第58話 頼朝、霊湯につかること
神域の、人知れぬ山上で、頼朝と於政は蜜月の時を過ごした。
景義がやってきて、藤九郎の吉夢を
たちまち
ある朝、山小屋を出た頼朝は、いつものように拝殿に参拝し、師僧の覚淵に挨拶した。
しかる後、僧たちに入り混じって読経をはじめた。
ふと気がつくと、寺堂の隅に、白い
全国から伊豆山にやってくる修行者は多い。
身分も境遇もさまざま。
頼朝は気にも留めず、ひとり、日課の読経を行うためにその場を離れた。
夕刻になって、湯殿で熱い湯につかっていると、
「無垢霊場、大悲心水、沐浴罪滅、六根清浄……」
と不慣れに唱えながら、どぷんと同じ湯に入ってきたのは、今朝、寺堂で見かけたあの男であった。
四十代くらいであろうか。
裕福に肥えている。
頼朝は、湯のなかでやや腰を浮かせた。
「湯につかるのは、心地ようござりますな。伊豆山ならではの、ご
男は独りごとのように言って、ふぅうと深いため息をもらし、頼朝に
その笑顔に釣り込まれ、頼朝は尋ねた。
「よくいらっしゃるのですか?」
「いえ、それほどでは……。もうだいぶ前になりますが、妻を亡くしましてな。かねがねその妻のために、名高い伊豆山で経をあげてやりたいと思うておりまして……ようやくその願いが叶いました。あなた様は?」
「最初の
「それはお長い。出家はせぬのですか?」
頼朝は、首を横にふった。
「……正直、私のように在俗の垢にまみれきった者が、出家して仏に近づくなどと、かえって畏れ多く感じるのです。とはいえ、私にも信仰心があります。私に出来うるかぎりは仏の教えを守っていきたいと、そう考えているのです」
「そのお気持ち、わからぬでもありませぬな。近頃は僧体といえど、乱脈、破戒の者がいかに多いことか。それに比べれば、あなた様はより深く、物事を考えていらっしゃる」
「いえ、生悟りです……」
「……なにはともあれ、修行のお長いあなた様を
「いえいえ、滅相もない。あなたのほうが私より、人生の道の先達でありましょうから……」
「なにをなにを」
男はカカと笑った。
「私は三島で、烏帽子を商っております。あなた様は?」
「私は……」
頼朝は口ごもった。
「……
と、適当なことを言った。
「左様ですか。しっかりと読経に励んでいらっしゃいましたな」
「あなたも、ご熱心に」
烏帽子売りの男は気持ちよさげに、自分の顔に湯を浴びせかけた。
「このように権現さまの湯のなかでご一緒するのも、なにかのご縁でござりましょう。あなたを先達と見込んで、私の身の上話など、させていただいてもかまいませんかな」
「ええ、どうぞ、お聞かせください。……私はあまり世のなかのことを知りません。世の話を聞かせていただくのが、私にとってなによりの修行になります」
「なに、そう堅苦しい話でもないのです」
と、烏帽子売りは屈託もなく話しはじめた。
「……先ほど、亡くなった妻の話をしましたでしょう。その妻とのあいだに、娘がひとりおりましてな。本当に、目に入れても痛くないと申しましょうか。ハハ、こう申しては親馬鹿と思われることでしょうが、容姿が優れているばかりでなく、賢く、元気があって、それはそれはかわいい娘で。
わたしは商いで、たびたび京に行くこともあるのですが、あれは三歳くらいでしたかのぅ、京から帰ると、娘は私に飛びついてまいりましてな。土産などには目もくれず、『ちちうえ、もうどこへもゆかないで、ゆかないで』と私の腕にかじりつくのです。ほんとうに、かわゆくてかわゆくて仕方がない。あなた、お子はおられますか?」
「はい。私にも娘がひとり」
「おお……ならば、わしの気持ちをおわかりくださることと思います。あの娘は、わたしの命の分身です。あの娘のためなら、火にも水にも飛び込む気持ちでおります。地獄の鬼にだって、立ち向かうでしょう」
頼朝は心から賛同し、うなずいた。
烏帽子売りは、微笑みつつ言った。
「そのかわいい娘も、今や妙齢となりました」
「お幸せなことですな」
「……禍福はあざなえる縄のごとし、と申します……」
ふいに訪れた沈黙に、見ると、烏帽子売りの顔が暗く沈みこんでいる。
「娘さんに……なにかございましたか?」
男はしばらくのあいだ黙りこんでいたが、ようやくのこと、打ち明けるように言った。
「……男に、かどわかされましてな」
ぎくりとした頼朝は、他人事とは思いつつ、額にふき出た汗を、指の腹でぬぐい取った。
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