第63話 頼朝、経文を読み終えること

――ときは、今にめぐ



 頼朝は、長い経文を唱え終わった。

 多賀国府の一間である。

 心は落ち着きを取り戻していた。


 ふと思い立って、先ほどの景義からのふみを取り出し、いま一度、読み返してみた。

 奥州合戦の勝利祈願のあとに、文面は、こう続いている。


(あの御嘆きの日から、すでに十余年の歳月が過ぎ去りました。

 今でも私は、千鶴丸ぎみと八重姫公のご命日には、必ず閼伽あかの御花をお供えし、ご供養を欠かしたことはござりませぬ。


 この文を持たせし者、奇しくもおなじ千鶴丸という名にてござります。

 弱年ながら、武勇に秀でたる者でござります。

 この者、四歳の幼稚の折、治承の合戦で兄の河村義秀が処断されましてからは、流浪の日々を送って参りました。

 奥州合戦という重大の節目に、かような少年が現われるというのは、二品様をお守りしようと千鶴丸公、八重姫公が天からお遣わしくださったのやもしれませぬ。


 どうか亡き千鶴丸公、八重姫公のご供養とおぼし召されて、この者の罪をお許しになられ、御家人の列にお取立て下さりませ。

 景義、心より懇願申しあげます)


 頼朝は、文を折り畳んだ。


(景義、あれから十余年になるか……。於政と、そなたらがおらねば、私はとてもあの地獄の苦しみを乗り越えられなかっただろう。いや、今でも乗り越えられているのかどうか、わかりはしないけれども――)


 頼朝は立ちあがり、遣戸やりどを開いた。

 冷やりとした清らかな夜風が胸に染み入ってくる。

 庭におりて高みを見あげれば、透きとおった天空に、まばゆいばかりの星々が満ちあふれていた。


(千鶴丸、私は今日、そなたと同じ名のわらわを許しました。嗚呼ああ……千鶴丸、於八重……そなたらは天に居て、私を許してくれるだろうか。……許してはくれまい。とても、とても……)


 手に届きそうで届かぬ星明かりのなか、頼朝はなお、過ぎ去りし日々を夢想しつづけた。

 おぼろと消えたあの頃の幸せの甘い香りを、なんとかもう一度たぐり寄せようと、いたずらに追想を重ねつづけるのだった。

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