第56話 於政、手鏡をのぞくこと

 また別の日、台盤所たいばんどころを手伝っていると、れんが気づいたように「あら……」と、於政の顔を見ながら言った。


「姫、すこし痩せましたね」

「そう?」


 れんはくすくす笑って、「恋せば痩せぬべし」と、流行り唄を口ずさんだ。

 からかう幼友達を、於政は軽くこづいた。


(本当に、痩せたのかしら……)

 一生懸命に手鏡をのぞいている於政を見て、頼朝は不審がった。

「どうした、鏡ばかり見て」


「歌にもありますでしょう? 恋したら痩せるって……」

「はは」

 頼朝は軽く笑って、寝所に寝転びながら言った。

「知ってるか、於政。あの歌は、足柄あしがらの神さまの、哀しい物語なんだよ」

「どんな物語?」

 於政は手鏡を置いて、恋人のほうを見た。


 頼朝は、そのままの姿勢で語りはじめた。

「……足柄の神が、愛しい妻を亡くしたんだ。その妻にどうにかもう一度会いたい……そういう一心で、妻が使っていた手鏡を一生懸命のぞきこんで、鏡のなかに愛しいひとの姿を捜した。だけど鏡に写るのは、げっそりと面痩おもやせした自分の顔ばかり……。だから、『恋せば痩せぬべし、恋せずもありなむ』という歌詞なのだよ」


「どういう意味ですか?」


「『今、私は妻を心から恋い慕って、げっそりと痩せ細っている。今この瞬間の狂おしいほど切ない気持ちに比べれば、昔、私が妻に対して抱いていた恋心など、とても恋とは呼べない。妻を亡くした今だからこそ、わかる。――本当に恋するということが、どういうことなのかが』ってね。恋する相手を亡くして、本当の恋を知ったとき、痩せる……そういう、お話さ」


 横目でちらりと見ると、滔々とうとうと静かに、於政が涙を流していた。

 頼朝はびっくりして身を起こした。

「おいおい、どうした……」

 初めて見せる涙だった。


 於政は、もどかしげに身をよじった。

「……わかりません……」

 ただただ悲しくなって……どうしようもなく涙がこみあげてくる。


 頼朝は於政に身を寄せ、安心させるように、しっかりと抱きとめた。

「大丈夫だ。ただのお話さ」

「……ええ、わかって……います……」


 発作のような嗚咽は止まず、愛しい人の腕に包まれたまま、若い於政はいつまでも泣きじゃくっていた。





 頼朝は伊豆山から、北条に足繁く通った。

 三郎宗時、小四郎義時……於政の弟たちが味方をしてくれた。


 春になって、桜の盛りも過ぎる頃、藤九郎が思わしからぬ顔つきでやってきた。

「国内で大きな合戦がありました」

「いずこか」

「大島です」

「大島? ……まさか……」

「そのまさかです。佐殿の叔父上、保元合戦で大島に流されていた八郎為朝公が滅ぼされました。官軍は五百騎。工藤茂光、伊東祐親……」


「祐親、あの男……」

 頼朝は取り乱した。

 手の動きはおろおろと、視線はゆらゆらと、言葉はうつろに宙をさまよった。

「本気だったのだ。私も危なかった……」

「罪人を滅ぼし、手柄顔で平家に媚びいる所存でしょう。身辺、お気をつけを」

「……」


 頼朝はしばらく警戒して、伊豆山の奥ふかく引き篭もっていたが、祐親に目立った動きはなかった。

 北条では於政が、玉のようにかわいらしい赤子を生んで、瞬く間に月日が流れ去っていった。


(春は嫌いだ……春が近づくと、憂鬱になる……)


 年が暮れるたびに頼朝は思ったが、それはあるいは、予感だったのかもしれない。

 その春、かれの前に、四年前とまったく同じ状況が現出した。

 今まで不在であった於政の父、北条時政が大番の務めを終えて、都から帰って来るというのだ。


 頼朝、於政、景義、藤九郎、盛綱、宗時らは、額をあつめて話しあった。

「幼い姫を北条に置いておいて、大丈夫であろうか」

 顔を蒼ざめさせながら頼朝が言うと、於政は強い口調で答えた。


「父上は、よもや幼な子を殺すようなお方ではありませぬ。父上がご帰宅あそばされたら、背の君のことは、わたしがきっぱりと話をつけます」

「……そ、そうか。心強い……」


 八重姫とは異なる、於政の毅然きぜんとした態度に、頼朝は内心驚いた。


「しかし」

 と、景義が助言した。「人は激情に駆られれば、普段からは考えられぬような行動をとることもございまする。御前ごぜん、お父上の挙動、くれぐれもご注意なされよ。……万一の折には、御前も姫君を連れて、伊豆山へとお逃げなされ」

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