第62話 真珠が淵のこと

 挙兵より一月ひとつきほど前――熱暑きわまる七月ふみづきのことである。


 狩野川からひと筋の支流が別れ、守山の南麓に、淵を成している。

 一粒の真珠のようにうるおいめいたその淵を、里人は『真珠ヶ淵しんじゅがふち』と呼んでいた。

 あろうことかその淵に、ひとりの女が身を投げた。


「おい、沈んだぞっ」

「どこじゃどこじゃ」

梯子はしごじゃ、梯子を持ってこいッ」


 人々が立ち騒ぐなか、女のころもの色は見えなくなり、ついに二度と浮かんでくることはなかった。

 深く静かにたたずんだ淵の内奥には、思いも寄らぬほど激しい暗流が、渦を巻いていたのである。


 ――頼朝はその時、於政と庭に出て、幼い姫を遊ばせていた。


 騒ぎに気づくや、藤九郎をひきつれて、興味本位に真珠ヶ淵に行ってみた。

 居合わせた人々の話を聞いているうちに、どういうわけかひどく不吉な胸騒ぎがして、みぞおちのあたりを抑えこんだ。

 頭を打ち痺れさせるような蝉時雨が、塊となって降りそそいでいる。


 藤九郎が、ひとりの痩せた女を連れてきた。

 女は紫色の唇をこまかく震わせ、今しも三途の川から這いあがってきたばかりのような……表情のない、暗く冷え切った怖ろしい目で、頼朝の顔を見た。

 思わずッとして、頼朝は、二歩、三歩と後ずさった。


「知っている……私は、この女を知っている……」

 声がかすれ、うわずった。


「飛び込んだのは?」

 頼朝は尋ねた。

 女は青ざめ、身を震わせている。

 聞こえなかったのか――


?」

 自分の不吉な想像が、間違ってくれることだけを願い、頼朝は尋ねた。


 ――女は、告げた。

「八重姫サマ……」


 天が裂け、大地が崩れたかのような激しい眩暈めまいが、頼朝を打ちのめした。

嗚呼ああ……ッ。やはりそうだったか、やはりッ……私を許してくれ、どうか……どうか、於八重おやえ……千鶴……)


 頼朝は藤九郎に支えられながら、どうにか踏ん張ると、侍女の口から事の仔細を聞き出した。

 八重姫は江間小次郎の妻となって後、ほとんど笑うこともなく、喋ることもなく、涙に明けくれる陰鬱な日々を送っていたのだという。


 数日前のこと、八重姫は突如、侍女らを引き連れて伊東の館を抜け出し、峠の難路を苦しみながら辿り、今日、ようやく北条まで辿り着いた。

 北条の屋敷をのぞきこみ、頼朝の姿を一目見るなり、侍女たちを置き去りに突然に駆け出し、そのまま身投げしたという。


「八重姫さまは、佐殿が北条の姫君と結ばれ、御子まで生まれたことも存じあげておられました。それでもただ一目、ただ一目だけお姿を見たいと思い詰められて……」


 侍女の言葉は、激しい慟哭のなかに断ち消えた。

 その言葉のうちに頼朝は、自分への非難のひびきを、確かに聞いた。


 夜が来た。


 頼朝は明かりもつけさせず、部屋の隅に影のように横たわり、うずくまっている。

 於政は暗がりにむかって、ひとつひとつ、いたわりの言葉をつむいだ。


「八重姫と御子とのお弔いのために、霊殿たまどのを建ててさしあげましょう。法音尼殿に、お経をお頼み申しましょう。あなたが悪いのではありませぬ。わたくしがおりまする。いつまでも、わたくしがおそばにおりますれば……」


 苦しみに丸まった頼朝の背を、於政はいつまでもいつまでも、さすりつづけるのだった。




※ 真珠院 …… この時、北条政子が建てた霊殿は、真珠院というお寺として、現在も残っています。八重姫は不幸な女性たちの守り神となり、現在も信仰を集めています。

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