第66話 有常、野営地にて

 鳳凰旗ほうおうきが、幾流も幾流も秋風に吹き流れているのは、波多野の野営地である。


 有常は甲冑姿のまま鎧櫃に腰掛けると、雑色から竹筒を受け取り、水をひとくち含んだ。

 ほっと安堵のため息をつき、守り袋から、多羅葉の葉を取り出した。


 ――じらう、みを、ややこ


 ずっと心の支えにしてきたお守りである。

 すこし黄ばんで、繊維が縮み、いっそう硬くなっている。


(なんとか生きて帰れそうだよ)

 とがった葉先を唇に当てた時、盛益が呼びに来た。


「殿、波多野の大殿がお呼びです」

「うむ、すぐ行く」


 波多野の大殿――波多野五郎義景は、有常の大叔父である。

 この人は治承の戦乱の頃は、源氏にも平家にもつかず、都に雌伏していた。

 賢く世の流れを見極めて後、鎌倉方に合流した。


「まあ、兜を脱げ」

 五郎義景は親しげな様子で、有常を招き寄せた。

 ふたりは勝利の美酒を酌み交わした。


 戦勝の上機嫌のなかで、老武者は言った。

「有常、私はそなたの武者ぶりが、おおいに気に入った」

「ありがとうございます」

 と、有常は凛々しく顔をひきしめた。


「流鏑馬の頃から考えていたのだが、どうだ? 帰ったら正式に、私の息子になるか」

「息子に?」

「どうだ?」

 思いがけぬ言葉に、有常は喜んで答えた。

「はい。大叔父上のお心、嬉しく思います」

「そうか。好きな娘を選んでよいぞ」

 有常は、ぎょっとした。


「好きな娘?」

「私の娘たちだ。そなたも会ったことがあろうが?」

「それはどういう?」

「もちろん、結婚して、婿になれ、ということだ」

「し、しかし、私には松田に妻が待っておりますれば……」

「なに、かまわぬ」

「そういうわけには……」


 五郎義景は、まあ落ち着け、と、若い有常の肩に腕を回した。

「有常。私はそなたの身を案じているのだ。そろそろ、そなたも正妻を持たねばならぬ」

「……」


 黙り込んだ有常に、義景は諄々と説きかけた。

「そなたの妻は、一応、大庭殿の娘とは聞いているが……卑賤の者とも聞いた。これからそなたは、松田の地をとりしきってゆかねばならぬ。それがどういうことか、わかるか?」


「もちろんです。罪人としてふところ島に隠居していた間、私は農事のことも詳しく学びました。収穫を管理し、しっかりと領主としての役目を果たしていこうと、肝に銘じております」

「私が言っているのは、そんなことではない」

 と、義景は遮った。


「私の言いたいのは、松田の御亭ごていのことだ。あの御亭は、特別だ。都から鎌倉へ来る貴賓きひんは、必ずあの御亭に泊まる。その時に、ものごとのわからぬ娘では、お役目が果たせまい。鎌倉が招いた貴賓に失礼があれば、そなた、ただでは済むまいぞ。私の娘たちは、宮中の作法も礼法も、教養も、よくよく仕込んである。松田の領主となるということの意味は、そういうことぞ」


「……」

 有常は言葉を失った。


「有常。私の息子となれ。そうすれば、私がなにごとにも力を貸そう。なに、今の妻と別れよ、と言っているのではない。役に立つ妻をもうひとり増やせ、と言っているのだ。波多野もそれで安泰になる。そなたもそのような形で、ふたたび波多野家に戻ってこれば、御先祖方に顔向けもできよう」


 義景は、有常の肩を強くゆさぶった。

「私もいつまで生きていられるか、わからない。早い答えを期待している」

 義景は、寛容な笑顔を見せながら言った。


 青く冷たい空を、長い雁の列がよぎってゆく。

 深く考え込んだ有常の目の前で、戦乱の秋が、しずかに暮れようとしていた。

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