シップスミスの白鳥
西野ゆう
Trapped Inside
墓誌に大きく掘られた戒名に、妹の存在は感じない。
私は腰をかがめて、妹の俗名と、没年月日を手袋越しに撫でた。
ちょうど一年前の日付。
同じように妹と二人で、両親の名を撫でていた時の記憶と重なる。妹がもういないなんて今でも信じられない。
私をお姉ちゃん、などではなく「
私も彼女のことは「
「悠羽」
立ち上がって灰色の空を見上げて妹を呼んだ。返事は聞こえない。ただ風で速度を増している細かい雪が、いくつも並んだ墓石と私の心にぶつかる音が聞こえるだけだ。
妹が死んで一か月後。彼女を燃やした煙は確かに空へと昇っていったが、彼女の魂は天にはない。そうとしか思えない。
「あまり刺激しないようにね」
そう言って送り出した時の「大丈夫」と答えた強気な笑顔が、私が見た妹の最後の顔だ。
彼女の死に顔は、誰も見ることはできなかった。ちょうど一年前、妹を殺した人間を除いて。
彼女の遺体を一か月間も保管していた警察署でも、私がその顔を見ることは叶わなかった。
全裸で、全身を刻まれた遺体。
身に着けていたものは何もなかった。所持品も何も。
遺体が発見されたとき、捜索願を出していた私に連絡が来た。
例え顔が潰されていても、歯がすべて抜かれていても、両目が抉られていても、私と同じ遺伝子を持つ妹。
妹が殺されるはずないという言葉は、科学の前で意味をなさなかった。
私は、鏡を見て同じ顔をした妹に会えない寂しさを紛らわしていた。
毎朝、毎晩。
そうしているうちに、私は妹と同一の存在になっていったのかもしれない。彼女の行動を残された日記で追体験しているうちに、日記に書き残されなかった最後の一日が見えてきたのかもしれない。
「いらっしゃいませ。何名様でしょうか?」
「ひとりです」
「お一人様ですね。カウンター席奥へどうぞ」
私は案内されるまま、そのバルのカウンターに腰を下ろした。
一年前、妹は当時付き合っていた男と別れた。私は「今日直接別れ話をしてくる」という妹を少し心配していた。
妹の彼氏は暴力を振るうような男ではなかったが、やや妹を束縛していた。だから「刺激するな」とだけ注意した。
当然その話は警察にもした。だが、その彼氏は半日程度話を聞かれただけで、疑いは全く持たれなかった。
妹と別れた直後から、自宅に帰るまでの間、本人の供述通りの場所で証言や監視カメラで確認が取れ、翌日から三日間海外に渡っていた男に、妹を殺すどころか、会う機会さえなかったからだ。
私は一年前で止まっている、妹とのやり取りをスマホで見返した。もう何度この画面を眺めただろう。何度この言葉を読み返しただろう。
「思ってたよりあっさり終わっちゃったよ。逆にこっちが泣いちゃって。少し気分を落ち着かせてから帰るね」
間に絵文字やスタンプを挟んで送られてきた妹からの最後のメッセージ。
私の「気を付けて」という、さほど心のこもっていないスタンプに対して直後に付いた、既読の文字が妹の最後の息吹だ。
「ご注文はお決まりですか?」
メニューを見るでもなく、スマホばかり見ていた私に、カウンターの中から店員が声をかけてきた。
「ギムレットとミックスナッツ」
店員は私のオーダーを聞いて、腕時計に目を落として苦笑した。
「はい、ギムレットとミックスナッツですね。少々お待ちください」
午後七時。きっと店員は「ギムレットには早すぎる」と思ったのだろう。私だってそう思う。すきっ腹に飲むカクテルでもない。
だけど、あの時の妹なら、あの頃の妹なら、きっと別れの直後にはギムレットを飲んだに違いない。
先にミックスナッツが、薄茶色のクッキージャーから皿に移され、カウンターに置かれた。
「はい、ミックスナッツね」
「ありがとう」
私は出された皿からカシューナッツをひとつ摘み、水で口の中を潤したあと、ゆっくりかじった。噛むほどに甘くなるカシューナッツを味わいながら、店員の動きを眺めた。
背後の棚に並んだ複数のジンの中から、シップスミスを手にした。
蒸留機の上部のベンド部分を「スワンネック」と呼ぶが、このシップスミスのラベルは、蒸留器のスワンネックに、白鳥の頭部が描かれている。その白鳥の顔の横には、ジンの材料になる実をつけたジュニパーベリーがある。
ジュニパーベリー。日本で言うネズ、あるいは鼠刺しと呼ばれる植物だ。
その棘のような葉がついた枝で、ネズミ避けとして使われていたという。
私がシップスミスのラベルに目をとめている間に、店員はコーディアルライムにシュガーも加えたシェイカーを振り終えた。
シェイカーからカクテルグラスに、外を舞う細雪のような液体が、私の鼓動のような音を伴い空中を渡っていく。シェイカーで砕けた氷が、ギムレットの空に舞う雪になる。
グラスの中に私を見た。私はその私ごと一気に喉の奥に流し込んだ。
「お代わりください」
空になったカクテルグラスのフットに二本の指を乗せ、カウンターの向こうに押し出した。
一気に飲んだ私に少し驚いている様子だったが、まだ一杯目だ。すぐに笑顔を浮かべてシェイカーを振ってくれた。
私は、私の周りにジュニパーベリーを張り巡らせていた。それでも、その棘を避け、あるいは踏み潰し、一人の男がひと席挟んで隣に座った。私とその男の間の席には、私のバッグが置いてある。
そのバッグを自分の膝の上に置くのは気が引けた。そうしたらすぐに男は席を詰めてきそうな勢いだった。
「一人飲み、ですか?」
言葉遣いは丁寧だ。眼差しにもいやらしさは無い。服装も、髪型も、ごく普通のサラリーマンのように見える。
「ええ、いつもひとりですから」
視線を動かさず答えた私に、男も正面を見たままオーダーを告げていた。
それ以降も当たり障りのない会話を繰り返したと思う。
何杯飲んだのか。酩酊しそうになりながらも、私は目的を忘れていない。
一年前の妹を辿る。
「ご馳走様でした」
「お水、よろしいですか?」
気を利かせた店員が、水と伝票を同時に私の前に差し出した。そして、財布から札を抜き出しだ時、初めて隣の男と目が合った。
何か言われるかと思ったが、男は何も言わず、ただ手にしていたタンブラーを軽く私に向けて掲げた。私はそれに会釈で返す。
妹も、ここでは何も無かったのだろうか。そもそも、この店に来たかもしれないというのも私の予測だ。
店を出ると、寒さはさらに厳しさを増していた。
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