第37話 無防備

 闇の中で立ちこめる白い霧は、微細な粒となって美しく揺らいでいた。


 澪は、窓越しの儚いきらめきを、時間が経つのも忘れてぼんやりと見つめた。



 開いたままのドアを小さくノックして、男が声をかけた。外の様子を見つめ続ける澪の横顔をしばらく見つめたあと、


「…ますみさん?」

 と、男はもう一度声をかけた。


「あ、はいっ。何でしょう?」


 自分は「ますみ」だったとハッとして、澪は慌てて取り繕い、返事をした。


(この人の声、ほんっと心臓に悪…)


 戸口に顔を向けると、男は風呂から出たばかりの様子で、ラフな服装に着替えていた。


(……嘘)


 あまりに無防備な様子と、優しく繊細な目線に、澪の肌という肌全てが逆立った。


「…お邪魔してすみません。今夜は冷えそうなので、毛布をお持ちしました」


 男はベッドに毛布を、サイドテーブルにミネラルウォーターと、車内で食べたミントキャンディを置いた。


「他に、なにか必要なものはありますか?

女性は夜、何が必要なのか、検討もつかなくて…」


 澪は、奥歯を噛んで平常心を保った。「夜にはあなたが必要です」とかいう、至極つまらないことを口走りそうだった。


 風呂上りで少し紅潮した理想の男が、穏やかに問いかけてきた。動揺しない方が狂っている。


 今の時間、この男の色気を浴びるのは、毒を喰らうと同義語だ。酔っていないはずだが、澪の中の何かが決壊し、暴走しそうだった。


「…あぁ、そうだ! 充電器、ありませんか? スマホの。電池が切れちゃって」


 澪の脳みそは、意外とまともに機能した。


「私の充電器、持ってきます」


 男は微笑んで言うと、向かいの部屋へ移動した。


(危ない…。頭が、おかしくなりそう…)


 澪が深呼吸をしたのも束の間、男は充電器を手に、すぐ戻ってきた。


「使えそうですか?」


 澪は礼を言って受け取り、接続してみようと試みたが、うまく嚙み合わなかった。


「ん? 駄目みたい…」


「見せていただけます?」


 男は澪に近づくと、少し屈んで澪に手を差し出した。


(ち、近っ! 鎖骨、がっ!)


 一番上のボタンがとれたヘンリーネックから、男の角ばった鎖骨が迫り見え、ふわりと石鹸の香りがした。


 澪は目線をずらしてスマホを手渡したが、今度は男のがっしりした手を捉え、思わず意味不明な言葉を発しそうになってしまった。


 谷川で男に手を引かれてからというもの、まともに見ずにいたというのに、こうも近いとどうしようもない。


「これって、最新機種ですよね。私のとはコネクタが合わないみたいです。申し訳ない、お力になれず」


 男は接続部分を確認してそう言うと、澪にスマホを向けた。


(この人の声、ちょっと…。今、近くで聞くのはかなり、…きわどすぎる)


 澪は気もそぞろに、スマホを受け取ろうと手を伸ばしたが、一瞬だけ、男と指先同士が触れた。とたんに男の温かな指先がビクッと動いて引き、スマホは澪の手をすり抜け、床のカーペットへ落ちた。


 男は、あっ、と小さく声を発したが、澪は素早く男に背を向け、手を伸ばした。


「大丈夫です。旅館に戻ればあるので、全然! 気にしないで、大丈夫です」


 そう言いながら、澪はしゃがんでスマホを拾った。決してわざとではない。が、一瞬触れた指先が痺れるように熱かった。


 胸が恐ろしく高鳴って、その体勢のままスマホを強く握りしめ、澪は落ち着け、落ち着けと、何度も自分に言い聞かせた。


「…」


 沈黙が、背中に突き刺さるようだった。


 大切な女の子を、怪我させておきながら、ずっと、自分ばかりが浮き足立って、状況を顧みない馬鹿で、みじめで、澪の目からは涙が出そうだった。

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