失恋で傷心真っ只中の女、バレンタインで愛に気づく

@tuji1111ichi

その女、傷心につき。

カレンダーの日付を前にして、三木谷 沙織は目を見開いた。


 ここのところ残業続きで、毎日の楽しみが残業手当の皮算用になってしまっていたせいだ。世間が浮かれている様も、自宅と職場の往復では気づけなかった。

 

 それに輪をかけるように、沙織はSNSの類も一切していない。今頃珍しい古風な、もっと率直に言うと時代遅れの人間の典型である。

 

 だからこそ、尚更忘れていたのだ。


「もうすぐバレンタインだった‥‥‥」


 独身貴族を謳歌するべく買った、最新式の洗濯機が懸命に稼働している音をBGMに、沙織は固まる。


 同じく奮発して手に入れたダイソンの掃除機が、勢いよくフローリングの床めがけて倒れ、不愉快な音を立てた。


いつもなら真っ先に床の傷を気にする沙織だが、今はそれどころではない。


 今日は日曜日。平日は完全に社畜と化している自分を労わろうと、好きなワインとつまみを片手に、昼から飲もうと意気込んでいたところだ。


 酔っぱらってしまえば、月曜日を目の前した憂鬱も少しは吹き飛ばせるという算段である。


 それも全て、家事の合間にふと目にしたカレンダーが狂わせた。

 

 母だ。母に電話しよう。

 

 慌てて、久しぶりに実家に電話をかける。沙織の母も娘と同じく、時代についていかない人間である。ともすれば、携帯は常に家の居間に置きっぱなしだ。

 

 数回のコールの後、「はあい」と母が電話に出た。保育士上がりの母は、何をするにも可愛らしい節で話す癖がある。それが今は無性に沙織を苛つかせた。


「もしもし?お母さん。あのさ、忘れてたんだけど…今年も、やるのよね?」

「え?なあに?やるのよねって?」

「バレンタインよ、バレンタイン」


 娘の苛々とした様子が一行に伝わっていない様子の母は、「ああ!」と少女のような声をあげた。


誕生日会を提案された女の子さながらの、うきうきとした様子を連想させ、沙織の眉間に益々皴が寄る。


「そうよ、今度の土曜日、こっちに戻ってきてね。お父さん、楽しみに待ってるから」


 うう、と沙織は声にはならないくぐもった呻きをあげた。



 話は、沙織が高校生の頃にさかのぼる。


 沙織は両親との間に生まれた、大事な一人娘として育てられた。遅くにできた子どもだったからか、愛情は限りなく与えられたと今でも思っている。


母はやや天然なところはあるが優しかったし、父も学業の成績には厳しかったが、基本的には甘かった。学校行事には両親揃って必ず駆けつけ、思春期にもなると気恥ずかしい思いもした。


 けれど、まあそれもしょうがないか、と沙織は達観していた。両親の愛情をこれだけ受けているのだから、一人っ子たるもの、それぐらいは引き受けようと思っていたのである。

 

 三木谷家で今でも語り継がれるそれが勃発したのは、10年前の2月15日。

 

 いつになく機嫌の悪い様子の父は、夕飯の時からずっと黙りこくっていた。「お父さんどうしたの?」「知らないわよ」母と娘が視線でそんな会話を交わしていることにも気づかない様子で、里芋の煮っころがしを機械的に口へ運んでいく。


 いつもだったら、母に対して「美味しい」と必ず伝える父にはあるまじき状態だ。

 

 沙織は何げなくリビングに目をやった。やや古くなったラグの上に置かれたロ―テーブルに、きっちりと畳まれた洗濯物が並んでいる。


 流石に女性陣の下着には手をつけないが、洗濯物やアイロンがけといった家事は父の担当だった。料理はどうしても上手くできないらしく、父は主に家の掃除全般を賄っている。


 無心になれるからか、休みの日でも暇さえあれば掃除機をかける父を見て育ったせいか、沙織も家の掃除にはあまり苦にならない性格になった。


 普段通りのようで、いつもとは違う父親。沙織はそんな父を気味悪く思いながらも、「お父さんもたまにはそういう日もあるよねえ」と呑気に構えることにした。


 メーカー勤めの父は、技術者としての腕は確かながら、中間管理職としての人心掌握には不得手なようだった。このところ晩酌の量も増え、体型も緩やかに変化していくのを沙織も知っていた。


 当たらず触らずが一番。食事を終えたらさっさと自室へあがろうと思っていた時だった。


「…のか」


 ようやく口を開いた父に、沙織と母が注視する。


「もう、俺のことはどうでも良くなったのか。二人とも」


 暫しの沈黙が三木谷家の食卓を支配した。お味噌汁が冷める、と頭の片隅で考えながら、沙織は父の言葉を反芻した。


沙織の思考を先取るように、母が「孝明さん、それってどういう意味なの?」と相変わらず間延びした口調で話しかける。

 

