第七章  落葉 (らくよう)

第64話 有常、戦場を進むこと

第三部 救 済 編


第七章 落 葉




   一



 遠い鎌倉には、阿津賀志あつかしの勝報も、千鶴丸元服の朗報も、いまだ届いてはいない。


 八月はづき十五日には、鶴岡八幡宮の大祭が、例年のごとく開かれた。

 兵として、人足として、男たちの姿が忽然と消えた鎌倉であったが、それでも通例どおりに流鏑馬やぶさめが行われた。

 人は集まらず、ひっそりとしたものであった。


 馬場元には五重塔がすでに完成し、人々の祈りを集めるようにして、朱塗りの輝きを放ちながらそびえ立っている。


(見物が少ないからといって、手を抜くでないぞ。この戦のさなか、ひとつでも多くの生命が救われるよう、心をこめて流鏑馬を御奉納ほうのうするのじゃ。戦時の今こそ、むしろ責任はいつにも増して重大である)


 父の景義に言われた言葉を思い出しながら、景兼は今、流鏑馬やぶさめ射手として馬場に駆け入ろうとしている。


(二品様、平次殿、清近先生、有常兄、千鶴丸、葛羅丸……みなの御無事をお祈り申しあげます)


 景兼は弓束ゆづかを強く握ると、気勢を吐いて馬の腹を蹴った。

 人馬は一体となって、らちの内へと飛び込んだ。





 ――戦線は日を追って、北へと移動してゆく。


 身も世もない女の悲鳴が耳に飛び込んできて、有常は咄嗟に馬を止めた。

 叫び声のありかを探しながら馬を駆けさせると、胴丸を身につけたふたりの男が、獣のように泣きわめく娘を、森陰へ引きずってゆくところだった。


「やめぬかッ」

 叫びながら有常が追いすがると、半首はっぷり姿の男たちは怪訝そうにふり返り、顔を引き歪め、有常を睨みつけた。


「糞野郎」

 それだけ言うと、男たちは有常を無視し、娘を連れ去ろうとする。

 その目に、正気の光はない。


「待てッ、勝手な略奪は軍令で禁止されている。お前たち、いずこの郎党か?」


 男たちは背をむけて、答える様子もない。

 有常は仕方なく、弓を向け、二本の矢をくの字に手挟み、連射の構えをとった。

「わが名は、松田次郎有常。先祖代々の弓矢取り。この距離で、狙うた矢は外さぬ。瞬時に二本の矢を放ち、そなたらの胸に打ち立てる。そなたらは自分が死んだことにも気づくまいぞ。この奥州の果てに死体を晒すか、その娘を置いて早々にここから立ち去るか、どちらかを選ぶがよい」


 男たちは憎々しげにふり返り、口汚く罵った。

「若造が、そんなにこの女が欲しいかよ」

「母開、地獄に落ちろッ」

 最後の悪あがきとばかりに、男たちは娘の体に手を出して悲鳴をあげさせると、しつこく悪態をつきながら立ち去った。


 娘を気遣って有常が馬からおりる、その一瞬の隙に、娘は脱兎のごとく逃げ去った。



 また別の場所で、有常は戦場に置き去りにされた赤子を見つけた。

 辺りには人の姿は見当たらなかった。

 かれは郎党頭の盛益もりますと、思い迷うように目を見合わせ、結局、赤子を抱いて行軍をつづけた。


 やがて街道沿いの集落に親切そうな夫婦を見つけると、赤子の世話を頼んだ。

 幸いなこと、夫婦は素直に引き受けてくれた。

 有常は食糧に銅銭を添え、赤子をいだかせた。


 毎日のようにどこかしらで戦闘があり、死体を見ぬ日はなかった。

 親を失った子供たち、子を失った親たち。

 戦火の黒煙が、無常の空に吹きなびく。


 有常は、西行のことを思った。

(御師様。数年前、あなたが辿ったのとまさしく同じ道を、今、私は辿っている。あなたが辿ったとき、この道は仏の道だったことでしょう。私が通る今、この道は哀しいかな、修羅しゅらと地獄の道だ)


 騎乗の有常の目の端を、かさ卒塔婆そとばが流れ過ぎてゆく。


 それは昔、奥州藤原氏の祖、藤原清衡きよひらが造らせたもので、黄金の阿弥陀仏をえがいた木製の標札である。

 小さな寺堂の形に似せて、装飾具を垂らした小屋根と、雲形のふち飾りに覆われている。


 この笠卒塔婆は街道の道標みちしるべとして、なんと驚くべきことに奥州の北端から南端まで延々数百里にわたって一町おきに建てられている。

 それは奥州全土の平和を願う、始祖藤原清衡の、大きな祈りと願いに他ならなかった。


 長の年月を風雨に晒され、今では黄金の色もせたその笠卒塔婆が、有常と鎌倉軍との行く果てに、途切れることなくつづいている。





※ 母開 …… この時代の、最悪の罵り言葉のひとつ。いわゆる、mother fxxker。

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