよ、宮中ここは」

「そうでしょうね。覚悟しています」


「でも、あなたがそばにいたら、大丈夫かもしれない。どうか翠玲を守ってあげてね」

「はい。お任せください」

 わたしは力強くうなずいた。

 もとよりそのつもりだ。


 それから陽紗は、わたしを後宮の散歩にいざなった。


 後宮は広大だ。

 敷地の中に竹林があり、築山があり、川が流れ、池があった。

 涼風が吹き抜け、池の水面に小波が立つのを見ていると、ここが隔絶された空間であることを忘れそうになる。


 わたしたちは歩きながらあれこれ話すうちに、宮城の広場に面した一角に出てきた。


「あの建物に、皇后がいらっしゃるのよ」

 陽紗が広場の近くにある、ひときわ大きな建物を示して説明してくれた。その言葉を受けて、わたしはたずねた。


「陽紗さま、皇后にお会いする機会はありますか」

「ほとんどないわね」

「同じ後宮にいらっしゃるから、頻繁にお会いしているのかと」

「もちろん、宮中の行事に一緒に参列することもあるわよ。でも、個人的に言葉を交わす機会は少ないわ」


 さて、わたしはこの時、何気ない風を装いながら、陽紗の返答に細心の注意を払っていた。


 わたしは翠玲を東宮妃にするという依頼を承諾したとき、同時に、まず取り組むべき「密命」も受けていた。


 それは、皇后に会うことだ。


 陽紗に会いにきた理由は、本当にご挨拶とご機嫌うかがいだ。だが、皇后に会う手がかりを得たいという思いもあった。


  ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎


 そもそも翠玲を東宮妃にするという依頼は、安家から出たものではない。発端は、皇宮のさる筋からの依頼だった。


 策子さくしの当主である師父しふからその話を聞いたとき、わたしは師父にこう問いただした。

「東宮妃選抜なんて、外戚がいせき同士の政争ではないですか。策子が政争に加担するのですか?」


 わたしの言葉に、師父は笑った。

「そう見えるか?」

「当たり前です。しかも四家のうち、なぜ安家にだけ肩入れするのですか」

 そこで師父はわたしに提案した。

「小雨、この任務はお前に任せようと思う。受けるも受けないも自由だ。そして、受ける場合は、お前が見極めるのだ。今回の依頼が持つ意味を」


 策子とは、もとは春秋戦国時代に生まれた諸子百家しょしひゃっかの一派だ。請われればどんな戦場にも赴くが、そこには大義が必要だ。簒奪さんだつや掠奪にも関わらない。要は道理のない戦いには加担しないということだ。

 そのように筋を通すことで、策子は戦略家の一門として自律を保ってきた。


 わたしは、師父からの提案を保留にしたまま安家に赴き、翠玲と出会い、そして依頼を受けることを決めたのだ——。まぁ、その話はさておき。


 わたしはとにかく、まずは皇后に会わなければ何も始まらないと思っていた。


 当たり前だが、皇后はそう簡単に会える御方ではない。


 例えば、翠玲の宮中入りのご挨拶、という名目で謁見えっけんを申し込めば、断られないかもしれない。


 だが、「皇后に会う」という密命が、そんなことで果たされるとは思えない。内侍府ないじふの宦官や女官らが見ている衆人環視のなかで、皇后に会ったところで、通りいっぺんの挨拶をして終わりだ。


 策子であれば、もっと違う方法で、皇后に会ってみせよ。そんな風に試されていると、わたしは受けとめていた。


 さて、どうしたものか。


 思案していると、陽紗が言った。

「皇后は部屋で過ごすことが多いわね。普段から、音楽や舞踊よりも、書画に親しまれているから」

「陽紗さま、皇后は賑やかなことは、あまり好まれない方なのですね」

「ここ数週間は特にそう感じるわね。東宮妃選抜が始まったから。特定の妃と親しげにして、いらぬ詮索をされるのを避けているのではないかしら」


 おそらくそうだろう。わたしは陽紗の言葉にうなずいた。








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