第61話 兼隆、頼朝を嬲ること

 三島神社からの帰り道に、頼朝は背後から呼び止められた。


「おい、罪人」

 ふり返ると、それは平兼隆たいらのかねたかであった。

 ずいぶんと羽振りがよいらしく、糊のきいた、つやのある着物を着て、たくさんの小者を従えている。

 対してこちらは、藤九郎だけである。


「……和殿とて、罪人ではないか」

 頼朝が言うと、兼隆は、せせら笑った。

「知らないのか。私は罪を赦され、この度、国司の代官となったのだ。が高いぞ」

 そして、もう一度、「罪人」と呼ばわった。


 頼朝は煮えくりかえる気持ちをどうにか収めると、半眼を閉ざし、背をこごめ、軽く頭を下げた。


 兼隆はふいに態度を変え、勤め人めいた、まめまめしい態度を見せた。

「そなたの奥方にな、お礼をお伝え願いたい」

「……お礼……」


 ふふ、と兼隆は笑った。

「以前な、そなたの奥方に、ずいぶんと尽くしていただいた。そのお礼だ」

「そのようなことが……」


 高笑いした兼隆は、唇を舐めながら言った。

「上手であったぞ、於政は。私の言うなりに、どんな姿でも見せてくれた。私のほうでも、随分と秘技を尽くしてかわいがってやったから、しどけない声をあげて、悶え悦んでおったわ」


「愚弄するかッ」

 藤九郎が、いつになくえた。


 大笑いして兼隆は、小者たちのほうにふり返った。

「そうそう、佐殿すけどのは、水練がお好きとのことじゃ。お前たち、かの殿を、川べりにお連れしろ」


 小者たちはいっせいに頼朝と藤九郎のまわりによってたかり、ふたりを力づくで川辺に引きずっていった。

 そして、水のなかに突き落とした。


 兼隆が足をふりあげて蹴るふりをすると、爪先から汚泥が飛んで、頼朝の目玉を潰した。

 わっと湧き起こった嘲笑のなか、頼朝は薬指を千切れるほどに噛んだ。




 北条に戻るやいなや、頼朝は、

「ほんとうに何もなかったのか」

 と、於政を問い詰めた。


 於政は笑って、

「そんなもの、謀略たばかりにすぎませぬ。あなたを疑心暗鬼にさせ、わたしたちの仲を引き裂こうとしているのです」

 と、冷静に説いた。


「本当だな?」

 身を迫らせて、しつこく尋ねる頼朝に、於政は品のよい顔でうなずきかけた。


「すべてを捨てて、伊豆山に駆けつけた私を、信じてください」

「うむ……」

 頼朝は、信じるしかなかった。


 しかし……それから三月の間、かれの内に情欲の焔が燃え盛った。

 於政の若くなめらかな肌の上に、香りたつ肢体に、兼隆の幻影を見つづけた。





 兼隆は、於政にたばかられた事件以後、山木郷の流人屋敷に暮らし、山木兼隆と呼ばれるようになっていた。


 梅雨つゆのそぼふる五月さつき――以仁王の乱によって伊豆国の源氏勢力が滅ぶや、この罪人の男がなんと、国司の代官に抜擢された。

 一躍、権力者となったのである。


 かれは早速、屋敷を立派なたてに改築した。

 先ごろの恨みをもって、北条と頼朝にたびたび嫌がらせをした。


 北条と山木……この両者は狩野川を挟んで、急激に、内圧を高めていった。

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