第68話 京極局、秀清の名を呼ぶこと

 凱旋軍のなかには長江義景の、いたって無事な姿もあった。


 馬上のかれは上機嫌このうえなく、たびたび郎党にむかってきつい冗談を言い、大笑いを発した。

 景義を害しようとの当ては外れたが、素晴らしい軍功を立て、新領を手に入れたのである。


 宇佐美実正の姿は見えなかったが、実正は奥州に残留して戦後処理を行なっている。

 北陸道の大将軍として、鎌倉権五郎の子孫に恥じぬ戦働きをした実正に、景義は兵糧に添えて、祝い物とねぎらいの手紙をすでに送ってあった。


 御所の門前では、於政が女たちを引き連れ、夫の到着を今か今かと待ちわびていた。

 ついに勇ましく騎乗した頼朝の姿が見えると、涙をこらえ、どうにか威厳を保ちながら一礼した。

 女たち、雑人たちも、こぞってそれに倣った。


 白地しろじ花紋はなもん水干すいかん姿の頼朝は、颯爽と馬をおり、かれの御台所を胸に抱き寄せた。

「よくぞ留守を守ってくれた」


 あれ、と、小娘のように於政は顔を赤らめた。

「これを」と、竜胆りんどうの花を差し出した。


 ひとつの株にたくさんの花を集めて咲いている。

 その青い花を、いっそう深みを増した瞳で、頼朝は、そっと受け取った。


「……毎日、心配で心配で、胸がつぶれる思いでした……」

 於政の言葉を聞いて、頼朝は快活に笑った。

「旗揚げ以来、こんなことは幾たびもあった。慣れたものであろう」

「いっこうにッ、慣れるわけがありましょうか」

 於政はありったけの力をこめて夫の胸をどんと叩き、その襟元に甘く顔をうずめるのだった。


 子供たちが来て、ひとりひとり、竜胆の花を差し出した。

 数え十四歳の大姫、八歳の万寿まんじゅ丸、四歳の三幡さんまん姫……頼朝は笑いながら片腕に於政を抱きかかえ、もう片方の腕に、出迎えてくれた子供たちをひとりづつ、愛情をこめて抱きとめた。


 御所のあちらでもこちらでも、再会の喜びの声があがっていた。


「あ、わが殿です。藤沢の陣ですよ。それではあれが千鶴丸では?」

 美奈瀬みなせ御前が声をあげ、京極局きょうごくのつぼねの肩をゆさぶった。


 まるで姿の変った秀清なのに、母はいっさい一切見間違うことなく、その瞬間、涙にあふれた瞳を袖で隠した。

 美奈瀬に支えられながら、懐紙で目元を拭い、まじまじと見つめ、それからもう一度、わっと泣いて、近づいてくる秀清を抱きしめた。


 照れくさる秀清に、涙声でいそいそと母は言った。

「御台所様が、あなたのために、小家を用意してくださっています」


 秀清は、母の顔を見て言った。

「御台所様とは先ほど、一瞬、目が合ったのです。そうしたら、私のことがお分かりになられたのか、にぃっ、とお笑いになられました。ご挨拶しようと思ったのですけれど、二品様と一緒に御所に入ってしまわれて……」


「そうでしたか。きっと、御台所様はあなたのことがわかったのだろうと思います。後で、ちゃんとお礼に伺いましょう。さ、今は早速、小家のほうへ……」

 京極局は秀清をきたてるように小家に連れてゆくと、ようやくその姿を上から下までつくづくと眺め、感激にむせんだ。


「秀清」と、母は初めて、新しい名を呼んだ。「無事のお帰り、御慶ぎょけいでございます」

「母上もお元気そうで、安心しました」

「あなたも元気そうで……」

「女官のみなさまにもご挨拶したかったのですが、ゆっくり挨拶もできませんでしたね」


 それを聞いて、母はすこし複雑な表情を浮かべた。


「急いであの場を立ち去ったのには、わけがあります。あそこには、さまざまな思いの女性たちがいました。わたしのように息子を待つ者、夫を待つ者、親を待つ者、恋人を待つ者……。ですが私たちのように、喜びが待っている者ばかりではありません」

「あ……気がつきませんでした……」


 母の心遣いに感動し、秀清は深くうなずいた。

 もしかれが昔の千鶴丸であったならば、自分のことに精いっぱいで、母の言葉の意味が理解できなかったかもしれない。

 しかし今やかれは、戦場帰りの一人前の男になっていた。


 このちいさな家の板塀に囲まれて、母子は心置きなく、無事の再会と、いよいよ訪れた栄華とを喜びあった。

 井戸水をたらいに張って、秀清は体を拭い、新しい直垂ひたたれに着替えた。


 その夜は侍所で解散式があり、兵たちに祝い酒がふるまわれた。

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