Set Us Free

 まだ時刻は九時。妹は、彼氏と別れた虚しさを、幾らかのギムレットで埋められていただろうか。

 私は、あの程度では妹を失った悲しみを埋められていない。

 アルコールが血液と共に身体を巡る今、私は頭よりも心で動いている。意識することなく、足は駅へと向かっていた。

 この時間でも駅の周囲は明るく人通りも多い。多くの人の中にいて、私は孤独だ。妹に会いたい。いつでも私の味方だった悠羽に。

 妹の声が聴きたい。

 妹もそう思っていただろうか。しかし、あの日、妹から連絡はなかった。

 もしかしたら、既に連絡したくてもできなかったのかもしれない。

 私は、妹とのやり取りをまた確認しようとした。

「……ない」

 バッグのどこを探してもスマホがない。

 どこかに忘れたのか、記憶を辿ってもまるで頭が回らない。

 私は駅の中に公衆電話を探し、それをすぐに見つけた。

 十円玉数枚でどれだけ話せるかも知らない私は、持っていた百円玉を公衆電話に入れた。

 唯一覚えている電話番号。自分の携帯番号をプッシュする。

 数回のコールのあと、男の声が聞こえた。

「もしもし、落し物の携帯なんですが……」

「あの、それ、私のなんですが」

「ああ、良かった。持って行きますよ。今どちらです?」

「西城台駅です」

 私はホッと胸をなでおろした。

「西城台駅か。結構人が多いですよね。そうだな……ああ、駅前の通りを渡った所に公園がありますよね」

「ええ、わかります」

「そこに持っていきます。自分は辞書片手に持って行きますから。それを目印に」

 目印に辞書とは変わったチョイスだと思ったが、たまたま目の前にあったのだろうと気にしないことにした。

「わかりました。私は、そうですね、白いニット帽と、白いマフラーしていますので」

 寒さのせいと、いくらかの会話をしたからか、私の酔いはみるみるうちに覚めていった。

 頭が回転していく。記憶が蘇ってくる。そうだ。私はスマホを忘れてなどいない。

 私はコンビニに寄ってから通りを渡り、公園のベンチに腰掛けようとしたが、ベンチには雪が積もっていて座れる状態じゃなかった。

 立っていると寒さが身に染みた。

「コーヒーも買ってくれば良かったかな」

 そう呟いた声が聞こえた訳でもないだろうが、思っていたよりも大きな辞書を小脇に抱えた男が、湯気が出ているコンビニの袋を提げて近づいてきた。

「えっと、スマホ忘れた……子かな?」

 違う。

 いや、男が見せてきたスマホは確かに私のものだ。違うのは男の声だった。電話の声とは違う気がした。何かで声色を変えていたのか。しかし、そんな必要はないだろう。きっと今の私のように、マフラーで顔を覆っていたか、マスクでもしていたのだろう。

「はい、そうです」

 私は答えて一歩男の方に進んだ。

「じゃあ、これ。……でさ、お礼をせがむのはアレなんだけど」

 私は今進んだ分の歩幅よりやや大きく一歩下がった。その様子を見た男が首を横に激しく振った。

「いやいや、お金とか、ましてや変な要求する訳じゃないから。いや、変と言えば変なのかな……」

「な、なんなんでしょうか? お礼ならもちろんしますけど、お金ならそれなりにはもちろん」

「いやいや、ちょっと質問に答えてもらいたいだけなんだ。あっ、それより寒いでしょ?」

 男はそう言ってコンビニの袋から、コンビニカフェのコーヒーを取り出した。男がコーヒーとスマホを差し出す。

 私はそれらを受け取りつつ、首を捻った。

「質問ってなんですか?」

 男は辞書をベンチの上に置き、その上に自分のコーヒーが入っている袋を置いて、コートの下でごそごそと手を動かし、名刺入れを取り出した。

「私はこういうことをしていまして」

「脚本家、ですか?」

「ええ。駆け出しですけど」

 なるほど、それで辞書が目印というのに納得した。ベンチの上の辞書は、随分と使い込まれているようで、酷く汚れていた。

「じゃあ、凍えない程度になら。スマホの恩返しです」

 私はそう言って少し笑うと、顔の下半分を覆うように巻いていたマフラーを緩め、コーヒーに口をつけようとした。

「うっ……」

 そう怯えた声を上げたのは私ではない。今目の前で慌てて大きく重そうな辞書を手にし、それを振りかぶっている男だ。明らかに私の顔を見て怯えていた。

 雪がうっすらと積もっている。悠羽の灰のように、少しグレーに汚れた雪が。もしかしたら、悠羽がこの時のために降らせたのかもしれない。

 私は半歩斜めに進み、男の膝の横を斜めに踏みつけるように、蹴りつけた。

 重い辞書を振り上げていたこともあって、重心が高くなっていた男はあっさりと転がった。

「一年前に殺した女の顔を憶えていたのは予想外ね」

 男は私の言葉に「ひぃっ」と情けない声を出しながら、尻を地面につけたまま後退りしている。

「私以外にもこうやって気を失わせて……」

 私は言いながらも腑に落ちなかった。辞書で殴った程度で、確実に気を失わせられるだろうか。いや、そうとは思えない。

 そして、私は自分の手にあるものの正体に気が付いた。これはただのコーヒーではないはずだ。

 私はコーヒーの蓋を取り、男の顔めがけてぶちまけた。

「あっつっ!」

 男は熱さに声を上げ、コートの袖で顔を拭いた。そして、唾液を二度三度と横に吐いた。やはりそうだ。毒物か何かを混入させていたに違いない。

 私は、妹と同じ罠に嵌っていた。

 だけど、それは私が望んだことだった。

 この一年間囚われていたものから抜け出すため、この時を待っていた。

 この呪いの輪の外に這い出るために。

 私はコンビニで買って、肘に掛けておいた物を、両手で握りしめた。

 コーヒーが目に入り、正常な視野を確保できていない様子の男に、忍び足で近づく。そして、男の頭側から回り込み、その頭をしゃがみ込んだ両膝で挟んだ。

「何をっ」

 男の声は私の耳に届かない。

 私が振り下ろしたビニール傘という棘が、男の喉を貫通した。

「ああっ!」

 私の中の悠羽が、壊れたビニール傘を羽のように広げて、復讐を遂げた悦びの声を上げて身震いした。

 シップスミスの白鳥のように。


 やはり私が殺した男は、妹の他にも多くの女性を殺していた。男の部屋からは、複数の被害者から採取した眼球や歯、骨の一部などが発見されたらしい。

 そして、男には共犯者がいた。あのバルで私の横に座った男だ。二人は恋人同士だったようで、拉致した女に見られながらの行為が、最大の悦びだと裁判で語っていた。そしてそれに飽きると、二人で女を殺しながらの行為にのめり込んでいたのだ。

 私は無罪にこそならなかったが、ごく短い執行猶予がついた有罪判決を受けた。殺人という罪を考えると、限りなく無罪に近い。控訴する気もない。

 私は、最後まで計画を隠し通せた。それで十分だ。

 コンビニで買った傘も、あの日の雪のおかげで、凶器として準備したものだとは判断されなかった。

 殺人者に罠を張ったのは、私なのだ。

「やっと自由だよ」

 桜が舞う中、私は墓誌に刻まれた悠羽の字を指でなぞった。

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シップスミスの白鳥 西野ゆう @ukizm

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