第58話 頼朝、霊湯につかること

 神域の、人知れぬ山上で、頼朝と於政は蜜月の時を過ごした。


 景義がやってきて、藤九郎の吉夢を夢解ゆめときしたのも、この頃である。

 たちまち三月みつきが過ぎた。


 ある朝、山小屋を出た頼朝は、いつものように拝殿に参拝し、師僧の覚淵に挨拶した。

 しかる後、僧たちに入り混じって読経をはじめた。


 ふと気がつくと、寺堂の隅に、白い浄衣じょうえをまとった見慣れぬ俗体の男が、巻物を繰りながら、懸命に読経の声をはりあげている。

 全国から伊豆山にやってくる修行者は多い。

 身分も境遇もさまざま。

 頼朝は気にも留めず、ひとり、日課の読経を行うためにその場を離れた。



 夕刻になって、湯殿で熱い湯につかっていると、

「無垢霊場、大悲心水、沐浴罪滅、六根清浄……」

 と不慣れに唱えながら、どぷんと同じ湯に入ってきたのは、今朝、寺堂で見かけたあの男であった。

 四十代くらいであろうか。

 裕福に肥えている。

 頼朝は、湯のなかでやや腰を浮かせた。


「湯につかるのは、心地ようござりますな。伊豆山ならではの、ご利益りやく。ありがたや、ありがたや」

 男は独りごとのように言って、ふぅうと深いため息をもらし、頼朝に人懐ひとなつこそうな笑みを見せた。


 その笑顔に釣り込まれ、頼朝は尋ねた。

「よくいらっしゃるのですか?」


「いえ、それほどでは……。もうだいぶ前になりますが、妻を亡くしましてな。かねがねその妻のために、名高い伊豆山で経をあげてやりたいと思うておりまして……ようやくその願いが叶いました。あなた様は?」

「最初の登山とうざんから、かれこれ三、四年、滞在させてもらっております」

「それはお長い。出家はせぬのですか?」


 頼朝は、首を横にふった。

「……正直、私のように在俗の垢にまみれきった者が、出家して仏に近づくなどと、かえって畏れ多く感じるのです。とはいえ、私にも信仰心があります。私に出来うるかぎりは仏の教えを守っていきたいと、そう考えているのです」


「そのお気持ち、わからぬでもありませぬな。近頃は僧体といえど、乱脈、破戒の者がいかに多いことか。それに比べれば、あなた様はより深く、物事を考えていらっしゃる」

「いえ、生悟りです……」

「……なにはともあれ、修行のお長いあなた様を先達せんだつと仰がせていただきましょう」

「いえいえ、滅相もない。あなたのほうが私より、人生の道の先達でありましょうから……」

「なにをなにを」

 男はカカと笑った。


「私は三島で、烏帽子を商っております。あなた様は?」

「私は……」

 頼朝は口ごもった。

「……尾張おわり国の神主かんぬしの息子です。仔細があって、こちらで修行させていただいております」

 と、適当なことを言った。


「左様ですか。しっかりと読経に励んでいらっしゃいましたな」

「あなたも、ご熱心に」


 烏帽子売りの男は気持ちよさげに、自分の顔に湯を浴びせかけた。

「このように権現さまの湯のなかでご一緒するのも、なにかのご縁でござりましょう。あなたを先達と見込んで、私の身の上話など、させていただいてもかまいませんかな」


「ええ、どうぞ、お聞かせください。……私はあまり世のなかのことを知りません。世の話を聞かせていただくのが、私にとってなによりの修行になります」

「なに、そう堅苦しい話でもないのです」

 と、烏帽子売りは屈託もなく話しはじめた。


「……先ほど、亡くなった妻の話をしましたでしょう。その妻とのあいだに、娘がひとりおりましてな。本当に、目に入れても痛くないと申しましょうか。ハハ、こう申しては親馬鹿と思われることでしょうが、容姿が優れているばかりでなく、賢く、元気があって、それはそれはかわいい娘で。

 わたしは商いで、たびたび京に行くこともあるのですが、あれは三歳くらいでしたかのぅ、京から帰ると、娘は私に飛びついてまいりましてな。土産などには目もくれず、『ちちうえ、もうどこへもゆかないで、ゆかないで』と私の腕にかじりつくのです。ほんとうに、かわゆくてかわゆくて仕方がない。あなた、お子はおられますか?」


「はい。私にも娘がひとり」


「おお……ならば、わしの気持ちをおわかりくださることと思います。あの娘は、わたしの命の分身です。あの娘のためなら、火にも水にも飛び込む気持ちでおります。地獄の鬼にだって、立ち向かうでしょう」

 頼朝は心から賛同し、うなずいた。


 烏帽子売りは、微笑みつつ言った。

「そのかわいい娘も、今や妙齢となりました」

「お幸せなことですな」

「……禍福はあざなえる縄のごとし、と申します……」


 ふいに訪れた沈黙に、見ると、烏帽子売りの顔が暗く沈みこんでいる。

「娘さんに……なにかございましたか?」

 男はしばらくのあいだ黙りこんでいたが、ようやくのこと、打ち明けるように言った。


「……男に、かどわかされましてな」

 ぎくりとした頼朝は、他人事とは思いつつ、額にふき出た汗を、指の腹でぬぐい取った。

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