 父がふん、と拗ねたように鼻を鳴らした。


「くれなかったじゃないか」

「さっきから何言ってんの、お父さん」


 要領がつかめない父の話に、じれったくなった沙織がそう言った途端、父がビールが半分以上残っていたグラスを乱暴に掴む。その勢いで食器同士がぶつかり、がちゃんと音を立てた。母が「大丈夫?テーブル汚れていない?」と腰を浮かせたのと同時に、父が叫ぶ。


「バレンタインのチョコだよ!!」


 父の言葉に、「は?」と沙織は思わず声が出てしまう。


「何で今年はくれなかったんだ!」

 

 続けて父が感情を野放しにしながら訴えた。普段はどんなことがあっても自身をコントロールし、飼いならしているように見える父のその態度に沙織は怯えた。


まるで我が子が急に反抗期を迎えた瞬間のようだ。


 一方、母は「なあんだ」と、事態の重さはこれっぽちも感じさせないようにしながら、父を諭し始めた。こちらはさしずめ、ベテランの猛獣使いといった風体を見せている。


「だって孝明さん、この前から健康診断の結果、すごく気にしてたじゃない。お菓子も最近控えているし。だから沙織と話して、今年は遠慮しとこうねって言ってたのよ」


 うんうん、と沙織も同調の姿勢を全力で示すべく、ややオーバー気味に頷いた。


「そうだとしても…バレンタインは‥バレンタインは…」

「なあに。いつもそんなに楽しみにしてたの?」

「お父さんって、チョコそんなに好きじゃないと思ってた」


 呆れた様子を微塵も隠さない女性陣に、苛々した様子で父は首を振った。


「そういう問題じゃない‥‥‥」


 未だにもごもごと口ごもる父に、母がぴしゃりと言ってのける。


「そしたら、また改めて準備するわ。孝明さんも、ショックだったならちゃんと言ってくれたらいいじゃない。いきなりそんな態度取られたら分からないでしょう」


 はい、と父は項垂れる。両親の意外な上下関係をも垣間見た鮮烈な記憶として、沙織の胸の中に未だにくっきりと刻まれている。



そんなことがあってから、母と沙織は毎年バレンタインには父に何かしらプレゼントを欠かさないことを暗黙のルールとすることにした。


父もお返しをちゃんと用意するタイプだったので、沙織としてはそれも楽しみの一つであった。


 沙織が社会人になってからは当日渡すということは中々叶わないので、バレンタイン直近の週末に実家に顔を出し、家族で食事するというのがここ数年の恒例となっている。


 ただ、今年だけはどうしても気が進まない。沙織は着替えるときも化粧をするときもぐずぐずしてしまい、いつもより30分以上身支度に時間をかけた。さながら、登園を渋る幼児のようだと、我ながら呆れてしまう。


「今年だけは勘弁してくれないかなあ…」


 一人暮らしの誰も受け止めてくれない空間に、救いを請うように呟いてみた。いいよ、と誰かが言ってくれるのを期待してみたが、勿論そんな反応がある方がホラーだ。


 沙織が、チョコレート業界の一大イベントに対して、こんなに憂鬱なのには訳がある。絶対に結婚したいと思っていた彼氏と別れてから、初めてのバレンタインだからだ。


 会社の同期入社の男だった。笑ったときに少しだけ刻まれるえくぼがチャーミングで、細身の身体に良く似合う、センスの良いスーツや小物を常に身に着けていた。


 当然のように、女には苦労していなかった様子だったので、沙織は勝手に「まあカッコいいけど私には縁がないな」と判断していたタイプでもあった。


 それがある飲み会の帰り道、「実は三木谷さんともっと話したいと思ってて」と打ち明けられた時の高揚感を、沙織は未だに忘れることができない。


 そこから転がるように恋に落ちた。沙織は化粧品や服へに投資が日に日に増えた。学生時代は目もくれなかった脱毛サロンも通い始め、カメラロールが彼との写真で埋め尽くされた。何しろ、いつ撮っても絵になる男だったのである。


「いつ籍を入れようか。会社にいつ報告しようか」


 そんな妄想を繰り広げ、幸せの先取りに夢心地だったときだ。沙織が急に振られたのは。


「ちっくしょー」


 沙織は呪いの言葉をぶつぶつと吐きながら最寄のデパートへ向かった。催事場に行けば、選びきれないほどのチョコレートが売っていることは間違いない。


 人混みを嫌になりながらも、売り場へと到着する。そこにずらりと並んだショーケースと、この日のために集められたスタッフ、そしてお目当てのものを探しに来たと思われる老若男女を目にした途端、沙織はう、と吐き気を催した。


「この中に入ったら私、死ぬかもしれない‥‥‥」


買ったチョコレートを渡した時を想像しながら、真剣に選ぶ人々の横顔を見るのが辛い。


その先にある幸福を、今にも掴もうと意気込んでいる人。そして既に幸せの目的地に辿りつき、変わらぬ愛しさを届けるためにこの場を訪れる人。


 本当は、自分も同じように、彼にチョコレートを選ぶはずだったのに。


 別れた日のことが不意に思い起こされる。もう自分に興味がない瞳。『思ってたのと違った』と言われた時には「何言ってんだこの男は」と沙織も怒りで眉間に深すぎる皴を作りながら震えるほどだった。


