第59話 頼朝、烏帽子売りを励ますこと
「男に?」
「そう、家からいなくなりました」
「それは……お気の毒……といいましょうか……」
「伊豆山に参ったもうひとつの理由は、『娘を家に戻してほしい』と、権現さまにお頼みに参ったのです」
「ひどい男も、あるものですな……」
頼朝が魂の抜けたような声を絞りだすと、烏帽子売りは首をふった。
「いえいえ、もとはといえば、私が悪いのです。男と娘はだいぶ以前から言い交わしておったようなのです。しかし私は、その男がどうも気に食わなかった。娘に不釣合いなような気がしましての。その男がわが家に災いをもたらすのではないかと、恐れたのです。
それで、別の者を娘の婿に、と自分勝手に決め、娘と無理矢理めあわせようと、手を尽くしました。すると娘は、あろうことか、家を逃げ出して、自分の男の所へ飛んで行ってしまったのです」
こぽこぽ……湯の湧き出る音が、絶え間なく響いている。
異様な心持ちに襲われながら、頼朝は話のつづきを待ちわびた。
「……私は激怒し、娘を勘当することに決めました。だが、ひと月、ふた月、み月も経つと、だんだんと心も冷静になってきて、自分のしたことの身勝手さにも、思い至るようになりました」
烏帽子売りは、大きくため息をついた。
「私は娘に許してもらいたいのです。今や私は一大決心をしました。相手の男を
だが、私が今一番心配しているのは娘の身の上なのです。右も左もわからぬ相手の男の家で、いったいどのように暮らしているのか? 貧しさに腹をすかしておるのではないか? 男に苛められてはおらぬか? 病に苦しんではおらぬか?
私は娘を咎める気は、もはやない。娘をかどわかした男を咎めたり、ましてや害しようという気もない。婿として、祝福してさしあげたい。ただただ、私は娘に謝りたい。許してほしい、と伝えたい。しかし私には、娘に近づく
烏帽子売りは悩ましげに、両手で顔を覆いつくした。
男の声に聞き入っていた頼朝は、確信をこめ、相手を力づけるように言った。
「あなたはなんとしても、娘さんのもとへ行くべきです。行って、今のように、あなたの素直なお心を打ち明けるのです。真実は言葉にこもります。きっと、あなたの誠実な気持ちは伝わります」
烏帽子売りは顔をあげ、蒸気のむこうから、ふるえる目で頼朝を見つめた。
「娘と婿は、私のことを許してくれましょうか……」
「今のように
「あなたがその男なら、そうなさるか?」
「わたしがその男なら、そうするでしょう」
烏帽子売りはしばらく考えこんだ後、ふっと肩の力を抜き、鷹揚な笑みをうかべた。
「つまらぬ話をしました。どうも湯に当たったような気がします。酒に酔ったような心地です。お先にあがらせていただきましょう」
今しも、頼朝の鼓動は恐ろしいまでに高まっていた。
白い湯気を巻きながら、ざんぶとあがった大きな背中へ、思い切って、声を
「北条の……四郎殿か?」
ゆっくりと、裸の男はふり返った。
「いかにも。北条四郎時政とは、私のこと」
――瞬間、頼朝の全身の毛穴から、どっと汗が噴き出した。
時政はすぐに湯殿の隅に膝をつき、
「
伊東や平家のことは、お気になさらずともよい。ひとりのつわものとして、この北条四郎時政、あなたの身をお引き受けしましょう。どうか、娘ともども、わが北条家にお入りくだされ」
頼朝も湯から飛び出るや、時政のかたわらに膝をついた。
「どうか、どうか、頭をあげてください、北条殿。『許してくれ』とは、私の言葉です」
「いえ、もはやなにもおっしゃ仰いますな。すでに、あなたのお心もちは、
その夜、時政は娘に会い、静かな心持ちで山上の
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