第38話 シャツの裾

「先ほどから…」


 男は神妙な言葉尻で言いかけ、少し押し黙った。


「というより、ますみさんにお会いした時からずっと、気になっていたことがあるんですが…」


 澪の心臓は震え上がった。

 心の内が見透かされたのだろうかと、その先を聞くのが怖くて、


「…何、ですか?」


 そろっと男を振り返ったものの、声は上ずってかすれた。


「…いえ」


 男は言うと一度目を伏せ、すぐに穏やかに微笑んだ。


「すみません。何でもありません」


 男の言葉に、澪はホッとしつつも、歯切れの悪さが喉奥に残った。


 澪がゆっくりと立ち上がる際、目に入った充電器の先が、小刻みに揺れていた。


「どうされたんです? 震えていらっしゃいませんか?」


 澪が男の顔を見上げて尋ねると、男はあからさまに顔を背け、充電器を持つ左手首を逆の手でぎゅっとつかんだ。


「大丈夫ですか? 気分が…」


 澪は言いかけ、手を伸ばしたが、


「私に触れないでもらえますか」


 男は低く、早口に言った。肩も、小さく震えていた。


 澪の全身は、冷たい波を立てて凍った。


(そうだった。この方、女性が苦手だったんだわ…)


 澪はうつむき、伸ばしかけた、気づかいという名の浅ましい手を引っ込めた。


 即座に小さく詫び、スマホをサイドテーブルに置いた。


(そもそもこの人は、私を葵ちゃんの恩人だと、勘違いしてる。だから女性が苦手でも、合わせてくれてただけなのに、私が親切だ厚意だと、舞い上がって…)


 消え去りたいと、男の目に映る自分の存在を、いっそ今すぐ消してもらえないかと、澪は思った。


(本当、馬鹿みたい…)


 何を言えばいいのか分からず、澪が黙って床の木目一点に目線を落としていると、


「…違うんです」


 しばらくの沈黙のあと、重苦しそうに男が口を開いた。


「今、…あなたに、触れられたら…。その、抑えられそうに、…なくて」


 男は澪から顔を背けたまま、震える肩のそばの口から、苦しく細く、絞るような声が確かに聞こえた。


「…ぇ」


 澪はかすかな音を空気にまとわせ、男の顔を見た。男は自分から漏れ出た言葉の意味を理解して、ぐっと口を手で覆った。


「すみませ…」


 澪と目が合うと、男はうつむいて、胸のシャツをぐっとつかんだ。


「今の…は、聞かなかったことに、していただけませんか。頭を冷やします。私が部屋を出たあとは、すぐ鍵をかけてください。自分は今、正気ではなくて…!」


 男は吐き捨てるように言いながら、背を向けると、急いで戸口へ向かった。


「待って!」


 澪は思わず男の背中を追いかけた。

 伸ばした手は、背中のシャツの裾を強くつかんで、ぐっと男の身体を引き寄せた。

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次元解放〜澪の物語〜 kei @kei_mizki

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