「もういい、分かった。じゃあ別れよう」


 捨て台詞のように、話を切り上げた。何を言っても無駄だというのが、彼の言葉やさりげない仕草から痛い程伝わってきたからだ。


逃げるように入ったチェーン店のカフェで、一番安いホットティーを注文した。


 席に着いた途端、涙が溢れた。


『実は三木谷さんともっと話したいと思ってて』

 

 そう言ってくれたあの時の彼は、どこにもいない。その事実を心の中で反芻する度、沙織は身体の中心を思い切り掴まれ、ぎりぎりと締め付けられるような苦しさを味わう。


自分だけが、置いて行かれてしまった。


思わず後ずさりした沙織は、会場に入ろうとした誰かとぶつかった。


「あ、ごめんなさい!」


 反射的に謝りながら振り返る。眼鏡をかけた、いかにも人の良さそうな父親と、幼稚園ぐらいの年齢の女の子の二人連れだった。


はぐれないようにという予防策か、二人はしっかりと手を繋いでいる。


「大丈夫ですよ、こちらこそすいません」


 逆に謝られて恐縮する沙織に、女の子が屈託のない笑顔を向けた。ピンクのもこもことしたフードがついた上着を着た女の子は可愛らしく、愛されて育ってるのを感じさせた。


失恋で絶賛傷心中の女と違って、笑顔に陰りがない。比べる方がおかしいか、と沙織は自嘲気味に内心で笑った。


「お父さんとチョコレート買いに来たの?」

「うん」


 沙織の問いかけに、女の子はややもじもじと恥ずかしそうに答えた。


「パパに、あげるの」

 

 あらやだ、かわいい。思わず父親の方を見ると、先ほどよりも分かりやすく相好を崩している。絶対に結婚式で号泣するタイプだ、と沙織は会って数分も経たないうちに決めつけた。


「どうしてもデパートで選びたいって聞かなくて、ね?」

 

 女の子は父親にじゃれつくようにして後ろに隠れる。どうやら恥ずかしくなったらしい。


「良いのが見つかるといいね」


 女の子がこくりと頷くのを見てから、沙織はバイバイ、と手を振った。父親に促されるようにして女の子も手を振り返してくれる。二人はぴったりとくっつきながら、会場の中へと入っていった。手はしっかりと繋がれたままだ。


ふと、沙織は昔のことを思い出した。


 あれはいつだっただろう。半袖だった気がするから、恐らく夏か、秋の始まり頃か。外で一人で遊んでいた沙織は、ばち、と激しい痛みに襲われた。何が起きたか分からず泣いていると、父が血相を変えて飛んできた。


「蜂か!」


 それから、父は沙織を抱きかかえると、懸命に走り、近くの病院まで連れて行ってくれた。車を使わなかったのは完全に気が動転していたらしい。あの時の父の体温。点滴を受けている沙織の額を撫でながら、心配そうに見つめてくれた瞳。


 バレンタインにチョコレートをくれなったと言って拗ねた、存外子供っぽいところのある父。


 もう一度、人混みの中を見つめる。

 そうだ、バレンタインは恋人同士だけではない。私にとっては、イベントにかこつけた、お父さんへの感謝デーでもあったんだ。

 

 踵を変えそうとしていた足を、もう一歩更に進める。失恋をひきずったままの痛みが消えたわけではない。けれどその痛みの上からもう一枚、ブランケットのようなもので包まれたような感覚に沙織は陥る。


 去年お父さんにあげたチョコってなんだっけ。首を捻りながら、記憶と予算を擦り合わせる作業を脳内で繰り広げる。


 催事場が、さっきまでとはまるで違う場所に思えた。


「お母さん?うん‥‥買った。ねえ、お父さんって、なんであんなにバレンタインチョコ欲しがったのかな。‥‥‥えー?うそでしょ?そんな理由?うん、帰ったら聞いてみる…」


人混みをかき分け、沙織は紙袋を揺らしながら歩く。週末に会う両親の顔を思い浮かべると、分厚い毛布が自分の身体をすっぽり包み込んでくれるようだ。


 電話越しの母も、心なしかいつも以上にはしゃいでいた。正月に会ったばかりなのに。もっと連絡入れるべきなんだろうな、と沙織はこれまで何度も思いながらも実行に移せない自分を恥じる。


 時間が経つにつれて益々混んできた催事場を後にするため、出口に向かって歩みを進めた。


「愛の祭典かあ」


 催事場にこれでもかと飾られた販促用ポスターの言葉をなぞる。一人暮らしの部屋とは違い、小さな独り言は喧噪にかき消された。


その代わり、その言葉は沙織の体内をぐるりと柔らかく温かいもので満たし、ゆっくりと溶けていく。


 どこからともなく漂う甘い匂いが、沙織の足取りを後ろから包むようにして後押しをした。


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