第9話 今を生きる私は20歳を迎えました
確か15歳の頃からだったと思う。
自分について考えるようになったのは。
中学3年生、高校進学を考える年。私は全てを諦め夢を見れなくなった。将来に対する希望を失い絶望を知った。
先日ついに20歳を迎え、このエッセイをここでラストにしようと思います。自分の考え、価値観、自分に見えている世界を文字にするために始めたエッセイでしたが、結局1桁台で連載終了です。熱しやすく冷めやすいのは私の悪いところですね。
自分を客観視し始めたのが、冒頭にもあるように15歳の頃からだったと思うので5年ですね。この5年で私は私の事が嫌いになりました。そんな私を写すカメラも嫌いでした。カメラフォルダには友達との写真なんてありません。推しの写真ばかりです。
でも20歳の壁を越えるタイミングで吹っ切れたと言いますか。そんな事どうでもよく感じるようになりました。特に誰かと繋がる意味を問うようになり、今まで考えても理解しきれなかった縁の断ち切りがすんなり出来たんです。
と言っても完璧に切るわけではないんです。「まあいいか」というような執着心がなくなったんです。今までインスタグラムで「誰かを見ている」「誰かと繋がっている」という感覚に救われていたような「私は独りじゃない」と「友達はいる」と思いたい自分がいたんです。だけどそれに執着し続ける理由が今まで分かりませんでした。結局いつかは離れていくのも分かっているのに。
だけど20歳になる前にアカウントを削除してみたんです。すっとしました。何かに執着し続ける自分がいなくなって理解するべきものがなくなったことが。
ずっと憧れだったんです。
SNSに囚われない、独りでも凛々しく生きる女性という存在に。
これは私の脳が古いだけですが、私は幸せな家庭を築くことが夢なんです。子供2人と一軒家。家族らしさ、という言葉を使うのは今の時代許されないかもしれませんが、私は絵に書いたような家庭と、絵に書いたような人生を謳歌して死にたい。そんな中で自分自身の理想像は凛々しい女性なんですよね。
まだまだ垢抜けきれない、大人になる方法もわからず、ただそつなく毎日を過ごすだけの毎日ですが。どこかの話でも書いたように私は今ずっと幸せなんです。
憎悪を言葉にすることは容易ですが、幸せを言葉にするのは難しいです。人それぞれの価値観だから、理解されないかもしれない。
職場の方が言ってたんです。「人は人の不幸話を聞くのもするのも好きだけど、幸せには興味がない」と。私はそれが人間らしくて好きだなーって思うんです。
人間らしさを恥じらいもなく表に出せる人が私は大好きです。
もしこれを読んでいる人が今不幸だと感じているなら私のエッセイを読んで、共感して馬鹿にしてみてください。少しでも生きようと思う糧になれるのならなんでもいいんです。
人が生きている意味なんてないですし、はっきりとはないと思うんです。ただ「誰かのため」なのか「自分のため」なのかははっきりしておくと生きやすいな思います。私が生きている意味は「誰かのため」に私が不憫になっても生きやすくなれればなーという、ただそれくらいなものです。
圧倒的偽善者として自分を満たしながら2024年を大人として、大人を追求しながら生きていこうと思います。
という事で、ここまで読んでくださった方がいればありがとうございました!
今を生きる私は超絶幸せです!
今を生きる私 青下黒葉 @M_wtan0112
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