夢は見ないが馬鹿にする

異端者

『夢は見ないが馬鹿にする』本文

「――じゃあ、またメール添付で送るから暇があったら読んで」

 彼の電話はまたその一言で切れた。

 私はスマホをポケットにしまうと、いそいそと事務所に戻る。

 昼休み明けには、デスクには大量の書類が置かれていた。まだ、半分以上の労働時間がある――この後の仕事のことを思うとそれだけで頭が重くなった。

 私はこの会社の事務所で3年程OLとして働いている。

 まだ3年――若手のはずだが、こうして仕事は大量に回ってくる。それというのも、古い体制を引きずっている会社で、PCもろくに使えない社員が多いせいだ。

 表計算ソフトの数式を扱えないならともかく、ワープロソフトの文字すらまともに打てないような古株の社員が多数。それでいて、若手社員を馬鹿にして顎で使っているからたちが悪い。

 「猫に小判」「馬の耳に念仏」「豚に真珠」……これらにあと10年もすれば「年寄りにPC」が加わるのではないかと思えるほどだ。

 ――しかし、まあ……

 結局のところ、私がするしかない。助けてくれるような有能な者は大抵手が空いておらず、それ以外はネットサーフィンでアダルト画像を漁ったり、占いを見て過ごしているような輩ばかりだ。

 私はどっかりと腰を下ろすと、ため息を付きながら午後の仕事を開始した。


 終わったのは午後9時を回ったところだった。

 窓の外はとっぷりと暗く、すでに大半の社員が帰宅していた。

 残っている者に挨拶をしつつ、足早に事務所を出る。

 ――また、コンビニ弁当かカップ麺かな……作るの面倒だし。

 私は歩きながらそう考えていた。

 本当は、そんな食生活は良くないのだと分かっている。

 だけど、これ以上頑張りたくない。楽に済ませたい。


 帰宅すると、コンビニで買った弁当でさっさと夕食を済ませた。

 そして、PCを起動する――彼からのメール、それにしっかりと文書ファイルが添付されていることに少しだけ満足感を覚える。

 添付されたファイルは、彼の書いた小説だった。


 彼とは、大学生の時に知り合った。たまたま同じ講義を取っていて、隣に座った彼のノートを見たことがきっかけだった。

 その講義は退屈で眠くなって――実際、居眠りしている学生も多数居た。その中で、彼は熱心にノートに書きこんでいた。

「あの……何を書いてるんですか?」

 私は初対面だったので、おずおずと尋ねた。

 どう考えてもそこまで熱心にノートを取るような講義ではなく、書いている内容もおおよそ講義の内容とは似ても似つかないものだったからだ。

「何を書いているか? う~ん、小説……というか、プロットかな? 最初に決める小説の粗筋みたいなやつ」

 彼は小声でそう答えた。

「すごい! 小説、書けるんですか?」

「いや、まだ公募の予選も通らないけどね」

 彼は自嘲気味に笑った。

 それが私と彼の出会いだった。


 それから、彼とは頻繁に会うようになった。

 彼に勧められた本を読んで、彼と一緒に有名な小説が原作となった映画を見に行った。

 何より、彼が自分の書いた作品を私に見せてくれるようになった。彼は小説家になりたいから、読んで問題点を指摘してほしいと言って持ってきた。

 私はいつも、彼の作品の最初の読者だった。

 だが、私と彼は恋人にはならなかった。

 どちらからも、「好き」とも「愛している」とも言わなかった。一緒に出掛けても、それ以上の何かが起こることはなかった。

 ただ、2人で多くの時間を一緒に過ごした。


 社会人になってこうして遠方に就職しても、私は彼の作品の最初の読者でいる。

 今では直接会うことは滅多にないが、こうしてメール添付で送られてくる作品の最初の読者であることは間違いなかった。

 私は送られてきた小説をPCの画面で熱心に読んでいた。印刷した方が目は楽だが、それよりも早く読みたかった。

 今回の作品は短編だったためすぐに読み終わり、私はメールの返信に感想を書いて送った。

 たったこれだけのことだったが、失われた活力がほんの少しだけ戻ってくる気がした。

 会社で死んだ魚の目をして作業をしているよりも、彼の小説を読んで感想を書いている時の方がずっと充実していた。

 今は、彼は私よりも数段小さな会社に就職して、忙しい仕事の合間に小説を書いている。

 もっとも、気を抜いたらすぐに潰れてしまうような小さな会社だから、私の会社のように遊んでいる社員は居ないと皮肉っぽく言っていたが。

 私は冷蔵庫からビールの缶を取り出すと、蓋を開けて煽った。

 今こうしている間も、彼は熱心に書いているのかもしれなかった。彼は未だに夢を持ち続けている。

 私は、正直それが羨ましかった。夢も何もなく、生活のために働いて、疲れて眠る――そんな生活に意義を見いだせなかった。


 一度だけ、会社の同僚に彼の話をしたことがある。

「何それ? ワナビじゃない?」

「『ワナビ』って、何?」

「ワナビって言うのは、そうやって自分は作家になるんだ~って、言って才能もないのにポーズばかりしてる人! 悪いこと言わないから、早く縁を切った方が良いわ」

「彼はそんな人じゃない!」

 この時ばかりは、私は大声を上げて言った。

 同僚はポカンとして私の顔を見ていた。安い居酒屋だったから、周囲の人間もなんだという目で私を見ていた。

 だが、私は怯まなかった。

 夢を持つことの何が悪い! 夢に向かって努力している人間を、何の夢もない人間が悪く言うな!

 そう、彼はポーズで気取っているのではなく、実際に努力していた。自身で書く以外にも、有名な作品を読み漁ったり、文章の書き方に関する研究を惜しまなかった――それも、忙しい仕事の合間に。

 私は言いたいことを言うと自分の分の飲み代を押し付けてさっさと店を出た。

 店の外の風は冷たく、煮えたぎった私の頭を冷やすのにはちょうど良かった。


 それ以降、その同僚とは飲みに行っていない。

 私は空になったビールの缶をテーブルに置いた。

 確かに、彼に才能があるのかと言えば微妙なところだ。予選やら何次選考を通ったという話は聞いたことがあるが、受賞歴はまだない。

 しかし、何の夢もない私には彼の夢が眩しく感じられるのだ。

 何度も落選し、それでも応募し続ける彼――端的に言えば、彼のことは大好きだ。成功せずとも挑み続ける姿はそれだけで胸を打たれた。

 私には、いや周囲の人間にも彼程に夢に対して貪欲な人間が居ただろうか。大半の人間は安全な所に収まると、それでいいと満足してそれ以上を望まなくなってしまう。

 その中で彼は未だに満足せずに上を目指している。


 そんな彼を馬鹿にする権利なんて、きっと誰にもない。

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